二十四
洞窟の入口は海と正反対の山に面する場所にあった。木々に覆われており、地元の者でなければ絶対にわからない。生い茂る木をかき分けて見つけた入口からは海碧の水が絶え間なく流れ出ている。その光景は、何故か龍を連想させた。
大きな鍾乳洞の中は入口よりもずっと静かだった。靴の音と水滴が落ちる音が響くくらいで、蝙蝠や虫一匹姿を見せない。人工物のような外壁はつるりとしていて、どこを触ってもひんやりとしていて気持ちがいい。季節が違えば、いい避暑地になるだろう。
「すまねぇ、俺らぁここまでしか近づけねぇんだ。このまま壁を伝って行けば分かるから」
申し訳なさそうな男に対して明藍は頭を横に振る。
「こちらこそ無理を言ってしまって申し訳ありませんでした。ここまでくればあとは自分たちでなんとかします」
約束の銀貨を渡すと、男は小さく礼をして元来た道も戻っていく。
その姿を見届けた明藍たちはさらにその奥へと足を進め始めた。
結局、一刻半ほど何か情報はないかと集落を彷徨いていると、見かねた男がこっそりと声をかけてくれた。道案内の相場にしてはぼったくりと言える額だったが、それでも完全に行き詰っていた明藍たちにとってはありがたかった。なにせあのままであれば、海際を懸命に探し回っていたに違いない。まさか海の生き物であるはずの人魚の館が山にあると誰が想像できるだろうか。
男の言う通りに壁を伝って歩いていくと、だんだんと辺りが明るくなっていく。ここに来るまでは灯なしでは難しかったが、もはや灯などなくても辺りがよく見える。灯に誘われるように近づくと道中に大きな穴が開いていた。上をみると、同じようにぽっかりと空いた穴からはどこも欠けることなく満ちた月が濃紺の空に浮かんでいる。
「ここが人魚の館・・・」
下の様子を伺おうとやや引け腰で覗き込む。波はなく穏やかだが、その底の見えない濃い青に思わず唾を飲み込む。
落ちたら一環の終わりだ。
何を隠そう明藍は泳げない。大抵の令嬢は泳ぐという行為自体がはしたないと言われるため経験がなく、自分が泳げるか泳げないかすらも知らない。しかし、明藍に至っては実際に川に突き落とされるという事件を経て、自分は泳げないと身をもって知っている。そのため、実は水があまり得意ではない。今回の船旅も乗っている間も転覆しないかそわそわしていた。
しかし、引け腰では完全に中をのぞけない。きっとこの場所が高明を助ける手がかりだ。怖いだのなんだの弱音を吐いている時間はない。
「宇冠、私の足を掴んでください」
「いいけど・・・危なくねぇか?」
「はい、二人だと無理です。なので、玄武は宇冠の足をお願いします」
「わかった」
本当は一番軽い宇冠に先頭になってもらった方が体力的にも精神的にも楽なのだが、万が一を考えた場合、男である宇冠にやらせるわけにはいかない。生贄と間違えられたら、まだ見ぬ彼の家族に顔向けができなくなる。
明藍が地面に腹ばいになると、残りの二人が配置につく。
「いいですか、少しずつ前に進みますから」
「おいおい、娘々、声が震えてるぞ」
揶揄うような宇冠に明藍に代わって玄武が「武者ぶるいだろう」とつぶやく。
いや、武者震いではなく、完全に恐怖心から来る震えなのだが。
意を決して頭を穴の中に突っ込む。完全に逆さまの状態で辺りを見渡すが、これと言ってなにか魔力や妖力を感じるわけでもない。むしろ何もないことに違和感を覚えるほどだ。
一旦戻ってみよう。
そう思い、宇冠に声をかけようと振り向いた瞬間、
「あ」
明藍は理解する間もなく、水の中に勢いよく落ちた。
まるで何かに引っ張られているかのよう下へと沈みながら、ぽこぽこと自分の口から泡が吐き出される様を、まるで他人事のように眺めることしかできない。
