十四
ぎゅうるるるる。
すれ違い様に女童が奇妙な目を向けて、隣の母親に何かを耳打ちする。母親はこちらを見ると、女童を嗜めるように何かを言い頭を下げた。
ぐるるるる。
追い討ちをかけるかのように再度魔獣みたいな音がして、明藍は苦笑いするしかなかった。
昼餉前に霍老師の家を半ば追い出されるように出たで、ちょうどいい頃合いの店を探していたのだが、時機悪くどこも空きがなく断られた続けている。
とにかく腹が減っていた。もうかれこれ四半刻は経っている。
もう店を探すよりも診療所に先に行こう。
きっと何かしら食べ物はあるはずだ。なかったとしても斜め前の芝麻球を食べに行けばいい。顔見知りの小母さんのことだから、喜んで売ってくれるだろう。
「ただいま戻りました」
ふらふらとした足取りで裏戸を跨いでいる途中、変なことを口走ったと気付く。
はっと顔を上げると、ちょうど円樹と玉麗が食卓を囲んでいた。
二人とも驚いた様子だったが、すぐに口元を緩める。
「おかえり、藍藍。その様子だと昼餉はまだだね。玉麗、残りがあれば出してあげなさい。なければわたしの分をあげよう」
「余分があるから先生は自分の分くらい食べて。食べ過ぎはよくないけど食べなさすぎも体力が落ちちまうよ。ほら、あんたはここ」
玉麗がさっと場所を開けて、椅子を持ってくる。
「ほら、座ってちゃんと先生が完食するか見張っておいて。最近また食が細くなって、あたしが残りを食べなきゃいけないから困るんだよね」
そう言い残し、厨に吸い込まれて行った。
しかし、例の円樹といえば顔を左右に振っている。ということは、
「わたしの食が細くなったんじゃなくて、あの子が作りすぎてるだけだよ」
相変わらず勘のいい人だ。
明藍の疑問を聞く前に解決してくれる。
「それは大変ですね」
「ああ、お前がいた頃の量だからね。おかげであの子もだいぶ重くなったみたいだよ」
たしかに、最近丸くなっていたとは思っていたが、まさかそんな理由だとは。
「だから、たまには夕餉くらい食べにおいで」
「でも」
「心配しなくていい。お前は娘みたいなもんだし、気になるならいつか出世払いしてくればいいさ」
明藍にこれ以上の出世を求めると、この国の元首くらいにならなければならない。
それは無理だ。そして円樹はそのことをよく理解している。彼はただ、明藍を気遣ってくれているのだ。
そしてこういう時、この家ではなんと言えばいいのか、明藍はよくわかっている。
「・・・先生、ありがとうございます」
円樹が柔らかく笑う。
明藍も釣られて微笑んだ。
やっぱりここは、できるならば戻りたいと思うほど居心地がいい。でも、もうそれは叶わない。逃げないと決めた。そして延いてはそれがこの人たちを守ることに繋がる。
それからすぐに大皿を抱えた玉麗がやってきてくれたおかげで、明藍は腹の魔獣を黙らせることに成功した。
「杏花楼?えっ、なんで転職?」
玉麗が素っ頓狂な声をあげた。
明藍は苦笑しつつ頭を横に振る。本気で転職を考えていたら診療所にするに決まっている。
「・・・だよね。まあ、たしかにあんたなら一攫千金も夢じゃないけどさ」
茶を片手に玉麗が明らかにほっと息を吐く。
ちなみにその茶は明藍が入れたものである。初めは以前の経験からか戦々恐々としていた玉麗だが、一口啜って普通に飲めると判断したらしく、何も言うことなく口に運んでくれている。円樹も同じく無言で啜っているので、上手くなったことは確実だろう。
本当はその人物に感謝したいのだが、今は思い出すだけで腹が立ちそうなので思い出さないことにする。
「詳しくは言えないんですが、ちょっと内側の事情を探る必要がありまして」
「うーん、そうだなぁ。知り合いはいるっちゃいるよ。しかもそこの女衒だから紹介はしやすいけど・・・」
饒舌な玉麗が珍しく言い淀む。
そのまま続きを黙って待っていると、玉麗が躊躇いがちに口を開く。
「元々酒楼を併せ持ってるのはそんな高級店でもないってのは知ってるよね」
「ええ。昔は飯盛女って呼ばれてたんですよね?」
書から仕入れたばかりの浅知恵だが、知らないよりは知っている方が何かと便利なことが多い。
「そう。といっても、かなり昔の話ね。今は酒楼はあくまで妓女を選ぶ場所って位置づけでやってる店なんてたくさんあるんだけど、それでも妓楼一本の店よりはやっぱり気軽なのもあって敷居は低い。そのせいか数で勝負って雰囲気は残ってんのよね。まあ、売れ妓になれば話は別だけど・・・あんたは問題ないか」
何が問題ないのかと思ったが、話を中断させるわけにもいかず小首を傾げたまま相槌を打つ。
「それと永楽、あ、その女衒のことね。そいつの情報だと最近看板張ってる二人の仲がすこぶる悪いらしくってさ。店の雰囲気が最悪なんだって。それでもいいなら紹介できるけど?」
ずっと男社会で生きてきた明藍にとって、女の園自体どんなものか想像がつかないが、たぶん比べ物にならないくらい恐ろしいところなのだろう。
できることならば逃げ出したいが、男である弟子をひとり放り込むわけにはいかない。
「是非、お願いします!」
女は度胸。
なんとかなる、いやなんとかするしかない。
明藍は自分を鼓舞するかのように、ぎゅっと両手を強く握りしめた。
玉麗から文が飛んできたのは、翌日未の刻を過ぎた頃だった。
言葉通り飛んできた文は、相変わらず燕のままである。今まで気にしたことがなかったが、弟子たちが揃って「ちょっと季節感が・・・」と言うのでそろそろ変えてもいいとは思っている。ただ、明藍はあまり鳥の種類に詳しくない。詳しい奴を一人知っているが、今は物理的に遠くにいるため聞くに聞けない。直接会えないのならば文を飛ばせばいいのだが、それだけのために文を飛ばすのもなんだかなぁといった感じである。
それにしても。
二、三年の任期だと聞いていたが今年で四年目になる。流石にこれは帰ってこないのではと双方ともに思い始めている頃だ。別に帰ってこないのであればそれでいいのだけど。
腕に留まった燕をすぐさま文に戻し、中身を確認する。
「明日、か」
かなり急な話ではあるが、こうしている間にも次の被害者がでてしまうかとしれない。早ければ早い方がいい。
玉麗にお礼の文を認めていると、かつんかつんとまた窓に文鳥がぶつかってきた。
燕ではなく、椋鳥─ということは、明藍が術を施したものではなく、個人的に術をかけたものだ。以前燕ではなく椋鳥だと話をしたのは、白水だ。微かに残る軌跡も彼のものと違わないので、間違い無いだろう。これをもっと上手く誤魔化せるようになれば、一人前なのだがまだ出来なくても仕方がない。
明藍は白水からの文を開き、目を瞬かせた。
「・・・絶好機」
ぐしゃりと握りつぶすと、そのまま手の内で灰にする。
とうとう始まるのだ。
明藍は長期不在の旨を、一番お世話になっているといっても過言ではない宿舎の小母ちゃんに伝えるために部屋を後にした。




