三十一、花祭り後編
闇夜に浮かぶ灯籠は遠目から見るとまるで散りゆく花びらのようだ、と明藍は思った。
今頃、いつも通りに事が運んでいれば大灯籠に火を灯す役割を全うしていたのだろうが、前代未聞の事故のおかげでそんな体力は残っていなかった。
「・・・もう起きて大丈夫なのか」
ゆっくりと振り返るといつぞやの街歩きの時のような仕立てのいい服に着替えた高明が立っていた。
「ええ。おかげさまでだいぶ楽になりました」
そうは言っても、まだ起き上がるのでやっとだ。現に今も欄干にもたれかかっていなければ体がだるくて立ってられない。殺すならば今がまたとない好機だろうが、どうやらここは皇宮内にある宮のひとつらしい。わざわざ象を嗾けて明藍を消そうとするような輩が並大抵の警備とは比較物にならないこの場に来るとは到底思えない。
まだ捜査の初期段階だから詳しいことはわかっていないらしいが、一つだけ確実なのは明藍がつけていた簪には象が理性を失くすと言われている木の樹液が大量に塗布されていたことだ。やけに甘ったるいにおいがすると思っていたが、まさかそれが象を嗾けためだとは誰一人気付くことなどできず、まんまと策にのってしまったしまった。そのあまりに姑息な手段に呆れやくやしさを通り越して怒りがこみあげてくる。今回の一件で怪我をした人間も少なからずはいたのだ。死者が出なかっただけ、幸運というしかあるまい。
「そういえば、下では化身さまは本物の花娘々(ホアニャンニャン)ではないかと持ちっきりだったぞ」
「ははっ、残念ながら正体は一介の術師ですよ」
明藍が王都にいた残りの象を一気に倒した後、街の形状を元に戻したことで祭りは再開した。おかげで魔力は完全に底をつき、化身どころではなくなったが、こればかりは仕方がないと急遽媛媛を代役に立てた。
まあ、あれだけ破壊された街を半刻で元に戻したのだ。魔術をよく知らぬ者からすれば神の力に見えてもおかしくはない。この国は魔術によって成り立っていると言っても過言ではないのに、その機密性の高さから市井で理解できている者などほんの一握りしかいない。そのせいか、市井で術師を名乗ったとしても占術師との区別がつかず、占術を頼まれることが多かったりする。
つい先日聞いたばかりだが、霍老師も占術で生活していたらしい。ただ老師の場合は人を占うのはもちろん、博打でその能力を大いに発揮していたようだが。ちなみに、現皇宮術師が同じことをやれば懲戒の上、収容所行きの大罪だ。
「あっ」
思わず声が漏れた。
先ほどから空に吸い込まれていく灯の中、他のものとは比較にならないほどはっきりと見える大きさの灯がゆっくりと空へと舞い上がる。その姿にほんの少し突っかかっていたものがほどけていくのがわかった。
「大灯籠か」
「・・・はい。あれは途中で消えてしまわないように火の周りに風封じの術をかけるので中々難しいんです」
急に指名してしまったため、練習する暇もなかっただろうに。霍老師の下でみっちりと修行しているとは聞いていたが、これは意外と早く化けるかもしれない。何はともあれ来年の化身はこれで決まったも同然だろう。序盤に明藍が手を貸さなければならないのは違いないが、それでも化身の役を降りれるのは有難いことだ。
高明が椅子を持ってきてすぐ隣に腰を下ろす。対して明藍はというと、窓辺に腰掛けている。その姿は控えめに言っても淑女からは程遠かった。
こういうところが育ちの良さだよな。
失礼ながらあの李将軍と血がつながっているとは到底信じられない育ちの良さである。それは明藍だけではなく、一度でも将軍と顔を合わせた者ならば納得してくれるだろう。
彼を見習わなければと思うが、どうにも体が怠くて椅子まで持ってくる元気はなかった。せめてと少しだけ背筋を伸ばしてみせるが、すぐに力が抜けて元通りになる。これはしばらく使い物にはならない。せっかく休暇を取って、玉麗と共に梅雪の出産祝いを見繕わねばと思っていたのに。取り急ぎ、出産の沙汰があれば祝いの文だけは届くように手配しておこう。それから─何か考えていなければならないのに、何も思い浮かばない。
なんでもいいからと思考を巡らせていると、異母妹からの怒り狂った文に返信していなかったことを思い出して一気に気が重くなる。
基本的に自分に向けられる悪意は心地いいものではないが、異母妹のものは特に苦手だ。彼女自身というよりも、その後ろに見え隠れする者たちを思い浮かべるだけで大きなため息が漏れそうになる。
