十六
「一時はどうなることかと思いましたよ」
交代で休憩をとっていると、見事に美女に化けた白水がげんなりとした様子で入ってきた。
抱えた盆の上には、明藍が食べている賄いと同じものが乗ってる。今日は乾燒蝦仁に粥と湯に水菓子が付いている。飯が美味しいという情報に間違いはなく、そこら辺の酒楼には負けていない。実際飯だけを食べに来る客もちらほらいるほどだ。
ただ、量が少ない。いや、普通の女人の量からすれば多い方なのだが、それでも全然足りない。それは食べ盛りである白水も同じようで、二人して客に相席させてもらってご飯を食べさせてもらっている始末だ。
ちなみに両人とも部屋で客はとっていない。遣り手婆は明藍たちを次の看板妓女にしようと企んでいるようだ。今はとにかく大多数に顔見せをして、太客を掴ませる魂胆らしい。
おかげで夜はまあまあ休めるが、昼間はとにかく出突っ張りでくたくただった。
「あ、そうだ。薬丸が作れた分では足りないと思うので、追加で誰かに作ってもらった方がいいですよ」
手間はかかるが作り方は弟子ならば全員知っている。他の術師も知っているし、何より霍老師がいれば作れない代物ではない。
「さっき天翔が来てたので、こっそり伝えておきました」
「それは良かったです。それで、何か進展はありましたか?」
明藍の問いに白水が作り込まれた見る目麗しい顔を大きく歪める。
「進展も何も、大混乱でしたよ。師匠が急に長期休暇を取ったと思えば前主席術師だと名乗る童がやってくるし、お二人に何があったのか知りませんが李長官はずっと不機嫌で顔怖いですし、顔怖いですし!」
最後の一言は余計だろうと思ったが、その状況を作り出したのは自分自身なので黙っておこう。
「だいたいあの日、何があったんですか?」
「何がって・・・」
高明の執務室に乗り込んでした話をそのまま伝えると、白水が額に手を当て天を見上げた。
「・・・いや、分かりますよ。師匠が僕のことを思って言ってくれたのは。ただ・・・」
「ただ?」
話の続きを促すが、白水は口を開いたかと思えばへの字にしたり、普段の白水からは想像できないほど表情筋が仕事をしている。これはこれで面白い。
そして目を瞑り唸っていた白水は、何かを決心したかのように頷く。
「師匠、たしかにあなたの言ってることは間違ってないです。むしろ公私混同するなって言ってやりたいのは山々なんです。でも、そろそろ気づいてあげないと流石に長官が可哀想ですよ」
「・・・可哀想?」
「はい。流石にもう僕たちですら気付いてますよ」
白水の言葉を理解しようと何度も咀嚼してみるが、結局よくわからない。
今の話の中に可哀想なところなどあっただろうか。むしろ取り合ってもらえなかった自分の方が可哀想だと思うのだが。
本気で小首を傾げている明藍の様子に白水があからさまにため息をつく。
「だからですね。いいですか、一回しか言いませんよ。その、李長官は師匠のことを」
がらっと勢い戸が開く。
「思鈴、白蓮いるかい?」
顔を覗かせたのは遣り手婆だ。
白蓮というのは、白水のことである。
「はい、なんですか」
「なんだい、まだ食ってんのか。さっさと掻き込んで準備に行っといで─客だよ」
明藍と白水は顔を見合わせた。
客は店内にごまんといる。態々呼びにきたということは、個人についた客ということだ。あれだけしばらくは顔見せだけと豪語しておきながら、たった数日で売りに出されたではないか。
今後長い目で見た時よりも目先の利益に折れたということだ。誰だ、そんな遣り手婆の目を眩ませるほどの大金を積んだ奴は。
とにかく客がついてしまった以上、準備をしなければならない。遣り手婆がいた場所には、すでに嬉しそうな顔をした媛媛ともう一人の禿が今か今かと待っている。
明藍は残っていた粥を流し込むと、重たい腰をあげて上の階に上がった。
予想できていなかったわけではないが、いやまさかその張本人がこんなに早く乗り込んでくるとは。
卓を挟んで向かいに座る美丈夫は眉間に深い溝を刻んだままだ。
一方明藍はといえば、つんと澄ました顔で禿が運んできた茶を啜る。普段は着ないような胸元が大きく開いた衣装か動きづらいが、妓楼ではこういった格好が普通らしい。隣に座る白水も同じく胸元が開いた衣装を着ている。本当は何にもないところに何かあるように見えるのは、明藍渾身の詰め物と術による共同作品だ。
