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二十四

 触れた腕が燃えるように熱い。

 抱きしめた媛媛(ユェンユェン)はすでに半分ほど魔族になりかけていた。薄く開いた瞳はまるで山羊のように人からはかけ離れており、皮膚は硬化し鱗のようで明藍(メイラン)の柔肌を容赦なく傷つける。ざくざくと刃物で削がれるような痛みに思わず叫びそうになるが、そんなこといちいち気にしている余裕はない。その間にも魔堕ちは進み、苦しみは続く。一刻も早く解放してあげたかった。

 (カク)老師(せんせい)で無理だったのであれば、老師から見て半人前の明藍にほとんど打つ手はない。しかも魔封具のせいで直接術は施せないときた。

 これといった策はない。自殺行為だと思われても仕方がない。それでも助けたい。自己中心的だと罵られてもいい。

 溢れ出した瘴気が明藍の体にまで纏まりつく。息が苦しい。頭がくらくらする。それでも明藍は離れない。むしろ腕に力を込める。

 脳裏に浮かぶのは笑いながら自分を慕ってきた媛媛だ。例えそれが演技だったとしても─助けたい。

 途端、明藍の強い想いに反応するかのように魔封具が音を立てて壊れ、同時に全身から白い光が放たれる。春の木漏れ日のような柔らかい光は腕の中の媛媛も、意志を持った生き物のように逃げ惑う瘴気も、全てを飲み込んだ。

 まるで何かに包まれているような心地よさに明藍は思わずそのまま眠りそうになってしまう。

 そうだ、これはまるで─母の胎のようだ。

 当時の記憶は一切ないが、本能が一番心安らかだった時を体は覚えている。

 

 「媛媛」


 瘴気で見えなくなっていた少女の名前を呼ぶと、鱗で覆われた小さな肩がぴくりと揺れた。

 頭に手を伸ばし、ゆっくりと撫でる。


 「ひとりでよく頑張りましたね」


 ゆるゆると開かれた虚な瞳が明藍を捉える。

 

 「・・・がん、ばった?」


 叫び声を上げていたせいか、媛媛の鈴のなるような可愛らしい声は切れかけの弦楽器のような張りのない声になっていた。

 明藍はまだ頭をゆっくりひと撫でする。


 「ええ、頑張りました。したことは許されることでは決して有りませんが、それでもよく頑張りました」


 媛媛のしたことは決して許されることではない。

 でも、いくら大人びているとはいえまだたったの八だ。善悪の分別もつかない年齢である。それに、本当の彼女はとても優しいことを知っている。そうでなければ、対立する立場である明藍に態々義良(ギリョウ)には近づくなと警告なんてしないはずだ。


 「あたし・・・小姐(ねえさん)の、旦那も殺そうとしたのに?」

 「・・・そうですか」

 「一緒に遊んでくれた白蓮(ハクレン)にも毒を持ったんだよ?」


 言いながら媛媛は人のそれに戻った瞳を揺らす。


 「白す・・・白蓮のことや旦那のことが嫌いでしたか?」


 媛媛が腕の中で懸命に頭を横に振る。

 

 「では、きっと謝ったら許してくれますよ。あと、よかったらその旦那にもお礼と謝罪しておきましょうか」


 花街では馴染みの客を旦那と呼ぶので、十中八九高明(コウメイ)のことで間違いないだろう。

 少し離れたところで傍観していた高明を見る。目があったかと思うや否やふっと目を細めたのが分かった。

 何故だろう。その顔を見ただけで胸がいっぱいになる気がした。


 「・・・許してくれるかな?」


 媛媛の玻璃の瞳が揺らめく。


 「大丈夫ですよ、高明さまはお優しい方ですから」

 「そ・・・うん、そうだね」


 一瞬媛媛が微妙な顔をした気がしたが、今は深く追求する余裕はない。


 「・・・それで、あなたはこれからどうするおつもりですか?」

 「どうするって、逃してくれんのかよ」


 吐き捨てるような物言いに、明藍は顔を歪めた。

 当たり前だが反省の色など微塵もない。

 ぴりぴりとした肌を刺すような空気の変化に媛媛が小さく息をのむ。


 「今回は絶対に逃がしません」

 

 言うが早いか、明藍が朱月(シュゲツ)目掛けて雷を落とすが、間一髪で避けられる。凄まじい身体能力だ。


 「お前のその詠唱なしってどうにかならねぇの?」


 今度は朱月が詠唱しながら体の前で腕を大きく右から左へと素早く動かすと同時に大量の霧が周囲を取り囲む。


 「っこれは」

 

 慌てて媛媛の口元を手持ちの手巾で覆う。

 大量の霧は毒を含んでいる可能性がある。明藍を連れて帰ることが目的だと考えると、猛毒ではないにしても自由を奪う程度の毒性はあってもおかしくはない。ただし、弱り切っている媛媛にとってはそれが命取りになる可能性もある。

 姿が見えないため警戒していると、背後に気配を感じる。振り向くと、高明が立っていた。

 

