二
秋から冬にかけて静かな皇宮だったが、年越しを終えるとまるで草木が芽吹くかのように急激に慌ただしくなる。
あと二月もすれば花祭りが開催されるのだ。
この国の成り立ちにはいくつか説があるが、そのひとつが女神がこの地に降り立ったことだと言われている。その女神に花を捧げる花祭りは国の重大行事のひとつである。
中心となるのは礼部であるが、その他の部署も当たり前だが非常に忙しくなる。それは術部も例外ではない。
「・・・・いや、おかしい。絶対におかしい!!」
机に突っ伏していた天翔が急に起き上がったかと思うと天井めがけて叫ぶ。
とうとう頭がおかしくなってしまったのか。
「天翔、すこし仮眠を取っては如何ですか?」
「・・・・しかし、わたしだけそんなことは」
言いながらごくりと喉を鳴らす。
その反応は完全に腹を空かした時のものである。
きっと反応がちぐはぐになってしまう程、彼は疲れているのだ。
真っ直ぐなところは褒めるべきだが、融通が効かないのは後々直した方が周りも本人も楽になる。
なんと言えばいいか明藍が言葉を選んでいると、白水が口を開いた。
「では、言い方を変えよう。急に叫んだりされると驚いて筆が滑ってしまうので、休息をとって正常な状態に戻ってきてほしい」
直訳すると、周りが迷惑だからさっさと休めよ馬鹿、である。
包んでいるようで包めていない言葉に、ゆらりと天翔が動く。
今の状態で爆発したら、明藍しか手に負えない。その明藍もかなり疲労が来ているので、たぶん乱雑に扱ってしまう。
お願いだから暴走しないでくれ。
「・・・・・・・わかった。師匠、少し仮眠をとります」
そんな明藍の想いが通じたのか─いや、白水の直球な物言いが心に響いたのだろう。天翔はふらふらとした足取りで隣の仮眠室に吸い込まれていった。
「・・・・やっと幽鬼ひとり退治できましたね」
幽鬼その一が怪しく笑い、幽鬼その二が小さく頷く。
二人とも魂が抜けかけていると思ったが、明藍も他人からしたら幽鬼その三にしか見えないだろう。
手元の資料を取る。目を通して判を押すと、大きく罰印を書いた紙を貼り付けた箱の中に放り込むが入り切らずに滑り落ちる。
「・・・・焼却してきます」
ふらりと幽鬼その一、新星が立ち上がる。
明藍も同意しそうになったし、本当はそうしたいのは山々だが、これでもきちんとした書類である。可否についてはきちんと相手側にも把握していて貰わなければ後々の火種となりかねない。
「新星、それこちらへください」
明藍は眉頭を押さえながら、部屋から出て行こうとしていた新星を呼び止める。
手元に戻ってきた紙束にうんざりしながら、明藍は手持ちの筆でそのまま宙に術式を書く。何もついていないはずの筆が宙を軽やかに滑り、きちんと形になっていく。
燃やしたい。その気持ちは十分にわかる。跡形もなく消え去ってくれる爽快感は癖になるものもいるくらいだ。
「新星、白水、これを」
焼却処分されかけた書類の束を三つに分け、そのうちの一つを其々に渡す。
小首を傾げている弟子たちを横目に、明藍はそれを思いっきり天井めがけてぶち撒けた。
「二人とも早く!」
唖然としていた二人を急かす。
二人が慌てて同じように束を投げ捨てる。
素早く明藍が詠唱すると、術式の中に宙に待った書類が全て吸い込まれていく。
なんと瞬き二つ間の出来事である。
「ふぅ」
少しだけ気持ちが晴れた気がした明藍は、また次の書類に目を通し始める。
以前から仕事量は多いがここ数日で急激に仕事が増えていた。最初はやることが多い方が余計なことを考えなくていいと思っていたが、今はそんな余裕はない。
花祭りと称して全く関係ない業務の押し付け合いの末、何でも屋的な立ち位置になってしまっている術部枢密院出張所へと流れ込んできているのだ。
おかげで昼餉を取りに席を外す余裕もなく、出前を取っている状況である。まあ、それが太燕飯店なのだから、明藍は辛うじて息を繋げている。
「今のは転移術ですか?」
「ええ。筆跡から居場所を特定して送りつけてやりました」
「なるほど」
白水は小さく頷くと、忘れないうちにと懐から出した帳面に術式と詠唱を書き写していく。教えとするが、術は見て学んだ方が俄然伸びが早い。
「・・・・あの、少しいいでしょうか」
手を口に寄せ、神妙な面持ちで考える素振りを見せていた新星が手をあげる。
「はい、なんでしょう」
明藍も手を止め、新星に向き合った。
「先ほどの術は人には応用できないのでしょうか?」
