二十
これが終わったらお祓いに行こう。
明藍は樽のように転がされた状態で、固く決心した。
占い云々は信じていないが、やはり気持ちが晴れるという点ではそれだけの価値がある。
それにしても、ここは一体どこだ。
窓もなく灯りもないので目が慣れるまでに時間はかかったが、棚にきちんと置かれているのがわかる。物置小屋のようにも思えるが、やたら墨と黴の匂いがするので書庫と考えても良さげだ。
書庫ならば古さから考えて珍しい書物など置いてあるかもしれない。探索したい好奇心が不安感を大きく上回るが、手足共々縄で縛られているため身動きが取れないのが悔やまれる。
また、ご丁寧に魔封具まで準備して。
気がついた時にはすでに首には魔封具が嵌められていた。つまり、妓女の思鈴ではなく術師の明藍を狙っての犯行である。
「もっと警戒するべきだったみたいですね」
昨晩、仕事上がりに茶引きだった桂花に誘われて茶を飲んでいたら途中から視界が歪んだところで記憶がなくなっている。そして目が覚めたらこの冷たい床の上だった。どうやら毒か薬を盛られたらしい。
よく考えずとも、占術師の話を振ってきた時点でもっと警戒するべきだった。明藍の反応や顔色を伺っていたに違いない。
寝ている間に殺されなかったは幸運だった。意識もなく、魔封具をつけられた状態ではさすがの明藍も太刀打ちできない。しかし我儘を言っていいのであれば、真冬に差し掛かったこの時期にこんなにひんやりとした床の上に直に転がすのはやめてほしい。術師は風邪をひかないと思っている連中もいるが、しっかり風邪もひくし、病にもなる。むしろ治癒術は外傷に有効的であって病にはほとんど効果を発揮しない。
「へっくしゅ」
ぶるりと体が震える。
妓楼では冬だろうが胸元が大きく開いた服を着る。室内では火鉢で暖が取れるし、外で月見なら外套を羽織るので問題なしという考えだ。
昨日は給仕のみだったため比較的胸元が開いていない服ではあるが、それでもやはり水商売。この時期にしてはかなりの薄着である。
もう一度小さくくしゃみをする。
このまま魔封具が壊れるまで待とうと思っていたが、あまり悠長に構えていると本当に風邪をひいてしまう。冬の風邪はよく拗らせて肺風になる。
肺風はきつい。咳が止まらなくなり、最後は呼吸すらままならないのだ。しかも致死率がかなり高い病だ。
死因なんてわからないが、できることならば天寿を全うしたいと思うのは当然だ。
そのためにはここを抜け出し、暖かい汁と鶏のたっぷり入った粥を食べ、湯に浸かり、寝台でしっかりと休息を取らなければならない。
「・・・ッ」
自身の唇に思いっきり歯を立てた。
鈍い痛みと共にじんわりと血の味が口の中に広がる。
口の中に入らないように下を向けて垂らしてみるが、想像より遥かに出血量が少ない。
─仕方ない。
「いっ・・・」
爪を思いっきり掌に食い込ませるが、あまりの痛さに声が漏れる。
無意識でする時は痛みを感じないのに、出血を意識してやるのではこんなに違うものなのか。
涙が出そうになるが、それでもまだほとんど血は流れ出ていない。
ほんの少しの血が出ればいいだけなのに、これだけ痛い思いをしても規定量にすらならないとは─この術は欠陥、改善の余地しかない。この際血の涙でもいいから出てくれないだろうか。
もちろん涙が血になるわけもなく、明藍はさらに自身の掌に爪を立てる。
「くっ・・・あっ、はぁ・・・いっ」
もう少し、もう少し。
「〜〜〜ッ!!」
声にならない叫びと共に血が掌を伝う。
痛みに悶え、しばらく床に頭を擦り付けていた明藍が顔を上げた。ぎらりと暗闇の中で琥珀の瞳が鋭く光る。
「・・・絶対に赦さない」
こんな目に合わせた奴には何十倍もの苦しみを味わうべきだ。
明藍の頬を伝った涙に構うことなく、親指を小さな血溜まりにつけると後ろ向きのまま術式を描き始めた。
術式は円が基本だと高明には教えたが、実は円を使わない術式もある。といっても、明藍自身片手で数えるほどしか知らない。しかも、そういう術式は決まって術者本人の魔力を使わない非常に特別な術だ。
