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十七

 それからしばらくは穏やかな日々だった。

 穏やかといっても酒楼の客は多く、常に動き回っていたおかげか給仕もだいぶ板についてきた。


 「思鈴(スーリン)、あそこの卓行っとくれ」


 そう言って酒と杯が載った盆を渡される。

 指定された卓には男二人と酒のつまみが並んでいた。酒のつまみは味が濃いわりに腹にたまらない。つまり、相席してご馳走になるのは無理だろう。

 

 「うっわっ!」


 急にくんっと袖を引かれ、危うく盆ごとひっくり返しそうになった。慌てて振り返ると、媛媛(ユェンユェン)が立っていた。

 今回ばかりはきつく説教せねばと思ったが、顔を見て明藍は開きかけた口は閉ざした。


 「・・・急に引っ張ると危ないですよ」


 媛媛はその大きな瞳を歪めていた。

 

 「どうしたんですか?」


 目線を合わせるように屈むと、媛媛は心配そうなそれであって苦しそうな表情をする。

 本当はゆっくりと話を聞いてが、あまり客を待たせるわけにはいかない。


 「体調が悪いなら休んでいいですし、他に困ったことがあれば白蓮(ハクレン)が休憩しているので頼ってください」


 媛媛と白水(ハクスイ)はいつの間にか打ち解けていて、今では一番の仲良しだったりする。

 しかし、そうではないと媛媛は首を横に振り、小声でつぶやく。


 「あの男に色目を使っちゃ駄目。小姐が殺されちゃう」

 「・・・わかりました。嫌われてくればいいんですね、任せてください」


 小指を立てると媛媛が急いで絡ませきた。離れる瞬間の名残惜しぜな姿に後ろ髪を引かれるが、もうこれ以上待たせるわけにはいかなかった。明藍は急いで卓に酒を運ぶ。


 「お待たせしました」

 「おお・・・またこれは美しい子が入ったね」

 「ありがとうございます」

 「どうだい。君も一緒に」


 ささっと酌してささっと帰ろうと思っていたが、客からの相席を断れるほど今の立場は高くない。にこりと笑って適当に相槌を打って場をやり過ごす。

 それにしても、殺されちゃうなんて十にも満たない子が言う台詞ではない。二人のどちらかにこの店で懇意にしている妓女がいるのだろうか。


 「こんな辛いものばかりでは女人はつまらないだろう。ほら、これをあげよう」


 受け取った包紙を開くと、中にはつい先日口にした丸みを帯びた菓子─梅雪(メイシュエ)が茶菓子にと出してくれた西方の菓子と同じだった。

 梅雪はなんと言っていた。胎の赤子(やや)の父親は貿易商。まだ市場にも流通させていない菓子で、特別に分けてくれたと言っていたではないか。

 ぞわりと胸の奥に嫌な靄が広がる。

 そうだ相手の名前。名前は─。

 固まった明藍を見て、恰幅の良い男が楽しそうに笑う。


 「大丈夫、ちゃんと食べれるものだよ。これは西方の菓子で雪玉という名らしい」

 「・・・これは誰が」

 「ああ、これはこいつだよ。伯義良(ハクギリョウ)。ここいらでは有名な貿易商会の倅さ」


 自身の顔が強張るのがわかった。

 (ハク)の旦那と梅雪は呼んでいた。本当かどうかわからないけどと笑いながら有名な貿易商会の嫡男だと話してくれた。

 

 「ほら、せっかく気になるというから連れていたんだ。何か話せ」

 

 恰幅のいい男にせっつかれ、それまで黙り込んでいた義良がやっと口を開いた。

 

 「噂通りの器量の良さだ。男をまだ知らないと聞いているが」


 手が伸びてきて、明藍の手に重ねられる。

 百戦錬磨の梅雪が落ちるほどの色男。

 その肩書きがぴったりの惚れ惚れするような整った(かんばせ)に浮かべられる甘ったるい笑みに、明藍は悪寒が走った。

 懇意にしている梅雪という存在がいながら他の女にうつつを抜かす。

 花街では別に当たり前のことなのかもしれない。でも、明藍にはその行為が許せなかった。

 今すぐにでも重ねられた手を叩き落としてやりたいが、ぐっと我慢する。明藍は小さく深呼吸すると、仮面のごとく笑みを張り付けた。


 「・・・大変申し訳ありません。すでに先約がおります故ご容赦くださいませ」

 