それは以前川に突き落とされた時と全く同じだった。しかし、あの時は親切な誰かが助けてくれた。そういえば助けてくれたのは、青年だと聞いたが結局見つからなかったのだ。
一体誰だったんだろう。
最後に考えるべきことではないだろうが、それ以上思考が動かない。
──ごめんなさい、高明さま。
瞳を閉じた明藍は意識を手放した。
ぱちり。
目を開けると、そこには見覚えのない天井があった。
体を起こし、辺りを見渡す。部屋にはどれも一級品と思われる調度品が並べられているが、決して華美ではなく、持ち主の感性の良さが伺える。
自分はなぜこんな場所にいるのだろう。寝台から降りて部屋の中を散策していると、戸が開く。
「起きていたのか」
一瞬驚いたように目を見開き、すぐに柔和な笑みを浮かべる。一体誰なのだろうと内心小首を傾げていると、遠慮なしに男が近付き、額に手を当ててくる。
「うーん、そうだな。まだ少し熱いから休んでいた方がいいだろう」
そう言うと、特段違和感なく腰に手を添え、流れるような手つきで寝台まで誘導される。
あまりの手際の良さに感心していると、男の顔が目と鼻の先に来た。すっと通った鼻梁は男にしては細く、やや切れ長の目を囲む睫毛は影を落とすほど長い。肌は陶磁器のように滑らかで、かと言って深窓の令嬢のように全く日に焼けていないわけではない健康的な肌の色をしている。
「・・・本当に今日はどうしたんだ?君が目を閉じないなんて」
目を閉じなければならないのか。
言葉通りに瞳を閉ざす。それと同時に何か柔らかいものが唇に触れた。
驚いた目を見開くと、男も同じように目を見開き、さっと顔を赤らめる。
そっちこそ熱があるのではと思ったが─いや、そんなことはどうだっていい。今、何をした?
羞恥と驚愕と色んな感情が混ざり合い、わなわなと震えそうになっていると、入口から「旦那さま」とあからさまなため息混じりの声が聞こえた。慌てて目を向けると、これまた別の男が呆れ顔で立っている。
「さっ、索!」
「仲がよろしいのはいいことですが、今はまだ昼餉前です。それに奥さまが体調を崩されているのは、連日の夜間の無理が祟ってからではないですか?」
「そっ・・・・いや、たしかに。すまなかった、明藍。体が辛くなければ起きて来なさい。子たちも君を待っているよ」
男は髪を一房掬うと、名残惜しげに手を離した。それを見ていた索と呼ばれた男が、大きくため息をつき、引き摺るようにして部屋を出て行く。
一気に静かになった部屋で、明藍はそのまま寝台に倒れ込んだ。
旦那さま、奥さま、子たち。
本格的に意味がわからない。こめかみを強く押さえてみても、やっぱりわからなかった。
「奥さま、こんなことを言うのは心苦しいですが、もっとあの方には厳しくしないといけませんよ」
呆れた声音に、明藍は書類に目を通しながら相槌をうつ。
ほぼ初対面なのでわかりましたもへったくれもないが、少しでも変なことを口走れば調子が悪いと思われて自室へと押し戻されるかもしれない。あれから一刻ほど眠ったので、さすがにこれ以上は夜眠れなくなる。
仕事がひと段落したところで、肩をもみほぐしていると時機を計ったかのように索が声をかけてくる。
「奥さま、そろそろお茶にいたしましょうか」
返事をするよりも早く、明藍の元に茶とまだ湯気の出る蒸籠が運ばれて来た。蓋を取ると、中には出来立ての包子が。
熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに。一番美味しい時に食すことを方針とする明藍は索の無言の静止を無視して一口齧る。熱くて思わず口から飛び出そうになったが、これはこれで出来立ての醍醐味というやつだ。少々行儀は悪いが口をはくはくと動かし、空気を含みながら冷まして咀嚼する。
─この味は!
