二十三
「まだ起きていたのかよ」
振り向くと、そこには宇冠が立っていた。
しかし、それはこっちの台詞だった。
「まだ寝てなかったんですか?」
「違う。俺は厠に起きちまったんだよ」
たしか厠は反対だったはずだが。
明藍が反論するよりも早く、宇冠が隣に腰を下ろす。夜はとっくに更けている。ここで戻れと言うべきなのだろうが、一見素直そうに見えて譲らない性格の彼には言ったところで無駄だろう。ひとり結論付け、視線を元の位置に戻す。
月光に照らされた海は光を反射してきらきらと輝いているのに暗く、底が全く見えない。美しい光景のはずなのにふと寂しさを覚えるのは、その暗さ故か、それともその先にある結末を知ってしまったからか。
人魚の館とは、人魚に生贄を捧げる場所のことだった。
島の北東に位置するそこは波が高く、海と共に育った島民でも泳いで戻ることは不可能だという。もちろん逃げ出せないように態とそんな場所を選んでいる。
「どうして、奪わなければならないのでしょうか」
ぽつりと本音が漏れる。
生贄は恋人がいる者から選定させるという。だから親たちは年頃になると常に目を光らせるらしい。しかし、感情とは止めようと思って止められるものではない。特に若いうちは感情の制御が難しい。そしてどんな恋物語でも障害があればあるほど燃え上がってしまうものだ。
だから過ちを犯す。恋に溺れ、愛を囁き、幸せの絶頂に立った男を人魚たちは指名する。次の生贄はお前だ、と。
「さあ。でもさ、人を愛さなければ選ばれない。どうしてそんな簡単なことができないのかって俺は不思議に思うんだ」
宇冠の言葉には皮肉は一切なかった。まるでなぜ陽は東から昇らないのかと問う童のような純粋さが見え隠れする。
「難しい質問ですが・・・一度自覚してしまえば自分でもどうしようもないんだと思います。恋とは、愛おしいとはきっとそんな感情です」
恋や愛とは無縁の生活を強いられてきた。霍老師に弟子入りして、少し情というものがわかってきた。でも、また一人になってわからなくなった。そして今度は全て投げ出して初めて大切なものができた。彼らに対する感情は愛で間違いない。失ったら自分のことのように、いやむしろ自分のことよりも辛い。でも、それはきっと求められている愛ではない。人魚が求めるのは、家族愛でも友愛でもなく、恋愛なのだから。
「姉ちゃんはいないの?」
「・・・どうなんでしょう」
少し前だったら、そんな人いませんよと即答していた。しかし、今は頭にこびりついて離れない人がいる。
これが友愛なのか、それとも違うのか。確かめなければならない。きっとここでわからなければ、自分は一生わからないまま生きていくのだろう。
だから、どうかご無事で。
「・・・大丈夫、兄ちゃんはきっと無事だよ」
宇冠の手がいつの間にかきつく結び合わせていた手に重ねられる。
「そう・・・ですね」
「おう。だから寝よう。眠れないんだったら俺が子守唄歌ってやるぞ」
そう言うと頼んでいないのに宇冠が歌い始めた。想像よりもずっと柔らかな声音に、明藍は意識が飛びそうになるのを部屋に戻るまで必死に我慢する。部屋に着く直前でがくりと膝が落ちた。まぶたが重く、あと一歩が踏み出せない。
このまま崩れ落ちると思った。しかし、想像していた衝撃は来ず、代わりに体を持ち上げられ、そのまま寝台に転がされる。
「ふう。久しぶりに使うから加減を間違えちまったな。まあ、もうあんたしか頼れる人がいねぇんだ。頼んだぜ、明藍」
何をいったのかよくわからなかったが、自分の名前だけはやけにはっきり聞こえた。
あれ、宇冠はわたしのことを名前で呼んでいただろうか。
かつかつと足音が遠ざかり、戸が閉まる音がした。それと同時に明藍は完全に意識を手放した。
惜しみなく降り注がれる日差しに、背中がじわっと汗ばんでいるのがわかった。
冬仕様の服は重く、何よりも熱が篭りやすい。もう少し薄手の服を持ってくれば良かったと思ったが、後悔しても仕方がない。
「少し休憩しよう」