滑らせていた指を止め、とんとんと合図を送る。次の瞬間、
『キィャァァァァァァ!!』
耳をつんざくような叫び声と共に鳥が姿を表す。鳥は大きく羽ばたくと壁を打ち破り、外へと飛び出した。明るさからそうだとは思っていたが、やはり夜だったらしい。
新月一歩手前のわずかな月明かりに照らされた巨鳥は漆黒─ではなく、限りなく黒に近い赤い色をしていた。そのまま鳥は明藍の方を振り向くことなく、一目散にどこかへ飛んでいった。
文字通り血と涙の結晶のはずなのに、全く気にかけてすらもらえないのは少し寂しい。
「・・・くしゅんっ」
そしてなによりでっかい穴だけ開けて放置されるのは、さっきよりも状況が悪化していると言わざるを得ない。
何か暖を取るものを探そう。
わずかな月明かりだが、それでも真っ暗闇に比べれば室内の様子もだいぶわかる。
辺りを見渡す。予想通りの多くの書物、それに壺や巻き物などの骨董品、大きめの行李がいくつもあった。
全く明るさがなかったのは、物が痛まないように陽が入らないように窓がひとつもないからだろう。どうしても物は陽に当たると劣化しやすくなる。そのせいかやはり黴臭さはあるものの、定期的に風を入れているように感じる。想像していたものよりずっと立派な建物だ。
明藍は手近にあっな行李に近寄る。大きさから服が入っていればと思い、一縷の望みをかけ縛られたままの手で器用に開けると一番上の服を掴んだ。さわさわと感触を確かめる。
「・・・着れないこともないけど」
着ても意味がない。
掌に伝わってくる繊維の感触は、明藍も今年の夏に非常にお世話になった麻だ。とても軽く、なにより風通しがいい。
残念ながら、風から身を守りたいのに風通しがいいものを羽織っても意味はない。
当たり前だが、ここは中の様子から考えて要らないものをしまっておく場所だ。今必要になる冬物が置いてあるはずもない。
頭の片隅ではわかっていたのだが、それでも諦めてはいけないとなんとか奮い立たせていたのに─。
「このまま死ぬんでしょうか」
「殺しはしないさ」
がっくりと項垂れていた顔をあげると、大きな風穴ではなく、正規の出入り口に男が行燈片手に立っていた。
「・・・伯義良」
「覚えててくれたのか。あんなにきっぱり振られたのは初めてだから、顔すら知られてないかと思ってたよ」
慣れた様子で建物の中に入ってくる。
「あなたが一連の事件の犯人ですか?」
「事件、何のことだ?俺はただ君の身柄を預かっただけだ」
近づいてくる義良から遠ざかるように動いていたが、とんっと背中が壁に当たった。そこで初めて自分が逃げていたことに気付く。
「そんなに怖がらなくても痛いことはしないさ。少し味見くらいはさせてもらおうと思っているがね」
浮かべた笑みに、明藍はぞっとした。
いや、正しくはその瞳の奥に、だ。
直感でわかった。駄目だ、この人はもう助からない。
「・・・なんだ、諦めたのか?嫌がる姿も嫌いじゃないんだがね」
黙り込んだ明藍の肩に義良が手をかけた。その時、
「お前、もう少しあの使いは何とかならんかったのか」
「老師・・・高明さま?」
「・・・ああ、遅くなっ」
呆れ顔で腕を組む霍老師の横で膝をつき蹲まり口元を押さえていた高明が目を見張る。
「なんだ、君たち。言っておくがここは僕の」
「離せ」
地を這うような声に、義良の肩が大きく揺れた。
そして、瞬く間に義良の手首に刃が突きつけられる。
「離せと言ったのが聞こえなかったのか」
美人が怒ると怖いとはよく言うが、これは怖いなんてものじゃない。夜叉だ。夜叉がここにいる。
射るような眼差しを向けられた本人ではない明藍ですら息を呑むほどの迫力に、張本人の義良に至っては顔を青くしてこくこくと小さく頷くのが精一杯といった様子だ。
しかし、いつまでも肩から手を離さない義良に高明がさらに顔を険しくする。
「・・・高明さま、そのままではこの男も手が離せません」
今の状況では、動かしたら切れてしまう位置に刀があると言う物理的な面と蛇に睨まれた蛙よろしく精神的な面の両方で無理だ。
