二十二
さらさらの砂が指の間に入り込んでは抜け、入り込んでは抜けを繰り返している。砂浜に沿って歩けばいいと言われたが、あまりの歩き辛さに靴は早々に脱ぎ捨てた。素足でも全く寒くないのは、さすが大陸の南に位置する朱建州よりもさらに南にあるだけのことはある。汗ばむほどではないが、動いていれば外套は必要ない。
すぐ横には荒れ狂った海が見えているのに、島内には穏やかな風が流れるくらいだ。まるで結界か何かに守られているような不思議な光景に目を細める。
ん、あれ、何か見えるような─。
「姉ちゃん、足止まってるぞ」
広がっていた景色の代わりにつぶらな瞳が二つ、目の前に現れた。
あまりの近さに明藍は思わず一歩後ろに引く。
「・・・すみません」
「よそ見してると蜃に化かされて海に落ちるぞ」
蜃とは大きな蛤のような風貌で海中から気を吐き楼台を作り出すと言われている。
「気をつけます」
頭を下げると同時に盛大に腹が鳴った。
先ほど聞いた話がずっと頭にあったせいで忘れていたが、まだ朝餉を取れていない。もはや時間はわからないが感覚から言えば昼餉もとっくに過ぎているだろう。こんなに久しく物を食べていないのは霍老師に弟子入りする前以来だ。
気付いてしまったが故に急激に体が怠くなった。お腹が空いて力が出ない。
「・・・仕方ねぇなぁ」
宇冠はとぼとぼと脇道に逸れていく。そして一本の木を見つけると躊躇うことなくぶら下がっている何かをもぎり取った。
「ほら、これ姉ちゃんにやるよ」
渡されたのは、細長い身のようなものだ。色は黄色く、表面には張りがある。食べ物なのはわかるが、どのようにして食べるものかわからない。そのまま齧ろうとすると、宇冠は慌てて奪い取り、しゅるしゅると器用に皮を剥いた。中から乳白色の柔らかそうな実が姿を表す。
「あ、ありがとう」
受け取って口に運ぶ。
色味から淡白な味を想像していたが、予想に反してねっとりと甘く、今までに食べたことのない食感だった。
「これ、何という名前なんですか?」
あまりの美味しさに一本ではなく、房ごともぎりとる。
「香蕉だよ。たくっ、前にも教えただろ」
「前にも聞きましたっけ?」
「あっ・・・」
しまったと言わんばかりに宇冠が口を手で隠す。
「腹ごしらえが済んだんなら早く行こう!あんまりゆっくりしてると日が暮れちまう。俺は野宿なんてまっぴらごめんだからな!」
「あっ、待ってください!」
明藍はまだ食べ切れていない香蕉を抱えると小走りで後を追った。
南の集落に着いたのはそれこそ日が地平線へと飲み込まれる直前だった。すでに至る所で松明に火が灯され、身を守る準備が整っていた。逢魔時を過ぎれば、その後は魔族や妖族が蠢く闇の時間だ。しかし闇夜の住人たちは灯を嫌がる。灯は周りを見通すだけではなく、魔除としての効果もあるのだ。
「すみませんね、まさか王都から来られた官吏の方だとは思いませんで」
この集落の長、海生が頭を下げる。
「いえ、こちらこそ紛らわしい時間帯に来てしまって申し訳ありません」
逢魔時はどんな人間も普段よりは神経過敏になる。そんな時間帯に、明らかに島の人間ではない風貌の明藍と玄武、そして宇冠の組み合わせはすんなりと受け入れられるわけもなく、結局自力で長の屋敷を見つけ出し、官玉を見せてなんとか信じてもらった次第である。
「それにしても、ここら辺は信仰が深いのですね」
部屋の入り口には魔除けの札が貼られている。日に焼けてしまってはいるものの、しっかりと管理されているようで風化した様子は見受けられない。この部屋に来る途中にも何個か貼られているのを見つけた。
「・・・それは今回と同じ、三十五年前に来た術師さまから頂いたものだと聞いとります」
「術師ですか」
「ええ。俺はまだ童だったから見れなかったけど、大層偉いお方だったと親父が申しておりました」
「あの、失礼ですがお父上はどちらに?」
