二十五
「っくしゅん!」
ぶるりと体を震わすと、同じ部屋にいた三人組が同じ時機でこちらを向いた。
そして、また同じようにため息をつき、同じように眉を吊り上げる。やばい。
「師匠」
「あっ、い、今のは」
「今日はもういいので、お戻りください」
「で、でも」
「もちろん隣の仮眠室ではなく、自室にです」
「・・・はい」
事前に打ち合わせでもしていたのかと疑いたくなるほど息のあった掛け合いに、明藍は大人しく頷いた。
弟子全員に心配される上官ほど情けないものはない。しかもそれが普段明藍が口酸っぱく言っている体調管理に関してなのだから、もはや従う以外の選択肢などなかった。
いそいそと片付けをしていると、斜め前の机で作業していた白水が半眼になる。
「師匠、もしかしてですが自室に戻って仕事なんてしてませんよね?」
ぎくりと肩が跳ねる。
「・・・・・しませんよ、そんなこと」
笑み浮かべながら、明藍は持ち出そうとしていた資料をそそくさと元の位置に戻す。
目敏い、目敏すぎる。元々三人の中でもよく気付く方ではあったが、やはり妓楼への潜入捜査がさらに彼の神経を鋭くした気がする。
あとから聞いた話では、白水の報告では直接桂花から聞いたわけでもないのに占術師が関わっていると掴んでいたらしい。しかも明藍よりも先にだ。師という立場からしても先輩という立場からしてもなんとも不甲斐ない限りである。
「風邪を甘く見るなと言ったのは師匠ですよ。もう半月になるのですから、早く治してください。その分、僕たちにしわ寄せが来るんです。あ、だからといって持って帰ってはいけません」
「・・・はい」
明藍は伸ばしかけていた手を戻す。
あわよくばと思ったが、そうは問屋が卸さない。仕方なく手ぶらのまま明藍は席を立つ。
「あ、そうだ。そういえば昨日戸部の方がこれ持ってきてましたよ」
渡された用紙に目を通し─またか、と明藍は大きく肩を落とした。
「また駄目だったんですか?」
判子を片手に新星が書類を渡してくる。帰れという割に、居るならば少しでも仕事を進めようとする姿勢は嫌いではない。
「ええ。また却下だそうです」
「またですか」
今度は天翔が書類を持ってくる。この子達は本当は帰らせる気なんてさらさらないのではないだろうか。
「彼らはお役所仕事だから、事例がないと動かないんですよ」
白水がため息混じりに書類を差し出してきた。
うん、全く帰らせる気がないな。
しかし、明藍が座ろうとすると三人組がまた打ち合わせでもしたように半眼で睨めつけてくる。もしかして、これはたまに耳にする上官いびりというやつではないのだろうか。
まあ、いびられる位迷惑はかけているから仕方ないか。
ここで受けて立つと言えないところが明藍の性格である。
「少し戸部に寄ってから帰宅します」
書類のやり取りばかりでは埒が明かない。
判子を新星に返すと、代わりにとばかりにまた書類を渡される。
またかと判子を取り戻そうとして、目を通しながら自分宛の書類ではないことに気付く。
「お願いしてもよろしいでしょうか?」
「別にいいですけど・・・」
たしかに目的地への途中といえば途中だし、隣なので行けないこともないが。
新星を横目で見ると、何故か意味深な笑みを浮かべる。
なんだ、その顔は。
明藍がなんとも言えない表情を浮かべていると、横から白水がこそっと耳打ちをする。
「師匠、新星はあくまで役に立っているつもりなので」
「役に立つ?」
何故上官を使い走りにすることが役に立つのだろうか。もしや、自分では気付かないが太った・・・いや、普段からもう少し肉をつけろと言われているくらいだからそれはないはずだ。では一体何の役に立つのか。
明藍の中で謎が深まる。それに気付いた白水がさらに言葉を続けようと顔を近づけるが、今度は横から伸びてきた手に阻止される。
「・・・なんだよ、新星」
「なんだよじゃないよ、白水。人妻にそんなにほいほい近付いたら駄目だぞ!」
「・・・・・・・・はい?」
待て、今、なんと言った。
「大丈夫ですよ師匠!いくら夫婦とはいえ、立場上そうほいほい会いに行けないのは重々承知しています。だからぼくたちも全力で便宜を図ります!」
「あの・・・その・・・えーと・・・えっ?」
混乱する明藍を他所に、新星が眩いばかりの笑顔を浮かべる。さすが幼い頃より商売の手伝いをしてきただけあって営業笑顔が完成されている。う、まあいいかと一瞬思ってしまったが、すぐ我に返った。
「ま、待ってください!わたしがいつ婚姻したんですか?」
「・・・・え?」
新星が驚いた顔で白水を見るが、白水は顔を左右に振っていた。みるみる顔が青ざめていく。
「えっ・・・・旦那だって媛媛が」
なるほど。その一言ですべてを理解した。