驚きと感動で索を見ると、眉間に小さく皺が寄る。
「もしかして、お味がいつもと違いましたでしょうか?」
気遣わしげな様子に明藍は大きく首を左右に振る。
いつもと違うかどうかはわからないが、これはまさしく太燕飯店の包子と瓜二つだ。門外不出の味をなぜ再現できているのかと喜び半分、不思議半分で尋ねてみると、今度は索の皺が一層深くなった。
「何言っているんですか。婚前、奥さまが一番好きなものとおっしゃったので旦那さまが店ごと買い取ったではありませんか」
そんな馬鹿なことをする奴がいるのか。
本日何度目になるかわからない事実に驚いていると、索が大きくため息をもらす。
「最初、旦那さまが皇宮で奥さまを助けられた時のことを覚えられていますか?」
覚えているわけがない。困ったように微笑む。
「奥さまにとってはあまりいい思い出ではないかもしれませんが・・・同僚術師のやっかみで辱めを受けそうになっていた時のことです」
言われて、そういえば男たちに囲まれて白昼堂々そんなことをされそうになったこともあったなとぼんやり思い出す。
「あの時、皇帝陛下に謁見する予定が道に迷って徘徊していた旦那さまが術師たちを一喝し、助け出した奥さまに一目で心を奪われたのです」
いわゆる一目惚れというやつである。
そして、明藍としては一番信用ならない感情だ。
「もちろん、奥さまはお礼は申されましたが、求婚についてはやんわりとお断りされました」
ここで恋に落ちたなどと言われれば、これは夢だと断言できたのだがそうではないらしい。
「その後の旦那さまと来たら・・・もちろん職場に入り浸られて奥さまも大変だったとは存じますが、いつ陛下に呼びつけられるかとわたくし共も気が気ではございませんでした。いくら可愛がっている従甥とはいえ、領主がいつまでも王都に入り浸るものではありませんからね」
なるほど。
道理で屋敷は広く、調度品から召し物に至るまで金に余裕のある暮らしをしているはずだ。
皇帝の従甥であれば、皇族とは名乗れないものの、地方の領主として贅のある暮らしができてもおかしくはない。可愛がられているということは、その分きちんと功績をあげているということにもつながる。あの超人気店を買い取っても尚余裕があるくらいの資産を持ち合わせているのだろう。
「最終的に花祭りの際、何度目かわからぬ求婚に頷いてくださった時は家臣共々うれし泣きを・・・あ、いや申し訳ありません」
索が懐から手巾を取り出し目頭を押さえる。
一体どんな苦行があったのだろうか。思い出そうとするとぼんやりと靄のかかったような感覚になる。
「とにかく、奥さまが嫁いできてくださったおかげで旦那さまは一層仕事に邁進されるようになりました。聡明と名高い嫡男の梦さまに天女の如きと言われる胡蘭さまもすくすくとお育ちになられていらっしゃいますし、これで南州は安泰でございます」
にこりと索が笑みを浮かべたが、明藍は違和感を覚えた。
名前の選定にどんないきさつがあったのかは知らないが、あの義妹と同じ字を自分の子に宛がうだろうか。
一度感じた違和感はそう簡単には拭えない。ちくりちくりと内側から何かが刺激してくる気がする。
やはり、なにかがおかしい。そう思った時、斜め向にある戸が勢いよく開いた。
「ははうえ!きょうのしごとはおわりましたか?」
「あっ、胡蘭!急に入ってはなりません!」
ばたばたと駆け寄って来たのは、くりっと大きな目をした愛らしい童女と目鼻立ちのくっきりした見るからに聡明そうな童男だ。二人ともどこかしら似た雰囲気を持っている。童女の頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細める。その姿はどこか異母兄に似ている気がした。
「こらんはははうえといっしょにじゅつをまなびたいです!」
この年でもう術を勉強しているのか。
内心驚いていると、索が横から童女を掴み上げる。
「まだ奥さまは仕事が残ってらっしゃいますから、わたくしがお相手しますよ」
「あっ、それなら僕は演算を見て欲しい」
「はい、わかりました。それでは梦さまも一緒に参りましょう」
子たちはそれで満足なのか、ひらひらと手を振って索と一緒に部屋を出て行く。
母がいいとごねるかと思っていたが、案外あっさりしている。いや、童というのは元々現金な生き物だ。自分に理のある方に靡くのは人間の本能である。
寂しいような、どこかほっとしたような、何か大事なことを忘れているような。胸はまだもやもやとしているが、先ほどよりも薄まって来ていた。
早く仕事を終わらせて、あの子たちの様子を見に行くか。
目の前の書類に手を伸ばす。気を抜けば立ち込めてくる靄を振り払うが如く、作業に没頭した。