「うーん・・・厳しいと思います」
基本転移とは、その術師が行ったことのある場所や記憶にある場所にしかできない。だから王都を出たことがない明藍には今すぐに北地方に行けだの、西地方に行けだの言われたとしても無理だ。
もしかしたらできないこともないのかもしれないが、試したこともないし、実際にどんな副作用があるのかわかっていないだけにおすすめはできない。明藍ならば絶対にやらない。魔術はまだわかっていることの方が少ない。
「そうですか・・・」
明らかに落胆の色を見せる新星。
弟子の、しかもいつも元気いっぱいの新星の様子に明藍もつられて眉を下げ、そして迷う。
仕事も山積みだし、なにより個人的なことには首を突っ込まないように努めている。下手に介入されると嫌がる人間は意外と多い。明藍もまさしくそちら側なので、その気持ちはよくわかる。
ただ、上官に助けを求めれるかと聞かれればなかなか難しい。もしお節介であれば、すぐに引き下がればよいだろう。
「その、何か事情があるんですか?」
「あっ・・・でも」
珍しく新星が言い淀む。
目線を向けると、察しのいい白水が奥に消えていく。
「それでは、休憩がてら話を聞きましょうか」
「えっ、でも、それだと今日中には終わりませんよ?」
今日の分を今日中に終えなければ、残りが明日の分に追加され、さらにその・・・と負の循環に陥るため、何がなんでもその日の分はその日のうちにを徹底していたのだ。
「・・・・いいんですよ。ちょうどわたしも目が霞んできていたところですから」
気を遣ったわけではなく、本当に視界がぼやけてきていた。そういえば目にいいともらった茶があったことを思い出す。
明藍は立ち上がると、湯を沸かしているだろう白水の元へと顔を覗かせた。
「実は、母方の曾祖父が体調を崩しているようなんです」
「それはまた・・・ご長寿ですね」
祖父ならまだしも曾祖父になれば一体幾つなのだろう。
皆が早婚だったとしても、七十手前─霍老師と同世代だ。そう考えると、意外と現役だななんて思ってしまうが、四、五十で鬼籍に入るものも多いこのご時世ではかなりのご高齢であることは間違いない。
運が良かったのか、それとも体がすこぶる強かったのか。大抵長寿はどちらか、もしくは双方に該当する。
「ええ。今まで風邪ひとつ引いたことのない人でしたから」
「それは凄い。ところで、それと転移術、何が関係するんだ?」
四半刻ばかりの仮眠でだいぶ回復してきた天翔が干し棗を齧りながら聞く。
四人の前には菊花に皇帝に献上されたという東方の木の葉を煎じたものを混ぜた茶に干し棗。完全に眼精疲労対策のお茶会だ。ちなみに茶は独特の癖があり、お世辞にも美味しいとは言えない。これは薬だと言い聞かせて皆流し込むようにして飲んでいる。
そして何故皇帝へ献上されたものがここにあるかというと、最近明藍は定期的に琥珀宮に足を運んでいる。実際はその琥珀宮にある隠し通路を通って媛媛と霍老師が住う宮へと足を運んでいるのだが、何故だか皇帝も同行することが多い。そうなれば必然的に話をしなければならなくなり、親密になり、普段は絶対に手が出ない代物をお裾分けしてもらっている次第だ。
まるで沈さんみたい。
沈さんとは、円樹の診療所の裏に住んでいる小父さんだ。饅頭を作るのが異様にうまく、三日に一度はお裾分けしてくれていた。
この間の春節で診療所に帰った時も、まるで親戚の娘のように可愛がってもらい、顔ほどもある饅頭をくれたほどだ。
「それが、曾祖父が今いるのが朱建州なんです」
その言葉に全員がなるほどと無言で納得した。
朱建州は国の最南端に位置する州で、馬を走らせて順調に行っても半月程度の時間を要する。転移できるなら是非ともしたい距離だ。
「お母上がそちらの出身なのですか?」
「いいえ。実は店を祖父に任せるようになってからかれこれ十年以上経ちますが、王都ではなく他の地域で勉強したいと旅を続けておりまして・・・」
つまり、現役引退後に全国を飛び回っていたわけか。
「元気ですね」
「ええ、たぶん僕よりも元気です」
明藍の飾りっ気のない感想に、新星も同意する。
「しかも今回の体調不良というのが、いつもはしない乗馬をして、腰を痛めてしまったみたいなんです」
果たしてそれは体調不良というのかと一瞬思ったが、しばらく寝たきりの状態にしておくと老人というのはそのまま回復できずに逝ってしまうことが多い。特に腰は上と下を繋ぐ要だ。早めに王都の医師に診てもらった方がいいのは確かだろう。
