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二十八、絵画

 「こちらでお待ちください」


 小さく頭を下げて退室していくのは、知人の紅杏(ホンアン)だった。最近は業務が忙しく中々食堂に行けていないので必然的に顔を合わせる機会がなかったが、少しやつれた気がする。

 でも、ここで少しやつれましたか、なんて聞くのも変だしなぁ。

 明藍は紅杏を認識しているが、紅杏は明藍を認識できていない。会う時は必ず魔導具込みで変装をしているので、相当深い仲でなければ気付かないだろう。案の定、紅杏はこちらを振り返ることなく出て行ってしまった。

 通された部屋はたいして広くはなく、小さな机と椅子が二脚。応接室と言うよりも密談所と言った方がしっくりくるが、家具は質の良いものを置かれている。天井から壁にかけて描かれているのは神話に出てくる神々だろうか。酷く穏やかな表情は人間味がなく、どこか薄ら寒さを感じる。

 ぐるりと一周見回すと、ちょうど明藍の真後ろに色とりどりの花で出来た檻の中で微笑む女神の姿があった。

 花娘々(ホアニャンニャン)。

 この世で一番美しい女神であり、近日開催される花祭りの主役だ。檻に幽閉されていると言われているが、彼女は一度だけその檻から逃げ出したことがある。その際に作られたのがこの国であり、国民は感謝と自由がない花娘々のために国中の花を捧げるのだ。

 しかし、明藍はこの祭りをあまり好ましく思っていない。もちろん多忙になるという理由ももちろんあるが、自由のない身で外の素晴らしさを見せつけられて果たして嬉しいのだろうかと常々疑問に思ってきたからだ。自分ならば知らない方が幸せである。

 最近描かれたのか壁画はまだ色褪せた印象はないが瞳の辺りが他の部分だけ不自然に霞んでおり、元の色がよくわからない。他の服や花の色ははっきりとわかるというのに。

 いや、これは態と消されているのか。

 近くで見ると、何かで擦ったような細かい線があった。いくら小部屋とはいえ、一応女神進行をしている国の腐っても礼部ともあろう場所でこんな中途半端な状態が放置されているのは不自然である。修繕途中で絵師が亡くなったか、それとも他に何か()()()()()()でもあるのだろうか。瞳があったと思われる場所を人差し指の腹を滑らせるが、さすがに色は残っていない。何かが引っかかる。

 明藍が思考の波に飲み込まれかけた時、すぐ後ろの戸が開いた。飛び込んできたのは丸々とした輪郭に垂れ眉、同じく下がった目尻に小さな鼻。その見た目は狸と言えばだれもが頷くであろう愛嬌のある顔立ちの許礼部長官だった。

 

 「やあ、明藍。元気だったかな?」

 「お久しゅうございます、(キョ)長官」


 立ち上がり拱手すると、慌てて止められる。


 「堅苦しいのは好きじゃない。ほら、前みたいに宣賛(せんさん)小父(おじ)さまって呼んでくれてもいいんだぞ」

 「・・・ご遠慮させていただきます」

 

 むしろ今までにそんな呼び方をした覚えはない。

 引きつりそうになった顔になんとか笑顔を張り付けると、許長官の視線が一瞬壁に飛んだ気がした。


 「それで、早速ですがご用件を伺ってもよろしいでしょうか?」

 「ああ。そういえば君も今や責任ある立場になっていたね。そんな年で大変だろうに」

 「長官職ほどではありません」


 確かに長官よりも気軽に皆が仕事を押し付けてくるせいで書類を捌くという点では苦労しているが、責任という点ではまだまだ足元にも及ばない。長官とは聞こえはいいものの、裏を返せばその部署で起こったことはすべて責任として圧し掛かってくる。過去には全く面識もない下級官吏のせいで免責辞任に追い込まれた長官もいるほどだ。


 「まあ、もうわかってると思うけど、毎年恒例の()()()()()()、今年もお願いすることになったから」


 あっけらかんと言い放つ許長官。

 その言い方は相談でなく、報告。つまり、すでに決定事項だ。しかし─


 「・・・流石にもう妹に譲りたいのですが」

 「うーん、まあ年齢的には確かに合致しているけどあの子はそんな器ではないだろう」


 歯に絹着せぬ言い方に、思わず辺りを見回す。近くに林泉(リンセン)がいたら大目玉だ。

 ()()()()()()とは、囚われの花娘々に代わりに化身である少女が街を輿での行進する花祭りの目玉興行のことである。そして何を隠そう、物心ついた頃から明藍はこの化身の役割を担っていた。春家は今は医官の印象が強いが、元を辿れば礼部の重鎮ばかりを輩出していた。許長官は血縁関係はないが、次官である林泉は諸にその恩恵を受けているし、先々代は明藍の祖父が長官を務めていたらしい。これは春家だけではなく、残りの三家も同様で暗黙の了解だった。しかし現在は何故春家は礼部に深くかかわっていないのかと聞かれれば、そこは父の代のかなり複雑な事情があったらしく詳しいことは知らないと答えるしかない。

