三、訪問者
水の入った桶と手ぬぐいを持って戸を開ける。部屋の中には数組の布団が敷かれ、衝立で仕切られていた。そのうちのひとつを覗き込む。
「陳さん、ご気分はいかがですか?」
昨日急患で運び込まれてきた陳文成に声をかけると、もぞりと大きな背中が動いた。
「ああ、まだ少し痛みがあります」
「・・・少しですか」
腹をざっくりと斬られていたから、少しではなくとてもではないかと思うが、本人に至っては支えなく平然と体を起こしている。やせ我慢は時に病状の悪化を見抜けなくなるので困るが、そうでなければただ単に痛みに強い体質なのだろう。傷の消毒とさらしを交換するために上着を脱いでもらったが、特に脂汗が滲んでいる様子もない。
「少し押しますね。痛かったら教えてください」
円樹に言われた通り、傷の周辺に臓器を軽く押していく。臓器の損傷は後からわかる場合も多く、慎重に経過を見なければならない。特に今回の場合、傷というよりも─。
ふと、文成が口を開く。
「その、藍藍殿はここの先生の弟子なのですか?」
「いいえ、ただの助手です」
「助手で診察までされるのですね」
「私のは診察ではなく、あくまで経過を観察しているだけです。また後ほど先生がいらっしゃいますから、その時にまた詳しく診せていただきます。ご心配されずとも大丈夫でさよ」
にこりと笑みを作ると、文成は慌てて手を顔の前で左右に振る。
「いやっ、そ、その、気を悪くされたのであればすみません!あまりにも手際がいいので、てっきりお弟子さんかと思いまして・・・」
ああ、なるほど。
嫌な癖が出てしまっていたらしい。
「・・・実家が代々医師を生業としております故、知識が多いだけでございます」
「それではここには勉強に?」
「まあ、そんなところです。特に異常もないようなので、あとはこの薬湯を飲んで安静にしておいてください」
まだ文成は何が話たげな様子だったが、明藍は気付かぬふりをしてさっさと病床を後にした。これ以上掘り下げられると素性がばれてしまう可能性が高い。そうなれば自分だけではなく、円樹や玉麗まで罪に問われるかもしれない。それに─。
明藍はきつく握り締めていた右手の中で蠢くものに神経を集中した。
『ギャァっ!』
ブチっと嫌な音がし、小さな悲鳴が漏れる。
明藍の手中で果てたのは、魔族の欠片のようなものだった。放っておけば人の体を蝕み、弱体化し、死に至らしめる。
文成は外壁を守る武官だ。昨日はさらに数十人規模の怪我人が出ており、国の機関だけでは賄いきれないということでこの下町の診療所に運び込まれた。一般的に医師は診療所で患者を診るのではなく往診するものだが、家では面倒を見切れない重病患者や家を持ち合わせていない者などを受け入れる病床を併設しているため、白羽の矢が立った。
本来であれば下町の診療所に武官が運び込まれることなどあってはならない。それほどまでに外壁の防衛は行き詰まっているということだった。
少しならば大丈夫だろう。
明藍が懐に手を入れた瞬間、
「陳文成はここにいるか?」
「ッ!!!」
驚きのあまり声にならない叫び声をあげた明藍が振り向くと、そこには文成とまではいかずとも体格の良い男が佇んでいた。
危ない、もう少しで心の臓が止まるところだった。
明藍は掴みかけたものをさっと戻すと、小さく息を吐いて笑顔を張り付けた。
「はい、こちらで診ております」
「・・・そうか。容態は?」
「安定しております。脇腹に受けている傷ですが、縫合は済んでおります。化膿については数日様子を見なければなんとも申し上げられませんが、現時点では腐敗する可能性は低いかと思われます」
「本人に会えるか?」
「ご案内します」
先程出たばかりの病床に戻ると、文成が大きな身体を窮屈そうに丸めて眠っていた。小さく声をかけるも、反応はない。すでに深い眠りに落ちてしまったようだ。
枕元に置いてあった空の茶碗を回収し、外に出る。
「申し訳ありません。つい先程まで起きていらっしゃったのですが、今は眠られています」
「そうか、それでは起こして」
戸を開けて中に入ろうとした男の腕を掴み、慌てて戸を閉めた。
「なんだ?」
男が訝しげに眉を寄せる。普通の女子ならば震え上がるほどの凄みがあるが、ここで負けてしまうほど明藍は優しい人生を歩んできてはいない。
「病人に睡眠は重要です。昨晩は発熱もしていたので満足に眠れていないと思います。起きるまで待っては頂けないでしょうか?」
「起こしたら悪化するのか?」
「悪化はしませんが、回復が遅れるやもしれません」
男は手を顎に寄せ、少し考える素振りをした後、「真」と声をあげた。すると何処からともなく、同じように武官服に身を包んだ男が現れる。
「俺はここに残る。お前は戻って指示を出せ」
「そっ・・・かしこまりました」
「頼んだぞ」
真と呼ばれた男は消え、男と明藍二人だけになる。どちらも話すことはせず、気まずい空気が漂うが、何はともあれ文成の睡眠は守れたらしい。それだけでもこの空気を耐えるだけの価値はあった。
が、やはり気まずいものは気まずい。
「それでは、わたしは戻りますので・・・」
「待て」
前を横切って戻ろうとするも、腕を掴まれる。
「俺はどこで待っていればいい?」
「どこで・・・ですか?」
想定外の問いに困惑する。たしかに『ここに残る』と言っていたが、ここら辺りの茶屋などで暇をつぶして待つということではなく、診療所内で待つということだったのだろうか。
もし後者の意味であれば、一緒にお引き取り願えばよかったと後悔しても後の祭りである。
しかも診療所内で待てる場所など─あるにはあった。しかも円樹と玉麗は往診に出かけているため、体格の良い男でも余裕を持って過ごすことができる。
「お客様がいらっしゃるような場所ではないのでたいしたもてなしはできませんがよろしいですか?」
「ああ」
よし、言質はとった。
後から何やかんやと文句を言われても困るので、こういうことは先に申告すべきだと玉麗から見て学んだ。例えば今日の飯の味付けは失敗したとか、薬湯は煮過ぎたとか。変に期待しない分、落胆もしない。賢く、それで苦しくない生き方だと思った。
わたしももっと素直になっていたら、とそこまで考え小さく頭を振った。
過ぎたことをああだこうだと考えても結果は変わらない。大切なのは、これからのことである。
「あの、先に言っときますが、わたし茶を入れるのはうまくないので期待はしないでください」
きょとんとした男を尻目に、明藍は厨で茶を入れるため竈門に火を入れた。