「誰か迎えに行かないのか?」
「迎えに行ってもいいらしいんだけど、半月も馬に揺られていたら病状が悪化するんじゃないかって両親共に二の足を踏んでる」
「たしかに、その心配はあるな」
悩む弟子三人には悪いが、明藍は最適な人材を知っている。行きは仕方ないとしても、帰りは一瞬で戻ってこれて、尚且つ必要であればその場で治療もできる。
しかし、部屋を見渡せば分かる通り、この仕事の量だ。ここでひとり抜ければ、恐慌に陥ること間違いなし。
何か他にいい案はないかな、思案しながら手に取った干し棗を口に運ぼうとしていると、直前で干し棗が姿を消した。
「うーん、たしかに今聞いた話だと高齢だと厳しいだろうな」
そう言って干し棗を口に放り込んだのは、こんな場面でなければ息を呑むほどの美青年。明るい茶毛が印象的だ。
「・・・何やってるんですか」
「心配だから来てやったんだよ。それにお前が上官やってる姿、ちゃんと見たことなかったからな」
「暇だった、の間違いでしょ」
言いながら干し棗に伸ばしていた手を明藍が容赦なく叩き落とす。一瞬膨れっ面になるが、すぐににやりと怪しい笑みを浮かべると明藍に飛びついてきた。そのまま長椅子に押し倒される。
「ちょっ、す」
名前を呼ぼうとすると、人差し指で唇を塞がれる。
「その名前、本当に出していいのか?」
男─朱雀の言葉ではっとさせられる。
こんなところで神獣の名前なんて出したら、今日は絶対に仕事にならない。なんてったって、神獣は魔術に精通するものの憧れだ。
すでに今日はこっそり家に持ち帰って仕事をしようと思っていたのに、これ以上やり残しが増えれば睡眠を大幅に削るしかない。
「翠玉」
その名で呼べということか。
「・・・わかりました。ところで翠玉、離れてください」
「えー、つまんねぇの。もう体の隅々まで知り尽くした仲じゃん。もう少し優しくしてくれてもいいだろ〜」
朱雀は言いながら更に腕を明藍の体に纏わり付かせる。
どうしてこうも性別が変わるだけで性格まで変わるのだろうか。明藍としては大人っぽい同性の方がやりやすい。
「では、こうしましょう。このままでは茶すら飲めないので起こしてくれませんか?」
「茶が飲みたいなら口移しで飲ませてやろうか?」
だからそういう冗談は今はいらない。
「あっ、あの、し、師匠」
震えるような声に顔を向けると、弟子三人が顔を真っ青にしていた。その視線の先は残念ながら明藍の角度からは長椅子の背が邪魔で見えないが、訪問者でもやってきたのだろうか。
一方、朱雀といえばなにやら楽しそうに口元にきれいな弧を描いていた。朱雀がこんな表情をするとすれば、顔見知りの霍老師辺りか。
腕の力が緩んだ隙を見てなんとか抜け出した明藍は、顔を上げた瞬間ひっと小さく悲鳴を上げた。
そこに立っていたのは、目だけで人を殺せるのではないかというほどの鬼気迫る、いやもはや鬼のような険しい顔をした高明だった。その背後には覇気だけで萎縮しきっている徐副官もいる。
「・・・・・・・・・ご、ご機嫌麗しゅうございます」
どうしてそんなに怒っているのかわからないが、これ以上刺激しては駄目なことくらい赤子でもわかる。
高明が口を開くのを石像のように固まって待っていると、ふはっと背後で笑い声が上がった。
「すざっ、翠玉!」
「いや、ごめっ、ふ、あははっ」
しんと静まり返っている室内に朱雀の笑い声だけが響く。
朱雀が一頻り笑い終わったところで、それまで黙っていた高明が口を開いた。
「一つ聞くが、お前は何者だ?」
「俺か?」
「そうだ。ここはあくまで枢密院内部になる。関係者以外は立ち入りを禁じている」
その言葉は朱雀に向けられたものだが、同時に明藍をも咎めるものだった。
責めるような視線に顔が強張り、胸が痛くなる。
しかし、そんなことお構いなしの朱雀はくるくると自身の横髪を弄びながらまたにやりと笑みを浮かべた。
「俺は翠玉。明藍の兄弟子だ。以後、お見知り置きを長官殿」
皆が固唾を飲む中、また上手いこと言い逃れたなぁと明藍は内心こっそり感心した。
明藍の兄弟子となれば、それは必然的に霍老師の弟子となる。霍老師は今や前代未聞の皇帝付き術師であり、尚且つ高明はどうにも霍老師には頭が上がらないように見える。
朱雀が差し出した手をしばし凝視していた高明が渋々と言った様子で握った。
一見すると和解のように見えるが、双方で火花が散っていることを明藍以外の全員が認識していた。