 「奴は?」

 「この霧で見失いました。ただ、気配は・・・」


 目を細めて探る。

 一二三・・・生者が自分たちを合わせて六。まだ近くにいるのは確かだった。


 「高明さま、媛媛をお願いします」

 「ああ、わかった」


 高明が頷き、手に肩を乗せられた。

 ぞわりっと肌が粟立つ。

 明藍は素早く身を翻し、媛媛を抱き寄せた。


 「どうしたんだ藍藍(ランラン)?」


 高明が再度手を伸ばすが、明藍は後退る。

 予想外の動きに不思議そうに首を傾げる。同じように腕の中の媛媛もきょとんとした表情で明藍を見上げた。明藍だけが一人、似つかわしくない険しい表情をしている。

 

 「藍藍ランラン

 「来ないでください・・・あなた、一体誰なんですか?」

 「誰って・・・小姐の」

 「違います」


 媛媛の言葉を遮りきっぱりと否定する。

 彼が何者なのかはわからない。ただ、はっきりと高明でないことだけは確かだ。彼はあんな殺気を明藍に向けるわけがない。

 そうだ、おかしいのだ。義良はすでに息絶えているから、生者は五人のはずだ。

 

 「・・・戦いを知らぬ籠の中の小鳥だと思っていたが、存外嗅覚は鋭いらしいな」


 高明、いや高明の真似をした何者かがにやりと怪しく笑った。

 刹那─腕が首に絡みつく。


 「ったく、もう少しおとなしくしろよ」

 「ッ朱月!」


 姿を現した朱月の腕にさらに力が込められる。

 息がうまくできず、もがくが腕に力が入らない。腹の傷は治ったとはいえ、血液は少なからず失っている。食事もまともに取れていないせいか、軽い貧血も相まって意識が朦朧としてきた。媛媛がなにかを叫んでいる気がするが、その内容はもうわからない。

 痛いのも、苦しいのも、理不尽にも慣れているつもりだったが、それはあくまで籠の中での話だったと改めて気付かされる。籠を一歩出れば、それを上回ることなどいくらでもある。

 ああ、だめだ。視界がぼやけて、完全に力が入らない─落ちる。

 

 「藍藍ランラン!!」


 高明さま。

 その声に現実に引き戻される。

 白水の無事を確認しなければならない。霍老師と太燕タイエン飯店に行って包子パオズを奢ってもらわなければならない。梅雪メイシュの胎の子に名をつけなければならない。そしてなにより、友人との約束を果たしていない。

 まだやらなければならないことがたくさんある。こんなところで捕まってしまってはどれも未達になってしまう。そんなのほかの誰かが許してくれても、自分が絶対に許せない。

 明藍は震える手で簪を抜き取ると、最後の抵抗とばかりに朱月に突き刺す─のではなく、自身の二の腕付近にそれを突き立てた。悲鳴をあげてしまえば、口が回らなくなりそうで声を噛み殺す。そして、 

 

 「ッ出でよ!朱雀!」


 その声に反応するように甲高い鳥のような声が上がり、一気に明藍の体が炎に包まれる。


 「っくそ!」


 朱月が手を放し距離をとった。しかし、火は意志を持った鳥のように朱月を襲い続ける。

 その場に倒れこみそうになった明藍を高明が支える。今度は本物だ、と安堵から体の力が抜ける。完全に体を預ける形になってしまうが、今は仕方がない。

 息を整えながら明藍は視線を上げた。


 「・・・どこか痛いのですか?」


 どうしてそんな苦しそうな泣きそうな表情をしているのだろうか。

 明藍の問いに、高明はさらに苦しそうに顔をゆがめる。

 やはり痛いのか。痛いのならば、治してさしあげなければ─。

 明藍が体を起こそうとするが、そっと制される。それに抗えるほどの体力はもう明藍には残っていない。


 「・・・お前は、またこんな傷を」


 ああ、そういうことか。

 じわりと胸に知らない何かが広がる。

 この人はたった今作った明藍の傷を憂いてくれているのだ。

 高明のことを厳しい、怖いという者は多い。たしかに頑なな部分はあるが、それでも根っこはこちらが心配になる程優しい。

 

 「すぐに・・・治せます、から」

 「そういう問題ではないだろう」

 

 言いながら服を裂き、傷口をきつく縛る。手際の良さに、さすがは武官だと妙に納得したが、高明は全く納得していない顔のままだ。


 「ありがとうございます」

 「礼はいい。それよりも、もっと自分を大事にしろ。お前を見ていてると肝が縮む」


 そんなことを言われても、他に方法がなかったのだから仕方がない。魔術はなんでもできると思われがちだが、万能ではないし、制約だってある。

 

 『ギィャアアアアア!』


 咆哮がした方を見ると、未だ高明の姿を真似た者が朱雀を漆黒の槍で射ていた。術師が本調子ではないせいで、朱雀もまた本来の力を発揮できていないのだ。しかし、その後ろで片腕を抑えている朱月はだいぶ苦戦したようで、体の至る所に火傷のような跡が目立つ。


