七
悔しいことに明藍の予想は当たった。
朝は苦手なのにいつもより早く宿舎の小母さんに起こされる。なんでも早朝に通達が来たらしい。明藍は朝食を食する暇もなく、持たされた粽を両手に馬車に押し込められた。しかし、馬車といっても目と鼻の先にある皇宮にはすぐについてしまう。
何故態々馬車に乗るかと言われれば、威厳を示すために明藍の地位になると乗らなければならないらしい。ちなみに転移術は非常時以外原則禁止となっている。ただ、遅刻しそうな時に何度か使っているが、今のところばれている様子はない。
指定された場所に向かうと、すでにそこには部署の重鎮たたちが軒並み集まり、整列していた。
見るからに若い明藍がまさか一番最後か、と冷や汗をかきそうになったが、すぐに黄管理人がやってくる。よかったと胸を撫で下ろす暇もなく、皇帝の到着が告げられる。
「皆の者、面をあげよ」
言われた通りに頭を上げると、久方ぶりに見る帝は相変わらずの美丈夫であった。なによりこんな朝早くに完璧に仕上がっている。一方、明藍といえば昨晩は湯に入り損ねたし、ばたばたとしていたため髪すら纏めていない状態だ。夏でなかったことが何よりである。
「昨晩、正黒教の再興の兆しがあると報告があった。黄宝徳」
「はっ」
名を呼ばれた黄管理人が恭しく頭を下げ、正黒教について説明を始める。
正黒教の歴史はまだ浅く、五十年にも満たない。困っている者全てに手を差し伸べるという教えから、主に貧困層に指示を受けていた。この国における一般的な新興宗教である。ただし、正黒教は一度国賊として壊滅させられている。
罪名は国家転覆罪。
要するに、反乱だ。帝に代わって正黒教が国を治めるべきと唱え始めたことにより粛清されたのだ。これが先帝の時代、約三十年ほど前のことである。
何故明藍の記憶になかったかというと、危険思考と認定され、情報統制の末、書物からも姿を消していたらしい。残っているのは国が保有する書物か、もしくはその当時生きていた人々の記憶のみである。ちなみにここにいる重鎮たちは殆どが三十年前には物心ついた者たちなので、記憶に残っているはずだ。
その正黒教は姿形を変え、今も健在している。しかし、規模も小さく、所謂危険思想でもないため、定期監視のみとなっていた。
「皆さまもご存知の通り、正黒教の恐ろしいところはその術にございます。春明藍首席術師」
黄管理人の言葉で、一斉に官史たちの目が明藍に向けられる。その目の約半分が疑惑を含んでいた。
何故あのような小娘が、と思われているのだろう。
しかし、無理もない。術部以外の部署では真っ当に出世したとしてもこんなに若くして重鎮に混じることなどあり得ない。あり得ない、と思ったが、最前列にいる人物に気付き、そうでもなかったと思い直す。
そういえば高明の年を明藍は知らなかったが、かなり大幅に見積もっても二十五くらいだろう。二十五だとしても長官なんて地位は大出世である。
黄管理人に招かれて前に出る。大人一人くらいの大きさの紙には、昨晩明藍が見つけた痣を分解した二つの術式が書かれていた。
「この術の説明をお願いいたします」
「わかりました」
明藍は両手を精一杯伸ばして紙を広げている官史のことを思い、早々と説明を始める。
「まず二つの術式を組み合わせる際、すでにご存知かとは思いますが、陰陽を意識しなければなりません」
この時点で数名がきょとんとしているが、今は無視する。
「まずこちらの右の術式、これは眠。つまり睡眠に関することです。一般的に不眠症の方などの治療に用いることがあります。そして左が動。これは体の動きを強化したり、麻痺などが残った方への治療にも用います」
治療に魔術を用いることもある。代々医師家系の明藍の実家に魔術書があったのも、そういう経緯によるものだ。
ちなみに現在推し進めている武官と術師の合同訓練では、この動の術により武官の動きの補助を始めたところである。
「つまりこの睡睡と動き、これを組み合わせると・・・」
説明しながら、明藍はこれはどこかで聞いた話だと思った。そうだ、これも昨日聞いたばかりではないか。
寝ながらにして動き続ける。当たり前だが、意識がない分、ふらふらととした動きになる─幽鬼。
黄管理人を見ると、にやりと口元を緩めた。
口には出さないが、お前もようやく分かったからと言わんばかりの表情である。
明藍の中ではいつも椅子に座って惰眠を貪る人生終盤に差し掛かった老人という印象が強く忘れていたが、黄管理人は明藍が術部に入る数年前まで術部長官として勤めていた。退官する際は今上帝に何度も考え直すように打診され、その結果書物庫の管理人として皇宮に残っているという経歴の持ち主だ。
「つまり、眠らずに動き続ける人間ができるというわけか」
皆の視線が発言者に集中する。
「ふむ。高明、お前の読みは?」
「限りなく黒に近いかと」
帝は考えこむような素振りでその立派な髭を撫でた。
あそこまで伸ばすのには相当な努力を有しただろう、と初めて謁見してから毎度のように思ってしまう。
「元はといえば高明が持ってきた話だ。この件、枢密院に指揮を取らせようと思う。何か異論があるものはおるか」
帝の発言は絶対だ。
意見を求めているようにも聞こえるが、これは決定事項である。異論があるならばそれ相応の覚悟をしてから発言しろよ、と暗に言っているようなものだ。もちろん誰も手をあげるものなどいない。
ただ──。
「・・・どこの馬の骨ともわからぬ者が出しゃばりおって」
どんな組織も一枚岩ではないし、陰でしか言えない奴だっているものだ。