つまり、新星は高明が明藍の旦那だと媛媛から聞いたのだろう。そして花街ではないここで旦那といえば、それこそ戸籍上の夫である。しかも時機悪く、明藍が戸部に申請しているのは媛媛を養子にする申し入れだ。事情をよく知らぬ者からすれば、そのような考えるに至る欠片はたしかに揃っている。
「言っときますが、わたしは誰とも婚姻などしていません」
だいたい婚姻していれば、こんな何回も戸部とやり取りする必要もないのだ。
考えてみればわかりそうなものの、あくまで部外者の新星はそこまで頭が回らたかったらしい。対して、全くの部外者とも言い切れない白水はその表情を見る限り、否定してくれていたようだが─まあ、聞く耳をどこかに落としてきてしまったのだろう。
「それで、結局わたしはこれを持って行ったほうがいいんでしょうか?」
言いながら、そんないらぬ気遣いならば自分で持って行ってくれとなかなかの重さになる書類を渡そうとするも、
「いえ、それはお願いします。師匠、僕たちまだ寿命を縮めたくないので」
何をよくわからないことを。
再度白水に通訳を求めるも、今度は白水も頭を縦に振っていた。天翔に至っては机の下に隠れている。
「師匠、大きな暗示、呼び名です」
「呼び名・・・?」
そういえば、ついこの間まで明藍さまと呼ばれていた気がするが、全員がいつの間にか師匠と呼ぶようになっていたような、いないような。
「もしかして枢密院で何か言われましたか?」
花街の任務明け、もともと体がそんなに丈夫ではない明藍は無理がたたったのか高熱を出してしまい五日ほど療養していた。早急に今回の一連の事件の処理をしなければならなかったため、枢密院とのやり取りを含めて弟子たちに委任した次第である。
枢密院という単語に全員の肩が面白いほど跳ねる。
返答がなくともそれが答えだった。
「・・・・わかりました。それではこれはわたしが持っていきます」
大方、上下関係に厳しい武官に注意でもされたのだろう。当の本人は全く気にしていないので、呼び名などなんでもいいのだが。
部屋を出るとき、明らかに安堵した様子の弟子たちの姿に、彼らをそこまで怖がらせる武官とはいったい何者なのかとほんの少し興味がわいた。
ぽかぽかと春を思わせる陽射しが降り注ぐのは、今年の冬の特徴だ。例年に比べかなり暖かい、所謂暖冬である。しかし、いくら暖冬だとはいえ冬は冬だ。半裸のような格好で長時間寒さを耐え忍べば誰だって風邪のひとつや二つ引くものだ。
「はっくしゅん!」
「・・・・早く帰れ」
呆れ顔の高明が手早く書類に判子を押す。
ちゃんと見ているのかと疑ってしまうが、元々彼は文字を目で追うのがとてつもなく速い。難解な魔導書でもいい速度で読み進めていくので、あれが普通の書であれば数倍の速さで読み終えてしまうはずだ。
「言われずとも今日は早引きします」
「そうか。しかし、それにしては抱えている書類が多い気がするが」
高明が手を差し出してきたが、明藍は素知らぬふりをしてさっと後ろに隠す。
今日は何もないと思っていた眉間に、小さな溝が出現する。
まずい、さっさと退散しよう。
「気のせいではありませんか。それではわたしはこれで」
判子が押された書類を受け取るも、高明は離そうとしない。それならばと手に力を込めるが、相手は指二本なのに、全く歯が立つ気配がない。
「・・・・高明さま、離していただけませんと書類が破れてしまいます」
すでに変な力が入っているせいでいびつな線ができかかっている。
これは東長官に出す正式な書類だ。あまりに体裁が悪いと作り直しになるため、下手に力を入れることもできない。
「わかった」
「ありがとうございます、それでは」
「後ろ手にある書類を見せてくれれば離そう」
わたしのお礼を返してくれ。
「・・・・わかりました。でも、高明さまが何を言おうともわたしはあきらめませんから」
先に宣告しておく。
高明は書類に目を通す前に溝を深め、目を通してからさらに溝を深くした。
「・・・おまえ、やはりまだ諦めていなかったのか」
呆れたような言い草に、明藍は少しだけむっとなる。
「諦めるも何も、これ以外方法がないではないですか」
媛媛を養女として受け入れる。
この話を最初にしたとき、高明にはいい顔をされなかった。いや、かなり渋い顔をされた。
しかし、その反応も無理はない。常識で考えれば、未婚の、しかも適齢期の女人が養女を受け入れるなど狂気の沙汰である。それこそ養子自体、どうしても子に恵まれぬ者や男に恵まれなかった者が受け入れるものだ。養女になればもっと話は複雑で、政略結婚に用いられる場合が殆どだ。
「・・・何もお前でなくともいいだろう」
「いいえ、わたしでなければなりません」
自身の禿だったから情が湧いたのは間違いない。ただ、それだけでなく媛媛の体は完全に元の状態に戻ったわけではない。目に見える部分だけでも、片腕の肘から先はまだ鱗が残っている。
