十五
冬の空は高い。
雲がその他の季節より遠くにある気がする。特に晴れた日はそれを実感させられる。
「思鈴、本当にいいのか」
少し前を歩いていた永楽が本日何度目になるかわからない質問を繰り返す。
「ええ、もうあの家には未練なんてございませんので」
そして明藍もまた、何度目になるかわからないが同じ回答を繰り返す。
しかし、今回はいつもの「そうか」はなく、ただじっと明藍を見つめるばかり。
もしかして、今更やっぱりそんな顔じゃお客の前には出さないと思われたのだろうか。そうなれば計画が台無しになってしまう。
こんなことなら、白水の忠告通り、顔全体に術をかければよかったと悔やんだが、そんなことをしたら白水にかける術の負担になる。いくら明藍でも同時に何個もの術を展開するのはしんどい。
どうしたものかと考えていると、急に永楽が両手を取る。そして、
「思鈴、俺と逃げよう。お前とならどんな苦境だって乗り越えれる気がする」
─なにを言っているんだ、こいつは。
驚きのあまり声すら出ず、明藍はただ目を瞬かせるだけだ。それを肯定と捉えたのか、永楽は言葉を続ける。
「大丈夫だ。まだ婆にはお前のことはほとんど伝えてねえ。それよりも今日もうひとり後から新しい女が入るからなんとでも誤魔化せるんだ。そうだ、南の方に行くのはどうだ?あっちなら生活は少しくらい貧しくったって暖かいからいいだろう」
それは雨風を凌げる家がなくても暖かいから何とかなるとでも思っているのだろうか。
「・・・永楽さん」
明藍はそっと永楽の手を解くと、にっこりと笑みを張り付けた。
「今の話、全部聞かなかったことにしますから早く店に連れて行ってください」
「・・・すまん」
変なことを言われるのは慣れているが、地方で新規開店でもしようと思っていたのだろうか。
生憎、妓女として一旗あげるつもりは微塵もない。
肩を落とし、とぼとぼと歩き始めた永楽の後に続いて明藍も歩を進めた。
店につくとすぐにこの店の遣り手婆に顔見せをさせられた。挨拶もそこそこにすぐに部屋に連れて行かれ、まず着物を全部脱がされた。この時点で死ぬほど恥ずかしいのに、頭のてっぺんから爪先までくまなく、穴が開くほど見つめられる。
まず白水が通る難関はここだろう。できれば術を強化する薬丸を飲ませておきたい。
一通り見終わって満足したのか遣り手婆が男衆に持ってこさせた新しい服を渡される。
袖を通し終わると、すぐに琴を渡される弾くように促された。その次は詩歌、そして最後に舞だ。一通り店終わったところで遣り手婆が煙管を手に取り、大きく吸い込む。
「思鈴、あんた、父親に売られそうになったんだって?」
思鈴は地方貴族の娘で、没落しかけた家を再興するために売るも同然で商家に嫁がされそうになり、嫌気が差して都に流れてきた─という設定である。
「ええ。だから見切りをつけてきました」
「まあ、たしかにいくら家門が危ないからって六十を過ぎた爺に輿入れするのは勿体無いね。そんなのずっと生娘でいろと言われた方がまだましだ」
未経験で人生を終える心積りだった明藍が閉口する。その生娘でいる気満々だったのだが。
それを不安がっていると思ったのか、遣り手婆が盛大に笑う。
「なぁに、心配しなくてもあんたはうちの看板になってもらうつもりだから安売りなんてさせないさ。そうだね、しばらくは酒楼に出でもらうけどあくまでそれは顔見せだ。実際に客を取るのはそのあと。なに、あんたほどの器量だったら心配しなくてもいい客がつくよ」
「ひっ!」
ばしんっと思いっきり尻を叩かれる。
「そうだね。これくらいが好きって殿方いるが、もっと肉付きはいい方が受けはいい。たらふく食って胸と尻に肉つけな」
「・・・・はい」
その言葉通りに食べたらきっと大目玉をくらうだろう。むしろ悪目立ちしないようにいつもより節食するつもりだった。
それに元々太りにくい家系なので、食べる量を増やしたからといって肉にならない気がする。
ただ、これでも胸は自分の手に余る大きさくらいはあるので許容範囲だと思っている。
しかし、そんな反論をするわけにも行かず。明藍は素直に頷いておいた。
「ここが生活する部屋だ。といっても寝るだけだがな。部屋持ちになればそっちに移れるが、それまではここで雑魚寝さ。まあ、あんたは器量がいいからすぐに部屋持てるよ。頑張んな」
「ありがとうございます」
部屋を案内してくれた男衆にお礼を言い、部屋に入るとすでに妓女たちの姿はなかった。通路に飯のにおいが漂っていたから、遅めの朝餉でも取っているのだろう。
さて、と持ってきた荷物を整理する。誰かに見られることを前提にしているため、持ってきたのは薬丸と紙と筆くらいだ。内衣くらいは持ってくるべきかとも思ったが、手持ちの内衣は全然唆られないと玉麗のお墨付きをもらっているほどなので、持ってきたところで破棄される未来が目に見えている。
現に、今身につけている服は内衣含めて一式妓楼のものだ。実際はこれらも全て妓女の給金から支払わなければならないのだから、なんとも世知辛い。
「思鈴小姐、お迎えに来ました」
迎えにきた禿の媛媛に連れられて妓楼をぐるりと回ることになった。