 そう言ってやんわりと手を振り解くと、そのまま席を後にした。去り際に見た間抜け面は、ほんの少しだけ溜飲を下げた。




 「本当に申し訳ありません」


 四階の一番奥の部屋。つまり、この妓楼で現在提供できる一番いい部屋だ。

 毛足の長い絨毯が床一面に敷き詰めれているお陰で、こうして頭を擦り付けても全く痛くも冷たくもない。


 「過ぎたことはもういい。頭を上げろ」

 「・・・はい」


 明藍が大人しく頭を上げると、そこには長椅子に座ったまま額を押さえている高明(コウメイ)がいた。

 この場面、以前どこかで見た気がすると思ったが、その時とは決定的に場所も互いの服装も違っていた。

 今日の高明はといえば先日と同じくどこかの若旦那風の服は仕立てがよく、よく似合っている。やはり上背があるとなんでも様になると思ったが、上背云々の前に顔がまず非常によろしいのでなんでも様になるのだろう。現にここに来る間に何人の妓女から羨望と嫉妬の眼差しを受けたことか。


 「なんだ、何かついているのか」

 「あっ・・・いえ、すみません」


 普段と違う印象を受けるせいか、食い入るように見てしまった。

 怪訝そうに眉を寄せる高明に、明藍はしまったと視線を逸らす。

 忘れかけていたが、こんな格好をしていても自分はあくまで自分だ。いくら化粧で隠しているとはいえ、元を知っている高明からすれば薄気味悪い女にじっと見つめられてあまり気持ちの良いものではないだろう。

 しかし、顔を逸らすと今度はもっと眉間のしわが深くなる。明藍は高明の心境がよくわからず小首を傾げた。


 「まあ、いい。つまり、要約すると俺がお前を水揚げすることになったのか」

 「はい、その通りです」


 大見え切った手前、実は相手はいませんでしたなんて言えるわけもなく、明藍は高明を頼るしかなかった。いや、実は先に弟子たちに文を送ったのだが、そんな大役受け入れられないと尽く拒否されたのである。実際に閨事をするわけではないのに、あまりに必死な文面に結構傷ついた。

 ただ、遣手婆は相手が高明だとわかるととても喜んでいた。この間の一件、白水と二人合わせていくら払ったのだろう。そして一体いくらふっかけるつもりなのだろう。

 

 「それでなんですが、たぶん相当ふっかけられると思うんです。その分が経費で落ちなければわたしが個人的に出すので、補填しておいてもらってもいいでしょうか?」


 妓女の水揚げは身請けまでとは行かずとも相当な金が飛んでいく。

 自分で自分の水揚げ代を支払うという摩訶不思議な状況だが致し方ない。

 今回の指揮権は枢密院だが、いくら潤沢な資金を持っているとはいえ、組織である以上使える金額というものは決まっている。

 魔獣を討伐した際、一個で宮が建つとも言われている魔封具を壊してしまったが、あの時の術部財務担当者の親の仇でも見るような顔が今でも忘れられない。そのせいで術部はかなりの財政難に陥っているとかいないとか。明藍はすぐに枢密院付になったので、そこのところはよく知らないし、知ったところで胃が痛くなりそうなのであえて聞こうとは思わない。

 そんな元凶を作った身ではあるが、ありがたいことに俸給はたんまりと頂いており、暇がないので結構貯め込んでいる。金は貯め込み過ぎてもよくない。淀みが発生するので、ある程度は使わなければならない。そして、今ここが使いどころである。


 「いや、それくらい俺が払う」

 

 さらりと言ってのける高明だが、その言葉に違和感を感じた。俺、だと。


 「高明さま。まさかだとは思いますが、今日の支払いって自腹・・・じゃないですよね」

 「何を言ってる。当たり前だ、こんな請求あげるわけにはいかんだろ」

 「ははっ、ですよね・・・・・・つまり自腹ってことです?」

 「ああ、もちろんだ」


 平然と言ってのける高明に明藍は目眩を覚えた。

 いくら捜査のためとはいえ、何もいいことなんてないのに自腹を切ってくる場所ではない。定期報告など文で事足りる。

 