「まだつらいのであれば寝ておけ」
どうやら漏れてしまっていたらしい。
「っ・・・大丈夫ですので」
伸びてきた腕に思わず体を揺らす。
一歩身を引くと、何やら名残惜しげに腕が戻っていく。しかし、それを見て見ぬふりをする。何か話を変えねばと明藍が切り出す。
「・・・今回の件、どうなさるおつもりですか?」
「俺にもまだわからぬ。ここまでされれば悪意の有無にかかわらず普通の国なら国交断絶で間違いないが・・・」
高明が言い淀むのも無理はなかった。
今回の象たちは、来賓として招かれていた尹砂国の王族からの贈物だった。尹砂国はその名の通り国土のほとんどを砂に覆われた国であるが、とにかく鉱物の産出量が群を抜いて多い。しかもその中で特に多いのが金だ。金はどの国でも重宝されており、もちろんこの国もかなりの量を尹砂国に頼っているため強くは出られない。
「順当に行って、取引価格の引き下げ交渉ってところでしょうか」
「それならまだましだろう」
声に苦々しさが現れる。
お咎めなしとまでは流石に行かずとも、相手にとっては痛くも痒くもないような処罰しか与えられないのだろう。国と国の間で起こった問題は、いつの間にか話がすり変わり戦にまで発展することは珍しくない。政治には積極的に関わり合いを持たない明藍でもそれくらいはわかっている。
大灯籠の姿が見えなくなった。となると、次は─
「・・・すみません。やはり体調がすぐれないので少し休みます」
本当は先ほど真が太燕飯店の花祭り限定の蓮の実餡が入った包子を大量に持ってきてくれたためこの瞬間も徐々に回復してきているが、何よりこの二人っきりという状況がよろしくない。あえて顔を合わせないようにしていたことへの気まずさとなによりこの後行われる最終催事が問題だった。
しかし、一刻も早く出て行ってもらわなければとそわそわし始める明藍を他所に高明は動こうとしない。
「・・・・高明さま」
「なんだ」
そっけない返事をするだけで、こちらを見ようともしない。まさかこの後何があるか知らない・・・なんてことは考えられない。王都で暮らしていれば童でも知っているようなことだ。彼が何を考えているのかは知らないが、もたもたしている時間はない。
「ほら、花火が始まりますよ」
「ああ、そうだな」
「・・・・花火ですよ?」
「ああ、花火だな」
尻を叩いたつもりだったが、全く擦りもしていない。それどころか軽くあしらわれている。しかしなぜ高明がこの部屋から出ていかないのか、考えられることはひとつ。
「今からでも謝られたらどうです?」
「・・・・・なんの話をしている」
やっとこちらを向いた高明は怪訝そうに眉を寄せていた。
「静麗さまと喧嘩でもなさったのではないのですか?」
「何故そこで静麗が出てくるんだ」
「何故って、婚約者ですよね?」
別に婚約者と見なければいけない決まりはないが、普通はは婚約者のような特別な人と見るべきものだ。
花祭りにおいては、二人で花火を見ることはつまり一生を共にすることと同義である。そんな大事な場面にいない婚約者など興醒めを通り越して失望してしまう。そこに情が全くなければ話は別だが、あれだけ仲睦まじく寄り添い歩いていたのだ。情がないわけがない。
だからほら、早くその重たい腰を上げてさっさと部屋から出て行ってくれ。
しかし、明藍の願いは虚しく、高明は豆鉄砲を食らった鳩のようにぽかんとしている。その姿はどことなく最近ご無沙汰になった豆豆を思い出す。当たり前だが皇宮内では伝書鳩ではなく、使いの者がやってくる。明藍としては可愛くもない人間の男よりも、気の知れた鳩の方が嬉しい。
「どうかなさいました?」
片手で額を押さえる高明の顔色を伺おうとするも、もう片方の手で制される。大人しく待っていると、やっと見えた目はいつもの半分ほどに細められている。
「あいつはそういうものではない」
「・・・婚約者ではないのに、あいつ呼ばわりですか」
慌てて口を押さえるが、すでに滑り出した心の声を戻すことはできない。
だが、実際この国で一番尊き方の縁である皇族をいくら年下とはいえあいつ等と呼べる者はそうはいない。それこそ同等かまたはそれ以上の存在のみが許される。高明も慌てて口を噤んだところを見るとよろしくないという意識はあるらしい。
これは互いになかったことにしよう。
婚約者でなければどんな関係性なのかと気にならないといえば嘘になるが、皇族絡みは下手に首を突っ込まないことが長生きの秘訣である。