 「高明さま」

 「ああ。俺は何をすればいい」


 高明が魔剣に手をかける。

 ここで奴らを逃してはいけない。口に出さずとも両人の考えは一致していた。

 朱月が接触してきたのはこれで二度目だ。その度に多数の犠牲が出ている。

 明藍を連れ去る。その目的の先に、彼らはどんな思惑を描いているのだろうか。

 考えてもわかるわけがない。元々他人のことなどわからないのに、自分とは全く相容れない者の考えなど到底理解する気もない。


 「剣をあの狐めがけて投げてください」

 「・・・ここからでは届かないぞ」


 こいつは物の通りがわかっているのかという顔をされたが、さすがに武術に精通していない明藍でもこの距離で届くとは思っていない。


 「方向さえ合っていれば大丈夫です」

 

 高明は釈然としない様子だが、小さく頷くと魔剣を投げた。明藍がすぐさま弓を引くような姿(ポーズ)を取り放つ。軌道が下に剥きかけていた魔剣は何かに押されるかのようにぐんぐん加速する。そして、魔剣が狐面を捕らえた。

 朱月が顔を押さえる。面が落ちて、ばりっと鈍い音がする。

 予定では肩あたりに刺さる予定だったが、見事に仕留め損ねた。自分の精度の悪さに歯を鳴らしそうになる。


 「・・・ってぇな」


 切れた頬を押さえながら苛立たしげに顔を上げた朱月を見た高明が息を呑んだ。代わって明藍はと言うと、またかと思いながらも違和感を感じていた。

 先ほどの高明を真似た者はどこからどう見ても高明だった。しかし、朱月はというと─

 

 限りなく自分に似た他人。


 似ているが、同じではない。しかし、その風貌はまるで血を分けたように瓜二つである。

 ざわざわと頭の中が騒めき、鳩尾に何かが引っかかったような感覚に陥る。

 声に出してはいけない。反射的にそう思った。一度口から出てしまえば、それは二度と戻ってこない。言葉には魂が宿る。真実は違ったとしても、それが誠になってしまう気がして明藍は口を固く結んだ。

 静寂の中、両者が視線を逸らさず睨み合っていると、高明の紛い者が朱月の肩に手を乗せた。


 「行くぞ、朱月」

 「っ老師!今ならあの男さえ殺せば」

 「もう無理だ。よく見てみろ」


 促された朱月が老師の指差した先を見ると、そこには大きな術式の真ん中に佇む霍老師の姿が。


 「逃さんぞ!蓬莱(ホウライ)!」


 術が発動し、稲妻の龍が襲いかかる。

 しかし、龍は朱月たちの前で跳ね返される。その間に男─蓬莱が身を翻した。


 「ッ待て!蓬莱!蓬莱ー!」


 蓬莱はこちらを振り向くことなく、ひらひらと手を振った。その後を不満そうな表情の朱月が続くが、ぴたりと足を止めたと思うと顔だけ振り返る。

 そして、吐き捨てる。


 「またな、─よ」


 ─今、なんと言った。

 

 「待って!」


 急いで呼び止めるが、すでに二人の姿はなかった。


 「・・・藍藍(ランラン)

 「戻りましょう、高明さま」


 高明が言わんとしていることはわかっている。

 でも、口にしたらそれが最後。

 事実として受け入れてしまういそうな自分がいる。そしてそれはひどい嫌悪感を覚える。

 だからあえてこの場では知らぬを貫かせて欲しい。話すのは事実が分かってからでも遅くはないはずだ。

 無言で戻る明藍の後を高明もまた無言で追う。刻み足で歩を進めていたが、特に急いだ様子もないのにすぐに追いつかれてしまうのは元の歩幅の違いによるものだろう。

 隣に並んだ高明を見上げるが、彼はやや眉間にしわを寄せ、ここではない遠くを見ていた。それはまるで遥か遠くの未来を見据えるかのように。

 彼がその先にどんな景色を見ているのか、明藍にはもちろんわからなかった。


  『またな、妹よ』


 朱月の言葉が何度も頭の中を駆け巡る。

 その度にやはりと思っている自分と、違うと否定する自分がごちゃ混ぜになり、ぞわぞわと胸が騒めき、落ち着かない。

 ふと、真横から指が手に絡んできた。驚いてその本人を見るも、無表情で前を見据えたままだ。

 自分だけ反応して恥ずかしいではないか。悔しくてお返しとばかりに指を絡めると、ぴくりと小さな反応が返ってくると同時にさらに強く指が絡んでくる。

 どうしてだろう、少し痛い程なのに胸がじんわりと暖かくなり、とても心地よく感じてしまう。

 でも、長く続けてはいけない。これは彼の優しさであり、自分の甘えである。友人とはいえ頼りすぎるのはよくないとわかっているのに、指を振り解けない自分がいる。

 あと少しだけ、あと少しだけだ。

 明藍は自分に言い聞かせる。すでに胸の騒めきは消えていた。

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