一階は言わずもがな酒楼である。営業自体は昼からやっていて、すでに予約が入っている妓女は顔を出さないらしい。気に入った女が見つかれば、そのまま妓楼に流れる仕組みだ。基本的に客を取る部屋は三階、四階となり、上にあがるにつれて敷居が高くなる。
どうやら偉くなると場所まで高くにしたがるのは、花街だろうが皇宮だろうが変わりはないらしい。男の性というやつか。
最上階は五階だ。階段を登った先で媛媛が立ち止まる。
「こっから先は大姐たちの部屋になります」
「大姐?」
「はい。杏花楼といえば、二つの花。桂花大姐と冰花大姐。二人の看板妓女にございます」
客から説明を求められた時のために練習しているのか、媛媛は準備していたかのように淀みなく答える。
これで八というのだから大したものだ。
看板妓女の部屋の入り口には、禿たちが行儀良く座って控えていた。広い通路を挟んで反対側にも同じように禿たちが控えている。同じ年の頃なのに互いにつんと澄まし顔でわざと相手を見ない辺り、仲の悪さが露見している。
玉麗が話していた噂の二人とはまさしくこの二人だろうと明藍は納得する。
大姐の代わりに代理戦争をしているか、自主的にしているのかはわからないが、どちらにせよ雰囲気は良くない。
黙ってその姿を見ていると、くんっと袖を引っ張られる。
目線を下に向けると、媛媛が明藍をじっと見つめていた。まるで品定めをするようなその視線はさっきに遣り手婆に通ずるものを感じる。きっと妓楼にいれば誰しもそうなるのだろう。
すると、媛媛が急に明藍の手を両手で強く握ってきた。
「あたし思鈴小姐なら大姐二人なんて目じゃないと思ってる。だから、一緒に頑張ろう!」
そういえば、ついた姐が出世すると禿も一緒に待遇が良くなると聞いたことがあるような、ないような。
どちらにせよ、溢れんばかりの目を輝かせている少女を無碍に扱えるわけがない。だからといって、媛媛の思い描く未来には力になれない。明藍は近い将来、その時が来ればこの妓楼を去るのだから。
「ところで小姐、この後もう一人小姐さんが来るんだけど、見に行ってきてもいいかい?なんでも、かなりの美人らしいんだ!」
きっと白水のことだろう。しかし、そんな情報まで出回るのか。
「あたしは思鈴小姐の方が美人だと思うけどね」
「・・・それはありがとうございます」
白水は元が整っていて、尚且つ女顔なだけに化粧と術でうまく化ければ、相当な美女に仕上がってる気がするが、ここであったこともないはずの方が美人だなんて言うのもなんだかおかしい。
ここは妓楼。
上を目指さない者はそのうち食いっぱぐれる。
そう思うと、官吏の方が気が楽かもしれない。出世しなくても仕事は常に何かしらあって、しかも給金も出るのだから。
給金といえば、明藍も仕事をしなければならない。今回の仕事は無給だが、一応仕事は仕事である。
「媛媛、一つお願いがあるのですが」
「なんだい?なんでも任されるよ!」
目を輝かせ、意気揚々と胸を叩く媛媛。
彼女には内情に詳しくない明藍の足となって動いてもらうつもりだ。
ただ──いくら本人が知らなかったとはいえ、加担させてしまったら居場所がなくなったりはしないだろうか。
罪悪感が一瞬顔を覗かせるが、明藍は頭の隅に追いやった。結局誰かがしなければならないことだ。そうしなければまた被害者が増えてしまうかもしれない。
「手を出してください」
媛媛は素直に両手を出す。
明藍は右手に薬丸を、左手には金平糖を乗せてやった。金平糖を見た媛媛の目は明らかに輝きを増す。
「いいですか。新しく来る女人にこっちの薬を渡してきてください」
「えっ・・・薬?」
「ええ。新しく来る女人はわたしの知り合いです。薬を必要としているので、こっそり届けてあげてください。遣り手婆にも男衆にも誰にも見られない状況で、できますか?」
薬と聞いて、不審そうに薬丸を見つめていた媛媛が小さく呟く。
「これ、毒じゃないよね?」
「もちろん違います。なんならわたしがここで一粒飲みましょうか?」
外見には術をかけていないが、瞳の色だけは悪目立ちするので隠している。皇宮ではできないが、皇宮の外では瞳の色だけは妖術で隠す許可を皇帝直々に頂いたから何ら問題はないはずだ。
忘れることはないが、薬丸を飲んでおけば気を抜いた時でも効果が持続するのでむしろ飲んでおいた方が楽だったりする。
何故飲まなかったかと問われれば、作るのが至極面倒だったからと言う外ない。
じっとこちらの様子を伺っていた媛媛が小さく息を吐いた。
「・・・大丈夫。あたし、思鈴小姐を信用してるから」
こぼれ落ちそうな大きな瞳は、明藍ではなく他の誰かの面影を写しているように見える。
でも、それを詮索するのは自分の仕事ではない。
「では、よろしくお願いしますね」
これでうまくやってくれるようであれば、媛媛は今後も利用できる。年端も行かぬ女子を利用するなんて、良心が痛む以外の何物でもないが、今はこれ以外に方法が思いつかないので仕方がない。
全てが丸く治ったら何かしらの形で恩返しをしようと思ったが、すでにこれくらいの時には書物にしか興味がなかった明藍は、普通の幼い女子が喜ぶものなど菓子くらいしか思い浮かばなかった。