 そして、祭事にこれまで深く関わってきた家の娘という理由で明藍に白羽の矢がたったのが十年数年前。花娘々の化身として祭りに参加することは義務である。たいていの者はその重圧に押しつぶされるらしいが、幼少期の明藍にとっては年に一度継母の目を盗すまずに羽を伸ばせる休息日でしかなかった。輿の上でただ数刻座っていればいいだけの話で、特段何か言葉を覚えるわけでもなければ一応化粧はするが垂れ布でほとんど顔は見えない。唯一困ることと言えば途中で厠に抜け出せないことくらいだとあの当時は本気で思っていた。

 もしかして、異母妹が厠も我慢できないと思われているのだろうか。絶対とは言い切れないが、流石に十四にもなって漏らすなんてことはないはずだ。それに異母妹は明藍よりも体格に恵まれている。すでに同じくらいの背丈なので、そのうち追い越されるだろう。上背があるのもまた、美人の条件だ。


 「では、もう一層のこと傍系から選出しても良いのではないでしょうか?」


 もっと昔は初経を迎えればお役目御免になっていたくらいだ。結婚適齢期にど真ん中の女がやることではない。

 しかし、明藍の提案に許長官は腕を組み無言のまま首を大きく捻る。


 「・・・傍系に適任がいなければ、過去にあったように他家にお願いするのも手かと思います。それに流石にわたしも年齢的に厳しいですし」

 「いや、そうなんだよね。年齢がなぁ・・・いやでも適任なんだよなぁ」

 

 先ほどよりもさらに首を大きく捻る姿は、罠から抜け出そうとする狸のようで絶妙に明藍の心を擽ってくる。

 仕方ない、今回までだ。

 その姿に免じて今回までは協力することにする。


 「わかりました。でも、本当に今年で最後なので、来年は他を見つけててくださいよ」


 流石に一年あれば探せるだろう─とこのやりとり、これで何年目だ。

 許長官はあからさまに目を輝かせる。


 「本当か!助かるよ〜。いや、流石に来年は他を見つけないといけないだろうな。()()()()()()ができる立場には居ないだろう」


 言葉が示唆する事柄に明藍が気付かないふりをして受け流すと、それ以上の追求はなかった。明藍は見た目から狸と思っているが、腹の中がよくわからないから狸だと言っている者も一定数はいる。

 何を知って、何を知らないのか。はたまた鎌をかけているだけなのか。腹の探り合いは苦手なので、こういう時は黙るに限る。雄弁は銀、沈黙は金なのだから。


 「・・・それで、わたしはまた当日に伺えば良いですか?」


 さすがにいつまでも黙っているのは生産性がない。まだ仕事は大量に残っているので、あえて話を逸らすことにした。

 許長官の目の色がいつもの柔らかさを取り戻す。


 「ああ。衣装は新調してるが、今更背丈は伸びてないだろう」


 背丈と言ったくせに、その視線は一点に集中していた。明藍がさっと両腕を胸の前で交差させる。


 「何も変わっておりませんので、よろしくお願いします」

 「そうか・・・それは残念だったな」


 まるで科挙に落ちた息子を慰める父親のような表情に、なんとも居心地の悪さを覚える。

 明藍はすでに冷えてしまった茶を一気に飲み干すと、小さく頭を下げて部屋を後にしようとしてふと壁画のことを思い出す。


 「あの壁画ですが、修復はしないのですか?」

 

 ここの管理者が信仰に熱いかどうかはさておき、神の瞳はすべてを見通し、すべてを語ると言われている。その部分を()()()に消しているなど、罰当たりというか、正直信仰心の欠片もない明藍ですら心証が悪い。これが信仰の熱いものであれば、腹を立てる者だっているだろう。

 