明藍は早々に結論づけると何事もなかったかのように話をすり替えようとしたが─如何せん話題がない。何か話題をと頭を捻っていると、頭に何かが刺さった。一体なんだと手を伸ばそうとして、ふと漂ってきた香りに動きが止まる。まだ熟しきっていない果実の青臭さと喉が焼けるほどの甘さを持つ蜂蜜が絶妙に混じりあったような香りだ。
機械仕掛けの人形のように顔を上げると海の底よりも深い瞳には戸惑いを隠せない一人の女が映っていた。何もついていなかったはずの頭には、何かが着いているのが分かる。
これは何なのか、これをどうしたのか、この意味は何なのか。聞きたいことはたくさんあるのに、言葉は一向に詰まって出てこない。混乱している、これまで生きてきたどんな場面よりも。
「案ずるな、決して盗んだものではない。今回の迷惑料として貰ったものだ」
高明は口元を緩めると、伸ばして手で頬を撫でた。触れた部分から紐をほどくかの如く、するすると力が抜けるのがわかる。そこで初めて自分の顔がこわばっていたことに気付くほど、明藍にとって今の状況は理解不能だった。
「・・・・・なぜわたしなのですか」
やっと振り出した声は驚くほど小さく、掠れていた。
「さあな。俺にもよくわからん。ただ、気付いたらお前のことをいつも考えていた。それだけだ」
あっけらかんと言い放たれ、それ以上明藍は言葉が出てこなかった。
だってそれではまるで自分と同じではないか。
ぐっと胸が詰まる感覚に思わず視線を逸らそうとするが、すぐに頬に添えられた手がそれを阻む。先ほどよりも顔が近づいた気がするが、それを指摘するほどの余裕はない。
形の良い薄い唇が動いた。そして、
「・・・・だ」
「え?」
どーんと雷でも落ちたかのような音が闇夜に響き渡る。花火がひとつ、またひとつと次々に打ち上げられ、明るく空を照らす。最終催事の打ち上げ花火が始まってしまった。お陰で高明がなんと言ったが聞こえなかったが、今は外の光景に釘付けでそれどころではない。
「・・・本当に美しいな」
高明の言葉に同意するように明藍は小さく頷いた。
「花火とはこんなにも美しかったのですね」
「・・・毎年見ていただろう」
明藍の発言に高明が不思議そうに眉を顰める。
まあ、普通はそう思うだろう。しかし、明藍は首を横に振った。
「花火は花娘々が地上に降り立つ際の目印です。だから花火が終わる頃には化身ではなく本物がいなければならないのです。化身はあくまで偽物ですから、偽物がこの場にいては本物が降りて来れぬとこの時間帯はいつも廟で祈りを捧げていました」
「では、今回が初めてなのか?」
ええ、と明藍が頷く。
もっと幼い頃に見たかもしれないが、記憶にはなかった。記憶になければ見ていたとしても見ていないものと同義だ。となると、今回が初めてで間違いはない。
次から次へと闇夜を彩る大輪の花に釘付けになっていると、高明の指がするりと髪を滑り、頭に飾られた花に触れた。思わず体が強張るが、明藍は努めて気付かないふりをする。このまま何事もなかったかのように振舞えば、本当になかったことになるかもしれない。だから、意地でも視線を花火から逸らさなかった。しかし、
「藍藍、お前は誰を想ってこの花を咲かせたのだ」
「なっ・・・!」
全く予想だにしていなかった言葉に、思わず明藍は振り向いてしまう。
しまったと思ったが、しっかりと目が合った後ではもはやなかったことになどできない。
「・・・誰から聞いたのですか」
「お前が来る以前、人魚が教えてくれた」
「・・・人魚、ですか」
一瞬言葉が詰まった。そういえば明藍が見つけ出すまで高明はどこにいたのか聞いていなかったが、まさか人魚たちと話をする機会があったとは。彼女たちの容姿を思い出すと同時に何故かもやもやとした黒い霧のようなものが胸の中をかき乱す。
「なんだ、どうかしたのか」
「・・・別になんでもないです」
本当はなんでもなくなんてない。
この感情はよく知っているようで今まであまり知らない感情だった。そんな感情を抱く道理も資格もないというのに、そっけない態度をとってしまう自身の浅ましさに嫌気がさす。つくづく自分は自分が苦手だ。しかし、そんなことを言っても自分とはこの先も一生付き合っていかなければならない。なんとも気の重い話だ。
なんとか自分の感情を悟られぬように苦い表情をしていると、じっとこちらを見つめていた高明が目を細める。