その白水はというと、今にも卒倒しそうな青白い顔をしている。
たしかに美人が怒ると迫力はあるが、取って食われるわけではないのだから安心して茶くらい飲めばいいのに。
「・・・・」
「・・・・」
すでに人払いは済んでいるのでいつ切り出してもらっても構わないのだが、一文字に結ばれた口は全く開く気配がない。
あまりにも長い沈黙に、白水を肘で小突く。
ものすごく苦い顔をされたが、ここは師弟権限を行使させてもらう。しばらくこちらの様子を伺っていたが、諦めたようで白水が躊躇いがちに口を開く。
「・・・・あの、李長官。まずご報告が遅れましたことをお詫びいたします。その」
「お前はいつからここにいる」
射抜くような視線に、気を抜いたら喉元を掻き切られそうな気分になる。
明藍は思わず視線を逸らした。自然界ではその時点で敗北が決まる。
「・・・白水と同日です」
「つまり四日前か」
返事がわりに小さく頷く。
すでに明藍と白水が妓楼に潜入してから四日が経過していた。しかし、酒楼に出るのが今の主な仕事のせいか、ほとんど内情は把握できていない。媛媛や他の禿たちとどことなく話をして情報は集めてはいるものの、めぼしいものは掴めていない。
ただ、二人の看板妓女の仲の悪さだけ明白だった。
禿や他の妓女たちもそれは事実として認識していた方がいいと思ったらしく、すぐに教えてくれた。実際、看板妓女の前でもう一人の看板妓女を褒めた妓女が客を全部取られたなんて話も過去にはあったらしい。
彼女たちは酒楼には滅多に出ないし、湯浴みの時間や飯の時間も新人の明藍たちとは全く噛み合わない。一度だけ冰花が部屋から顔を覗かせて自身の禿を呼びつけているのを見たが、生き血が通っていないかののような白肌が印象的な美姫だった。それこそ荒々しく触れてしまえば、溶けて消えてしまいそうな儚さとそんなことをすれば触れた側も怪我するようなつんとした雰囲気。
名は体を表すというが、まさしくその通りである。
「現在の被害状況はどうなってます?」
「今のところ増えてはいない。ただ、やはり亡くなった者の中で見落とされていた者が数名居たようだ。ちらほらと数だけは増えている」
「・・・そうですか」
湯浴みした際に妓女たちの体に痣が出ていないかだけはしっかり確認しているが、今のところお目にかかれてない。
その旨を伝えると、高明が片眉を大きく動かした。
「まさかとは思うが、こいつも一緒に入っているのか?」
高明が白水を指差す。
「ええ、そうですが?」
月の障りでもないのに、一人だけ時間をずらすなんて無理だ。入れと言われた時機で入るしかない。
高明に指摘されて気付いたが、もっと位の高い妓女たちは明藍たちとは別の時間で入る。つまり、確認できていない者もいるかもしれない。
いや─あんなわかりやすい痣を遣り手婆が見逃すわけがない。湯浴みからあがる際、決まって遣り手婆が客から変な傷などをつけられていないか隈なく目視する。白水が男だとばれるのではないかと毎度はらはらしているくらいだ。
それに妓女が痣のあった男たちと同様に衰弱死すれば大なり小なり話題になるはずだが、妓楼でそんな話は聞いていない。やはり男だけを狙った犯行。客だけならまだしも出入業者も含めているところを見ると、無差別と考えた方がいいだろう。
ただ、その目的が全く掴めていないのが腹立たしい。目的さえわかれば手が打てるかもしれないのに。
「みっ、見てませんよ!ね!師匠からもなんとか言ってくださいっ!」
思考の海に沈んでいた明藍は、白水の悲鳴にも似た叫び声に現実世界へと引き戻される。
左腕にしがみつく白水は追い詰められた小鹿のように全身をぶるぶると震えさせている。
少し前まで感情の起伏がない弟子だと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。
対する真向かいに座る高明ときたら─うわぁ、怖い。
人を何人殺してきたのかと思われるほど険しい表情をしている。以前白水が例えていた虎なんて可愛らしく思えるほどの険しさだ。例えるならば、以前書物で見たことのある東方の恐ろしい面─般若だ。
「周白水、まずはその手を離せ」