できれば当時のことを知る張本人と話をした方が早い。ただ、今この場にいないとすれば既にあちら側になってしまっている可能性は高い。
「親父は・・・」
海生の視線が床へと落ちる。やはり聞くべきではなかったか。
明藍が謝ろうとしたその時、がらっと勢いよく戸が開く。
「海生!明日は満月だから今日のうちに船は上げておけとあれだけ言っただろうが!」
叫びながらづかづかと部屋に押し入ってきた老人は、そのまま明藍たちには目もくれず向かいに座る海生に詰め寄る。
「満月だ!わかっておるのかお前は!そんなんだから二十手前になっても嫁が一向に来んのじゃ!だいたいお前は」
「わ、わかった!親父わかったからまた後にしてくれ」
「そんなことを言ってお前はいつも逃げおって!今日という今日はっ」
「今客人が来てるんだって!ほら」
海生はそう言うと筋肉のついた太い腕で老人の体を掴み、明藍たちの方を強制的に向かせた。
「客人だと?」
老人は訝し気に目を細める。
視線は宇冠から玄武に、そして最終的に明藍へと注がれる。目が合ったので愛想笑いを浮かべると、老人の白く濁った魚のような瞳がみるみるうちに広がっていき、明藍の肩につかみかかった。まるで老人とは思えぬ力に驚いていると、すぐさま海生が飛んできて引きはがす。
「親父!官吏さまに何してんだ!」
「・・・・ん・」
「おい、花蔓!親父を連れて行ってくれ!」
すぐに先ほど対応してくれた奥方が飛んできて、息子と思しき青年と一緒に老人を部屋の外に連れ出す。老人は一切抵抗はしないが、未だに目を見開き、ぶつぶつと何かを呟いている。
その姿から目を離せずに追っていると、姿が見えなくなる寸前、老人の瞳とかち合った。
「・・・・碧霞さま」
まるで何かに縋るような声だったが、今度はたしかに聞こえた。
そしてその名に明藍は確かに聞き覚えがあった。
「申し訳ありません。親父はいるのはいるんですが、数年前からぼけが始まって何言ってんだかわからないことが多いんです」
海生は笑ってはいるが、声が酷く疲れていた。
「長生きすればよくあることですのでお気になさらずに。ところで、・・・・碧霞さまっていうのは」
「ああ。俺もよく知らねぇんですがね、確かその以前島に来たっつう術師さまの名前だって聞いとります」
「・・・そうですか」
やはり母はこの島に来ていたのだ。
ほぼわかり切っていたことなのだが、この瞬間確かなものになった。
どんな妓楼にいたのか、どんな生まれだったのか、どんな性格だったのか。明藍は母のことはよく知らない。でも、名前だけは渋る父に縋って一度だけ教えてもらったことがある。
『碧霞。それがお前の母の名だ。しかし、二度と口に出してはならぬぞ』
この時、明藍は継母の癇に障るので口に出してはならないと勝手に思っていた。でも、その真意は違ったのかもしれない。いや、きっと違ったのだろう。しかし、明藍には今すぐにそれを確認する術はは持っていない。
わたしは一体何者なのか。
この数刻で妓女の娘という十数年間受け入れてきた自分が根底から覆された。あまりの急展開に本当は誰かに縋りたくなる。こんな時、一番に浮かんだのは、当たり前だが家族でもなければ、霍老師でもない。眉間に皺をよく刻んでいる彼の姿だった。
きゅっと唇を噛む。もはや自分が何者なのかなんてそんなことどうでもいい。先にやらねばならぬことがあるではないか。どうか、無事でいて欲しい。
明藍は小さく頭を振って気持ちを切り替えると、海生に向き合う。
「単刀直入にお伺いします。人魚の館への行き方をご存じでしょうか」
人魚の館という言葉で、ぴくりと海生の肩が跳ねる。海生はどうするか迷った様子だったが、観念したように小さくため息をついた。
「すべてご存じなのですね・・・いいでしょう、話させていただきます」
諦めたような、それでいてどこか安心したような清々しい表情だった。