彼女の状態がこれ以上進行するのかしないのか、はたまた元に戻せるのか戻せないのかも含めて未知数だった。そんな不確定要素がある中、他人に預けられるわけはない。
「しかし、現にお前では不受理ではないか」
相変わらず、痛いところをついてこられる。
そうだ、そこなのだ。明藍としては媛媛を養女として受け入れるべく、官吏が主に使う宿舎からある一定の位以上が住まう官宮へ移り住んだ。以前から打診はされていたものの、広い宮に一人で住む利点がどうしても見つけられなかったため延期にしていたのだが、養女を宿舎で受け入れるわけにはいかない。管理人の小母さんはいい人が涙ぐみ、これまた何か勘違いしている雰囲気だったが、敢えて訂正はしなかった。小母さんも仕事以外は何もできない明藍が婚期を逃さないか心配してくれていた一人である。
そこまでしたのに不受理とはいかに。
明藍もそろそろ堪忍袋の尾が切れそうだ。
「・・・元々、なんで妓女は飛んで貴族にはなれないのでしょうか?」
「妓女は賎民だ。賎民がいきなり貴族の籍を手に入れられるわけがない」
身分は皇族、貴族、平民、賎民に分けられる。
この中で妓女は賎民だ。賎民が貴族になることは稀にある。妓女ならば身請けが主な事例だろう。しかし今回のように賎民から貴族へ養女として受け入れた事例はないのだという。そしてそれが不受理の大きな理由だ。
明藍とてそのくらいわかっていた。でも、明藍は嫡子ではなく庶子だ。それこそ妓女産んだ子である。庶子は扱いが適当なのでいけると踏んでいたのだが、ここで誤算があった。
「だいたいおかしいのです。何故わたしが庶子扱いではないのでしょうか」
何回目かのやりとりではっきりと庶子ではないと綴られていた。それならば一体自分はなんだと問うたところ、上官の閲覧許可が下りないと詳しいことはわからないという回答がきた。一応これでも四家と呼ばれる名門の本家筋ではあるが、其れにしてもわざわざ上官に許可を取らずとも下級官吏でも閲覧くらいできるはずだ。もはや管理自体が杜撰だとしか思えない。
「お前、庶子ではないのか?」
「えっ、ええ」
頷いたところで、しまったと思い出す。
そうだ、以前高明の出生についてひとつだけ聞いたではないか。高明も妾腹だったと。
あれ、でも姉しかいないから家督を継ぐのは自分だとも言っていた。ということは実質嫡子となんら変わりないではないか。
ちらっと横目で見ると、案外気にしていないというよりも心なしか口元が緩んでいるようにも見える。
庶子同士ということで親近感を抱いてくれていたのであれば申し訳ないと思ったが、そうではないらしい。
「そんなことより、そのせいで媛媛を一旦平民の籍に入れて、それからでなければ貴族の籍には入れられぬと」
「まあ、妥当だところだな」
「高明さま」
明藍が高明の手を握る。
一瞬驚いたように目を見開いた高明だったが、すぐに目を細める。
「お前・・・・何を企んでいる」
「高明さまの出自に関して伺いたいのですが」
その言葉に珍しく後ろに控えていた真の肩が揺れる。なんでも今日は徐副官は出払っているらしい。
一方高明はというと何やら難しい顔をしたかと思えば空いている方の手で顔を覆った。
真の反応も含め、やはり自分ごときが立ち入るべきではなかったのだろうかと後悔し始めていると、高明がやっと口を開いた。
「いつかは気付くと思っていたが・・・・それにしてもいつわかった」
「いつ、ですか?」
質問の意味が分からずに小首を傾げる。
「・・・まあ、よい。どうせ話すべき日は遠くなかったということだろう」
「そうだったんですか?」
「ああ、ただお前には直接俺から話したかったが致し方ない」
なんだか微妙に話がかみ合っていない気がする。
「そうだな、では何から話そうか。まず俺の」
「ちょっ、ちょっと待ってください」
話が長くなりそうな予感を察知した明藍が話を止める。
友人の出自について興味がないわけではないのだが、如何せんこのあと戸部に寄らなければならない。あまり時間を食うと昼休憩の時間になってしまい、担当者がいなくなってしまう。
むっと珍しくむくれた顔を一瞬見せた高明だが、咳ばらいをして「なんだ」と話の続きを促す。
「あの、ひとまず確認したいのですが、高明さまは平民の出ということでよろしいでしょうか?」
「えっ」
驚愕の声は高明ではなく、その後ろの真のものだ。
つまり、これは─
「・・・・違いますよねぇ」
一旦高明の養女にして、その後明藍の養女にするという作戦は実行できなさそうだ。
それよりも今は呆れて物も言えない状況に陥っている高明の機嫌をどう戻すかが先決である。
昨日の友は今日の敵になってしまっては大変困るのだ。