地を這うような声に白水は慌てて明藍から離れる。
「すみません、一体なんの話ですか?」
話を聞いていなかったせいで、何故そこまで怒っているのかわからない明藍が小首を傾げる。
「だからっ!湯浴みですよ!僕、師匠の裸体なんて見てませんよね!ねっ!?」
「ああ、なんだそんなことですか」
「そんなことだと?」
高明が今度は隣の明藍をギロリと睨め付ける。
しまった。どうやら失言をしてしまったらしい。そして確かにその顔で睨まれると普段の数百倍は恐ろしかった。目線が合っているかいないかでここまで恐ろしさが変わるとは。
無意識のうちにひゅっと息を呑む。
余談だが、明藍に向ける顔とそれ以外に向ける顔は初めから緩やかさが異っており、今も一瞬のうちに険しさがやや軽減されている。
だが、そんなことは知らない明藍は白水によくぞあの顔と向き合っていたと心の中で拍手を送っていた。
「師匠からちゃんと説明してくださいよ!僕の言うことじゃ信じてくれないんですよっ」
「説明っていっても・・・」
ただ一緒に入っているだけではないか。それ以上の何を説明しろと言うのだ。
「白水の体には術をかけてあるので、男だとばれる心配は今のところ無さそうです」
「・・・それで?」
それで。
たった三文字なのに、威圧感がおかしい。あれ、ここは妓楼だったよな。主に男女が愉しむ場所で、取り調べを受ける場所ではなかったと認識しているのだが。
目で助けを求めると、白水が必死に自分の目を指差している。目なんて─
「あっ、目!」
なるほど、そういうことか。
「ご安心ください、高明さま。白水が湯浴みする際には他の妓女の裸体が見えないようにわたしが直々に術を施しています」
女装までして忍び込んでおいてなんだが、妓女という職とはいえ仕事外の、しかも私的空間で男に裸体を見られていたとなればいい気はしないだろう。
「・・・そうか、ならばいい」
「あら、もしかして高明さまも妓女の方々の心配をされていたのですか?」
「・・・まあ、そんなところだ」
なるほど。さっきの鬼神の如き怒りは、祇女のことを心配してだったのか。気遣い上手な高明のことだ。何故か罰が悪そうな顔をしているが、きっと気恥ずかしいのだろうと明藍は勝手に結論づける。
茶碗に手を伸ばすと、すでに茶が冷えてしまっていた。新しいもの持って来させようと席を立とうとするが、高明が席を立つ。
「もうおかえりですか?」
「ああ。現状はわかった。また来る」
「わかりました。またお待ちしてます」
そういえば、自分たち二人を買うのにいくらかかったのだろうか。
高明に外套を着せながらふと思ったが、どうせ経費だから気にすることもないだろう。
白水が終始なんとも言えない視線を送ってきているが、よくわからないので深堀せずに放っておく。本当に大事な用件ならば、そんな意味深な視線ではなくすぐに報告してくるはずだ。
「さて、それでは寝ますか」
見送った後、部屋に戻るなりいそいそと脱ぎ始めた明藍。
それを見て乙女のような悲鳴を上げる白水。
「・・・なんですか、その反応は」
「なんでもくそもないですよ!なっ、なんで普通に内衣になってるんですかっ!」
「なんでって・・・白水は寝ないのですか?」
寝着もあるが、いちいち着替えるのは面倒だ。かといって、重苦しい服を着て寝台に潜るのは好みではない。
明藍は頭に刺さった大量の簪を取ると、立ち尽くしている白水にお先と大人が何人も眠れるくらい広い寝台に潜り込んだ。
疲れていたのか布団の暖かさに、すぐに眠気がやってくる。そういえば、勝手に冷戦中のつもりだったが、最後は和解した雰囲気になっていた─まあ、いいか。過ぎたことをいつまでも蒸し返すのは自分がやられてもあまり気持ちの良いことではない。
意識が落ちる直前に布が擦れる音と「殺されないかなぁ」となんとも弱気な声が聞こえた気がしたので、やはり白水も寝台に入ったのだろう。普段はもっと遅くまで働かされているので、眠れる時に眠らなければこの仕事は万年寝不足になる。
それにしても殺されるなんて大袈裟だ。寝相は良くはないが誤って人を殺めてしまうほど悪くはない。たまに寝台から転がり落ちてしまうくらいだから、まだ可愛いものではないか。
そんなことを考えていた明藍は今度こそ完全に意識を手放した。