しかしそれが、血の繋がりなど一切なくても、形式上身内であれば尚更嫌気が差すというものだ。
「明藍」
ああ、捕まってしまった。さっさとこの場を辞そうとしていたのに。
一足遅かったと過去を悔やんでも仕方がない。
明藍は嫌悪感が滲み出てしまうのを隠すため、最上級の作り笑顔を張り付けた。
「お久しゅうございます、伯父上さま」
振り向くと、そこには礼部次官楊林泉の姿があった。やや吊り上がった眦は嫌でも彼女を思い出させる。
「久しいな。まさかこんなに出世しているとは思わず、驚いたよ。どうだ、紅英と美蘭は災息か?」
何が災息か、だ。
全て知っているくせに。
「生憎、生家にはここ数年戻っておりません故伯父上さまの方がお詳しいかと存じます。それでは」
「ああ、ちょっと待て。近々、話がしたい」
白水が迎えに来てくれたのをいいことにその場を切り抜けようとしたが、腕を掴まれる。流石に他の目もある中で、振り解くほど愚かではない。
「倅の王林がそなたに会いたいそうだ」
「・・・何用でしょうか?」
一応従兄弟にあたるが、対して親しくした記憶はない。
「なに、そう警戒するな。なんでも後宮の花園よりも麗しいと噂になっているそなたを一目見たいのだろう」
「そのような根も葉もない噂は訂正していただけると嬉しゅうございます。わたくしなど、義妹の足元にも及びませんわ」
何を企んでいるのか知らないが、付き合う気は毛頭ない。
「・・・ふむ、どうやら、すでに決まった相手でもいるようだな」
「何のお話でしょうか?」
「いや、今回の出世に伴って東宮付きになっていると聞いてな。まさか、東宮殿下の花園に入るようなことはあるまいかと」
なるほど、話が見えてきた。
暗に美蘭の邪魔をするなと牽制してきたのだろう。
「ご心配なさらずとも、殿下にはお会いしたこともございません。それでは」
「ああ、そうだった。そなたは今枢密院へ貸し出されているらしいな。それでは、やはり彼が本命か?」
「・・・伯父上さま」
もうなんと言えばいいのかわからない。
頭を抱えて叫びたい衝動に駆られる。しかし、そんなことできるわけもない。転移術で逃げてしまいたい、一刻も早く。もし許可してくれるならば、二徹くらいは頑張る。だから誰か転移術を使わなければならないくらいの問題を今すぐ起こしてくれ。
どうせこいつも噂を聞いて鵜呑みにしたのだろう。噂なんて尾びれがつきまくって、そのうち原型すら留めないというのに。
「楊次官、親族水入らずのところ悪いが、春首席をお借りしてもよいだろうか」
もう首になってもいいから全力で一発殴ろうと拳を握り締めていた明藍は、あまりの時機の良さに目を瞬かせる。
高明は返事を聞く前に明藍の腕を掴むと、さっさとその場を後にした。
背後から蛇のような視線を感じたが、明藍は絶対に振り向かなかった。
「あのっ、高明さま」
明藍の声に、高明が動きを止める。
そしてすぐに言わんとしたことに気付いたようで、何やら複雑そうな表情で掴んでいた腕を離す。
「・・・すまない」
「あっ、いえ、その・・・助かりました」
嘘偽りなく、本心で助かったと思った。
あと一歩遅ければ、強化術を使った拳で林泉の顔面に右殴打をお見舞いしていたかもしれない。そんなことすればいくら身内とはいえ、皇宮内で騒ぎを起こした罪には問われるだろう。もはや、それが目的だったのかもしれないとすら思うほどのしつこさだった。
ほっと安堵のため息を漏らすと同時に、ぐるるると腹から唸り声が上がる。
しまった。怒りで忘れていたが、朝食を食べ損ねていた。ついでに言うと髪も手櫛で適当に梳いただけでなんとも恥ずかしい姿をさらしている。穴があったら入りたい。
明藍が恥ずかしさに打ちひしがれていると、高明の大きな手が頭に置かれる。
「お前は朝が苦手だったのだな」
「・・・苦手、ですね」
一瞬何故それをと思ったが、朝議にほぼ最後に飛び込んできて、髪も結っておらず、しかも盛大に腹を鳴らしていれば状況証拠だけで有罪確定だ。
もはや、認めるという選択肢しかなかった。
「少し風があるが、あそこで少し休もう。何か持って来させる」
視線の先には四阿があった。
どうやら知らないうちに庭に迷い込んだらしい。
「お前は・・・苦手なものはなかったな」
ええ、仰る通りなんでも食べますとも。
別に高明の前だからといって少食な女を演じる理由はない。だいたい、そういう隠し事はいつかぼろが出る。
きっと彼とは長い付き合いになると予感している。そうなれば隠し通す自信もないし、なにより面倒だ。
高明が命令した食事が来るのを待つ間、明藍は今朝小母さんが持たせてくれた粽を頬張っていた。柔らかく煮込んだ豚肉が入っており、手間がかかっていることがわかる。
「お前は、相変わらず美味そうに食う」
「だって美味しいんですもの。高明さまもお一ついかがです?」
まだ未開封の粽を渡たす。
宿舎管理人の小母さんも、もちろん明藍が大食らいであることは知っているので粽をなんと八個も持たせてくれた。本当にありがたい。
しかし、高明はその粽を受け取らず、何を思ったのか明藍の食べかけを齧る。
「たしかにうまいな」
あまりにも自然な行動に、一瞬ぽかんとしてしまう。
正気に戻った明藍は気恥ずかしさから、頷くのが精一杯だった。
きっと高明にとっては普通の行動なのだが、今まで友人は愚か知人さえほとんどいなかった明藍には刺激が強い。
足元にも落ちてきた葉を見て、あれよりも赤くなければいいな、と残っていた粽を口に放り込んだ。