 「高明さま、今すぐ帰ってください。そしてもう二度と来てはなりません!」

 「どうしたんだ、急に」


 すでに料金は支払済だろうし、長居しようがしまいが関係ないのだが、ここは気持ちの問題である。

 さっさと追い返そうとする明藍だが、いくら立たせようとしても全く動かない。鍛え方が違うという話ではなく、素材が別物なのではないかと錯覚するほどだ。

 必死な明藍に対して涼しい顔の高明。

 無駄だと諦めるまでに明藍の額には汗が滲んでいた。いつもは恋しい火鉢が憎い。やや緩んでいる高明の口元も憎らしい。

 ここを出たら少しくらい体を鍛えよう。

 覚悟を胸に腰を下ろした明藍は少し冷めた茶を一口含んだ。高明も同じように茶を含む。


 「ところで、お前から言われていた件、調べだぞ」


 高明が懐から二枚紙を取り出す。

 一枚は伯義良の身の上について。そしてもう一枚は雨桐(ウートン)、媛媛の前の姐妓女である。


 「妓女については病死扱いになっている」

 「そうでしょうね」


 妓楼は妓女が死んだ際、死因が妓楼にとって都合の悪い場合隠蔽する。少しくらいおかしいことがあったとしてもわざわざ妓女一人のために騒ぎ立てる輩などいない。

 円樹(エンジュ)はその腕の良さから高級妓楼がほとんどなので実際に妓楼側から頼まれたことはないが、そういうことはごく一般的だと教えられた。金を握らせればいくらでも隠蔽する医師はいる。


 「本当に毒殺なのか?」


 高明の問いに、明藍は押し黙る。

 義良が店に来た翌日、明藍は媛媛に話を聞いた。

 義良は元は看板妓女の一人、冰花(ヒョウカ)の客だったという。しかも身請けの話まで出ていたらしい。しかし、ある日突然義良は雨桐に乗り換えた。

 同じ妓楼で妓女の乗り換えはご法度のはずだが、その分の補填金を支払えば目を瞑る妓楼もある。杏花楼はそれを飲んだのだろう。そして、雨桐は死んだ。飯に盛られた毒を飲み、三日三晩苦しんで死んでいった。

 元々反りが合わなかったらしいが、冰花と桂花の仲違いが

酷くなったのはちょうどその頃だ。


 「実際に話を聞いたのは当時の禿からだけなのでなんとも言えませんが、あの子がそんな嘘をつくとは思えません」


 短い付き合いでも為人はわかってくる。特に一緒に生活していれば尚更だ。

 明藍はもう一枚の紙に目を通す。


 「・・・これだけ素行が悪くて花街に出入りできているのが不思議ですね」


 伯義良はとにかく気に入った妓女を見つけると、金にものを言わせて自分のものに、ある程度遊んだら捨てるということを花街で繰り返しているらしい。

 おかげで高級妓楼辺りは出入り禁止になっているが、ここ辺りの格式が然程高くない妓楼はまだ受け入れているようだ。生きていくためと言えばそれまでだが、それにしても酷い。

 一瞬、しばらく会えていない梅雪(メイシュ)の顔がちらついた。高級妓楼への立ち入れないのであれば、梅雪は伝えられていないのではないか。身請けもされずに子を産んだ妓女の末路を明藍はよく知らない。

 ただ、今までのような立場ではいられないことは安易に想像できる。

 たぶん梅雪のことだ。義良の素行の悪さなどわかっているだろう。それでも、きっと心を許したのだ。それはどれだけ理論をこねくり回してもわからない、もっと感情的な部分の話だ。


 「ややこしい」


 愛だの恋だのそういった感情は明藍はよくわからない。むしろ肉欲の方がまだ理解できる。

 そんなことを考えている余裕もなければ、機会もなかったのだから仕方がなかった。

 

 「何がややこしいのだ」


 独り言のつもりがしっかり拾われてしまっていた。

 いつの間にか俯いていてしまっていた。顔を上げると高明は怪訝というよりも、やや心配そうな面持ちでこちらの様子を伺っている。

 なんだかんだで高明は優しい。

 潜入の件で揉めたが、冷静なれば明藍のためだったのだとすぐに気付く。一つの駒としてではなく、一人の知人としての明藍を優先させたのだ。以前の自分なら公私混同も甚だしいと批判しているだろうが、何故だか今はそれが嬉しかった。

 途端、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に陥る。さりげなく胸に手を当ててみるが、特に異常はなさそうだ。

 

 「いえ、なんでもないです」

 「そうか・・・また何かあれば文を飛ばせ。あと、あまり一人で深入りしすぎるなよ」


 頭に置かれた手は大きく暖かかった。

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