明藍の助け舟に、義良がほっと息を吐いたが、それが気に入らなかったのか高明が胸ぐらを掴むとそのまま投げ捨てた。
義良の体は書物が並んだ棚にぶつかり、棚が倒れる。
「うわぁ、勿体ない」
「この状況ですお前は何を言ってる」
思わず出た言葉に、高明が眉間に大きな溝をつくる。それでも先ほどまで義良に向けていた表情からすれば天と地の差だ。
「ありがとうございます高明さま、助かりました」
手早く縄を切ってくれたおかげで、久しぶりに自由に動く手足を満喫していると、高明が明藍の腕を掴む。
「これはどうした」
「これ?」
一体なんだと見遣ると、高明の視線は掌に釘付けだ。
急にいろんな人物の登場ですっかり忘れていたが、明藍の手は中々におぞましい状態になっている。ちなみに唇を噛んだ時に、口の中も少し切ったようで若干血の味がする。
「術を使ったんです。万が一の時のための術なので、発動するのに手間取りましいっ!」
高明に無言で掌を撫でられ、思わず声が漏れる。
自身で肉を抉り血溜まりができるほどの傷なのだ。傷ができた直後の激しく波打つような独特の痛みはなくなり、代わりに鈍い痛みが広がる。
痛いのだから触ってくれるならと抗議の意味も兼ねて睨みあげるが、高明が今度は唇に指を這わせる。傷が痛いはずなのに、こちらはじんわりと暖かくなるような感覚に陥る。
「・・・すまない」
「どうして高明さまが謝られるのですか。これは自分自身で付けた傷です。誰からの謝罪を受ける義理もありません」
いや、正しくはこんな場所にこんな格好で放置されなければ自傷行為に走る必要もなかったのだが、それをここで馬鹿正直に口走ってしまったら義良の命が危ぶまれる。
なにせ元とはいえ長年に渡って首席術師として勤めていた霍老師と武官と頂点と言っても過言ではない枢密院長官の二人がこの場にいるのだ。明藍の発言一つで人ひとりなど余裕で消炭と化す。
「やはり、無理矢理にでも花街に来させないべきだった」
「それは・・・」
言いかけて、明藍はすぐに口を噤む。
短い付き合いだが、高明は内外がはっきりしている。外側の人間には関心すら寄せないが、一旦内側に入ってしまえばこうして自分のことのように労ってくれる。
いつの時かと同じように胸がじんわりと熱くなる。
きっと彼のような人間を友人と呼ぶのだろう。
今までその範疇に該当する人間がいなかった明藍にとっては、非常に嬉しいことだ。
でも、それとこれとは話が別だ。高明が明藍のことを痛いほど心配してくれていたのと同じように明藍だって弟子が心配なのだから。
「そういえば、白水は無事でしょうか」
明藍が術師とわかっていれば、白水の身元もバレている可能性は高い。
「・・・白水は」
気まずそうに高明が視線を逸らす。
視線の先には、いつの間にか義良を捕縛し、どこから持ち出したのか椅子に座って茶を飲む霍老師の姿が。
「なんだ、逢引はもう終わったのか」
やけに静かにしていたと思ったら、またそうやって意味のわからないことを言い出す。せっかくの友人を失ったらどうするのだ。
明藍は顔をしかめそうになるのをぐっと堪えた、
「・・・老師、高明さまに失礼なことを言わないでください。それで白水はどうなってますか?」
「おう、あやつなら同じ孫弟子の天翔が回収に行ったぞ。報告ではだいぶ毒が回っていたようだが、薬でなんとかなるだろう」
なんと投げやりな回答であるが、生きているのならば一安心だ。高明もわかりにくいがほっと胸を撫で下ろす。ぱちりと視線が合うと、なんだか気まずそうに逸らされた。
もしかして、白水の存在を忘れていたのか。
まさか高明に限ってそんなことはないと思うが─ここで深追いするのはやめておこう。そんなことよりも、今は霍老師の言葉が気になる。
「・・・毒ですか」
「ああ、大方蠱毒だろうな。死体を見てないから断言はできんが、術式は偽物で死因は呪術だと推測している」
「さすが、長年首席術師を名乗るだけあって勘はいいわけだ」
三人が一切に振り返る。