 「・・・ああ、これか」


 明藍の意とすることがわかったのか、許長官は立ち上がると先ほど明藍がしたのと同じように指先で花娘々の瞳があったと思われる部分を摩った。


 「これは仕方なかったんだ。以前から度々議論はされていたんだが・・・・それこそ現在の東宮の兄上が体調を崩して亡くなられたのがきっかけだったな」

 「兄、ですか?」


 初めて知った事実に目を見開く。

 

 「ああ。結構年が離れていたからお前が知らなくても無理はない。もう七を越していたから皆安心しきっていただけに訃報が出てから一月くらいはこの世の終わりみたいな雰囲気だったぞ」

 「・・・それとこの壁画と一体何が関係するのですか?」


 昔を懐かしむように目を細めているところ悪いが、いまいち壁画と鬼籍に入った東宮兄との結びつきがよくわからない。

 

 「お前は相変わらずせっかちだな。まあいい。結論から言うと、顔料に毒が混ざっていた」

 「毒、ですか」

 「ああ。少しでも画をかじったことがある者の中では結構有名な話だったが、黄の顔料の原料に雄黄というものを使うそうだ。しかし、これが毒性があるらしく、長年使用していると腹痛、下痢、麻痺などの症状が現れるらしい」

 「そこまでわかっているならば何故禁止しなかったんです?」

 「あくまで推測の域を出ていないという官吏側の判断と雄黄ほど鮮やかな色を出せるものが他に見つからないという絵師たちの意見。皮肉なことに黄は一番めでたい色だ。それだけでも手を出しにくいのに、それを扱う側から反対されればうやむやにされてしまうんだよ。また不運にも東宮の兄上は描画がお好きでね。腕前もこの部屋を見ればわかるだろ」

 「・・・・まさか、これ全部を一人で描かれたのですか?」


 許長官が静かに頷く。

 一体幾つだったのか詳しい年齢までは聞いていないが、いくら年が離れているといってもまだ元服前だろう。そんな少年、いやこどもが一人でこの壮大な神々の姿を描いたのか。

 もし、彼が生きていれば、絵師として名を馳せていたかもしれない─いや、東宮である以上それは()()()()。どんな才能を持ち合わせていても、結局は持て余すことになっていただろう。だからと言って死んだ方がましかと言われればそういう話ではないが、生きていたら葛藤に苛まれていたはずだ。

 しかし、ここでふと疑問が浮かぶ。推測とはいえ、万が一のことを考えて疑念があれば近づけさないのが普通なのだが─。


 「病床で主治医が聞いたらしい。どうしてもその色を出すためには雄黄が必要だったんだと。もちろん周りは止めていたが、内密に手に入れていたらしい」

 「それじゃあ、側近たちは」

 「ああ。一人を除いてあとは全員この世にはいない」


 皇族、しかも次期皇帝を死なせたのだから当たり前といえば当たり前だが、当時の東宮もそれくらい考えなかったのだろうか。そう思うと実際に会ったことはないが、今の東宮の方がかなりまともに思える。


 「そんな上官、わたしだったら御免被りたいですね」

 「普段は民のことを一番に思われる良識的なお方だったらしい。ただ、その時は取りつかれて人が変わったかのようだったらしい。寝食も忘れるほど夢中になっていたのも、死期を早めた原因の一つだ」


 自分の命を削ってまで彼が残したかったもの。

 しかし、残酷なことにそれはもはや原型を残してはいない。人は皆、自分がいた痕跡を残そうとする。だから人々は名声を追い求めるのだ。今後数十年、数百年と自分という存在を語り継いでもらうために。でも、きっと彼の場合はそんな単純な話ではない。むしろそのまま大人しく皇位を継承していれば、その名は歴史に刻まれたのだから。


 「一体、何が彼をそこまで突き動かしたんでしょうね」

 「・・・・見てしまったんだよ」


 先ほどまでの淡々とした口調とは異なる重厚感のある声音に明藍は壁から許長官へと視線を移す。目が合ったほんの僅か一瞬の出来事だが、許長官の瞳孔が広がるのがわかった。


 「何を見たんです?」


 今は亡き前東宮のことではない。()()()は何を見たのだ。

 

 「・・・・さあ、無駄話はこれくらいにしておこう。一つ忠告をしておく。うちの次官はお前が思っている以上にお前のことを憎んでいる。そのうち何か動き出すはずだ。気をつけろ」

 「・・・わかりました」


 話をはぐらかされた感は否めないが、戸までご丁寧に開けられているのに粘るのはさすがに忍びない。

 明藍は拱手するとその場を立ち去った。

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