四、金四枚
湯気が立ち昇る茶を啜る。
やや渋味は強くなったものの、まずまずの出来だ。ただ相手がどう思っているかはわからないが、普通に口をつけてくれているので吐き出すほどは不味くないということだろう。初めて茶を入れた時、円樹と玉麗に言葉を失わせた明藍にとっては及第点である。
「・・・」
場所を変えてみたはいいが、お互い無言なことには変わらない。こんな時、社交的な玉麗であればどんどん話題を振って場を和ませることができるだろうに、気の利いた言葉などひとつも浮かんでこない。
こんな時に限って患者は全く来ないもので、二人しかいない診療所には時折茶を啜る音だけが響く。
そうだ、名前を聞いていなかった。
懸命に話題を探していた明藍が意を決して無意識に固く閉ざしていた口を開こうとしたが、同じ時機で男が懐から何かを取り出す。
墨に漬け込んだかのように真っ黒のそれに、明藍は見覚えがあった。
「・・・魔導書」
「知っているのか?」
しまった。
慌てて口を両手で塞ぐも、すでに零れ落ちた言葉は男の耳に拾われてしまっている。今更どうすることもできない。
「・・・存じております」
観念したように吐き出した。
知っているもなにも春明藍といえば魔導書と言われるくらい常に持ち歩いていた代物だ。もはや寝食を共にしていたと言ってもいい。
明藍の凄さは生まれ持った才能はもちろんだが、その知識量にある。常人離れした魔術に関する知識は、魔導書管理官を軽く凌駕している。実は現在も夜な夜な時間を見つけては魔導書に目を通し続けている。皇宮術師に戻る気はさらさらないが、魔導書を読むということは生活の一部なのだからやめるに辞められなかった。
「内容はわかるか?」
「・・・初級程度であれば」
言いながら初級とは一体どれほど前のものだったかと記憶を遡る。何せ明藍が初めて魔導書を手に取ったのは数えで六の時だ。十年も前のことなどほとんど覚えていない。
明藍の答えに、男は先ほどのように顎に手を添え、じっと考え込む。
よろしくないことを言った自覚があるだけに、明藍はそわそわとしてしまう。
居心地の良さに忘れそうになるが、自分は追われている身なのだ。正体がばれれば、たちまち連行されるだろう。
まあ、ただの武官に大人しく捕まる気はさらさらないし、万が一の時は何かしらの策を講じるつもりだ。
「魔導書を読んだことがあるということは、魔術に精通しているのか?」
「・・・わたしの知識など趣味に毛が生えた程度です。期待に添えられるとは思いません」
「魔術がわかるのだな」
やんわりと断ったつもりだったのだが、男には伝わってくれなかったらしい。
それまでかち合うことのなかった視線が噛み合った。初めてしっかりと見た瞳は、底の見えない海のように深く、吸い込まれそうだ。
「・・・瑪瑙、いや琥珀か?」
少しでもまわりの音がしていれば聞き落としてしまうほど小さな声で男が呟いた。はっとし、すぐさま顔を背ける。
まさかかけていた術が解けたのかと内心焦るが、冷静に確認するもどの術も解けてはいなかった。
ひっかかりを覚えつつも、下手に突っ込んで墓穴を掘りかねない。明藍はなにも聞こえていない風を装う。
「わかるかわからないかと問われれば、わかります」
「そうか、それならば話は早い」
男が身を乗り出した。反応するよりも早く手を掴まれる。
ぎょっとする明藍をよそに、男ははっきりと言った。
「俺に魔術を教えてほしい」
どうか聞き間違えであってほしい。
明藍が今一番しなければならないことが魔術から遠ざかることだ。いや、実際には魔導書をこっそり読んでしまっているので完璧に離れることはできていないが、もはやそれを奪われると何が残ると問いてしまうほど生活の一部となっているので目を瞑ってほしい。
断ったら断ったで角が立ちそうだし、すんなり受け入れるわけにはいかない。何かいい方法はないものか。
表情はさほど変わらないものの、心中穏やかではない明藍に男は追い討ちをかける。
「毎日通えばどのくらいでこれが理解できるだろうか?」
「毎日ですか!?」
「ああ、とにかく早く理解する必要があるのでな」
声が裏返ってしまったが、白目を剥きそうになるのも机に突っ伏すのも堪えた自分を褒めてやりたかった。
何と返せばいいか迷っていると、男が何を思ったのか指を四本立てた。
「・・・指?」
「四枚だ」
「四枚?」
一体何のことだ。
男の意図に皆目見当がつかない明藍は小首を傾げる。
「一月で金四枚だ」
「・・・金ですか?銀ではなく?」
「ああ、金だ」
男はしっかりと頷く。それと同時に、明藍は頭を押さえた。
銀十枚で平民が一月暮らすことができる。銀が十枚で金一枚、つまり男の提示する金で四月分何もせずとも暮らしていける─らしい。
『らしい』というのは、明藍も下町で平民の暮らしをしてまだ三月、しかも割りかしいい暮らしをさせてもらっているのでその相場はよくわかっていない。
ただ、ひとつはっきりしているのは、ここで断るのは非常に危険な行為だということ。
指南するだけで金四枚も手に入るのに断る平民などいるはずもない。もし断ったら、それこそ危ぶまれるかもしれない。術はかけている。その点抜かりはないが、絶対とは言えない。むしろ絶対などと過信することほど愚かなことはない。
「・・・指南したことなどないため力不足かもしれませんが、よろしくお願いします」
選択肢などなかった。
頭を下げるふりをして、明藍はしばらく項垂れていた。