見越したような玄武の提案に、明藍は大人しく従うことにした。
木陰に腰を下ろす。木は王都では見たことないような大木で、幹は普段見ている木に比べればかなり滑らかだ。葉は大きく、鳥の羽のようにも見える。人間も多少はそうだが、動物や植物ほどその地域で異なるものはない。
ぼーっと木を眺めていると、横から何かを差し出される。
「ほら、喉渇いてるだろ」
「これは・・・」
受け取ったのは、大人の頭ほどの大きさもある玉だ。なかなか重量がある。しかし、硬くて到底素手ではどうすることもできない。
どうやって食べるのかと宇冠の様子を伺っていると、断りもなく髪から簪を抜き取り、勢いよく玉に突き刺した。
一体何事だ。
明藍が目を丸くしていると、気付いた宇冠が意地悪く笑う。
「これは椰子って言うんだ。中に水が入ってて、ほんのり甘くて美味いんだよ。あと、言っとくけど、俺はもっと驚いたからな」
玄武を召喚した時のことだろう。しかし、言い訳をさせてもらうと、霊獣などの召喚はとにかく術式が複雑で時間がかかる。下手すれば半日がかりだったりするので、あの時は仕方がなかったのだ。ただ、驚かせたという行為は事実なので明藍に文句を言う資格はない。
「その・・・申し訳ありませんでした」
「よろしい。今後は自分を大事にするように─って兄ちゃんなら言うはずだろ。姉ちゃんはすごい術師だからすぐに治せるかもしんないけど、それでも見ている方は気が気じゃねぇんだぜ。なあ、玄武」
名指しされた玄武は一瞬煩わしそうに顔を歪めたが、すぐに小さく頷く。
「まあ、お前が何をしようと勝手だが、周りが案じているということは心に留めておけ」
「そうそう。自裁するかと一瞬焦ったよ。姉ちゃんには<役目を果たして>もらわないと」
宇冠の言い方にやや違和感を覚えたが、ここで突っ込めば二人から再度お説教を食いそうなので黙っておこう。
戻ってきた簪をじっと見つめる。父から笄礼の際にもらった簪はもう随分長く使っているし、結構荒っぽいこともしているのだが全く折れない。銀でできていると勝手に思っていたが、もしかするともっと特殊な金属で作られているのだろうか。放浪癖─というよりも放浪ついでにたまに帰ってくるくらいだ。一般的には出回っていない物を持っていても不思議ではない。
明藍は簪を指の上でくるりと回すと、宇冠よろしく思いっきり椰子を突き刺した。小さく開いた穴に口をつけると、たしかにほんのり甘い水が喉を潤してくれた。
途中で休憩を挟みながら、昼前には東の集落に到着する。しかし、
「全く捕まりませんね」
この集落と今までの集落との決定的な違いは、とにかく人と関わろうとしないところだ。声をかける素振りを見せただけで、さっさと逃げていく。まるで野生の獣のようだ。
本気を出せば簡単に捕まえられるのだが、口を割るとも限らない。無理矢理割らせる方法もあるが、そんな横暴をやらかしてしまうと後々術師や王朝への不満になりかねない。いつの時代も反乱は小さな火種から始まるものである。だから、火種をいかに作らないかが明藍ができる最善だ。
「そういえば、宇冠はここの出身ではないのですか?」
西と南の集落では特段知り合いもいない様子だったし、何より漂流してしまっていたのだから家族も心配しているだろう。家に戻れとは言わないが、顔を見せに行くくらいした方がいいのではないか─と家を出てから碌に顔を見せに行っていない身としては大っぴらには言いづらい。
「何言ってんだ。俺の出身はもう過ぎたよ」
「えっ・・・ええ!?」
衝撃の告白に明藍が目を白黒させる。
「な、なんで教えてくれなかったんですかっ!」
「なんでって・・・教えたら姉ちゃん家に帰れとか言いそうじゃん。そういうの煩わしい」
まだ口に出してはいないのだが、伝わっていたようだ。かちんと来たが、ここは明藍が折れるべきだろう。なんてったって年上なのだから。
「・・・解決したら、家に帰るんですよ」
ぱちくりと目を瞬かせたあと、宇冠がからりと笑った。
「わかってるって。ちゃんと戻るべき場所に帰るよ」