「まあ、よい。それでお前の答えを聞いていないのだが?」
「・・・・」
なんと答えていいのかわからずに黙り込んでいると、いつの間にか花を愛でていたはずの指が明藍の唇にそっと触れる。
「・・・花を取らぬということは、期待していいのか」
花祭りにおいて、男から女への花は求婚、もしくは求愛を意味する。だから明藍にその気がないなら、最初に気付いた時点で取ればよかったのだ。もっとも、了承した場合のみに女が自分で頭につけるという慣習を彼は丸無視しているが─取らなければ結果は同じである。でも、
「わたしは・・・いいえ、わたくしにはその権利はございません」
一瞬、返事をしてしまいそうになった。
うぬぼれでなければ高明も明藍に同じ感情を抱いてくれている。だから、はいと素直に頷ければ、きっと色づき始めた世界がもっと鮮やかになるだろう。でも、それはできない。東宮妃にと望まれている明藍にはその権利はもはやないと同じだった。
こんな感情気付かなればよかった。
一度知ってしまえば忘れることは難しい。時が来れば、流れに身を任せれば、環境が変わればという者もいるが、本当に忘れられた者はどれくらいいるのだろうか。
俯いたままそっと花に手を伸ばす─が、その手は花に触れることはなかった。
「俺はお前の気持ちが知りたいんだ」
掴まれた手が、胸が、目元がじんわりと熱くなる。
言葉にしたところで現状は何も変わらないのに、この人はそれでも明藍の口から聞き出そうとするのだ。
「・・・ずるい」
笑ったつもりなのに、頬を涙が伝った。一度あふれてしまえば、水というものはそう簡単には止まってくれない。次から次へと引っ切り無しに流れ出す水は、悲しみか、喜びか、それともその他の感情なのかさえもはや分からない。
空いている方の手で顔をぬぐおうとするとぐっと腕を引かれ、そのままの勢いで胸の中に押し込められた。
「・・・・高明さま」
「なんだ」
「心の臓が早い気がいたします」
心臓は遅すぎても早すぎてもよくない。走った直後などに一時的に早くなることはあるがそうでなければ病の可能性も高い。おまけに李将軍は心臓が弱かった。病というものは親から子へと受け継がれるものは多いのだ。これはもしや何かよからぬ兆候ではないだろうか。心臓の病は早く対処しなければ手遅れになる。そのためにはまず診察をしたいのだが・・・肝心の高明が離れる気配は一向にない。腕を突っ張ろうにも抱きすくめられているせいで抜け出せない。上を向き、抗議の眼差しを向ける。
「高め」
名前を最後まで言うことは叶わなかった。言葉は完全に相手に飲み込まれてしまったのだから。
今何が起こった。
状況が飲み込めずにぽかんとしていると、再度高明に抱きすくめられる。
「・・・・惚れた女が腕の中にいるのだ。脈くらい速くなる」
ぶっきらぼうな言い方だったが、その内容は紛れもない求愛だった。
「こんなの・・・あんまりです」
今にも泣きだしそうな震えた声に高明の腕の力が緩まる。その隙に明藍は体を捩ると、高明の背中に手を回した。
驚いたように高明の体が跳ねる。そして、やや戸惑ながらも明藍の体を抱きしめた。
「嫌では、ないのか?」
「・・・嫌ならばとっくに突き飛ばしています」
これでも首席術師だ。高明一人くらい吹き飛ばす力は回復している。
「お前の気持ちは聞かせてはくれないのか」
「それは・・・」
言葉には力がある。それ自体に霊力が宿るとも考えられている。だからこそ、言葉にしなければならぬ─してはならぬ。
だって言葉にしてしまえば最後、もう後戻りはできなくなってしまうから。
明藍が口を噤んでいると、頭上から小さなため息が聞こえた。
失望されただろうか。恐る恐る視線をあげると濃紺の瞳が揺れていた。まるで捨て犬のような表情にぐっと胸が詰まる。でも、それでも言葉にすることはできなかった。
逃げるように胸に頭を埋め、回した手に力を込める。これが答えだ─なんて虫が良すぎるのはわかっている。
「お前を縛っているのは東宮で間違いないか」
高明の言い方は疑問ではなく断定だった。
明藍が無言を貫いていると顎に手を添えられ、上を向かされる。
「お前は何も心配しなくていい。だからあと少しだけ待ってくれ」
明藍にはその言葉の意味がわからなかった。
だから決して期待してはいけない。でも今だけは、今この時だけはその言葉を、彼を受け入れようと思った。唇が重なると同時に、これまでで一番大きな音が夜空に響いた。




