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二、町の診療所

 目的を達成して戻って来れたのは、空の籠を持って出かけてからあと少しで一刻(にじかん)も経ってからのことだった。

 戸を開けると同時に強い酒精が鼻をつく。次いで雨上がりの草木の香りがむわっと広がった。ここに来てまだ一月しか経っていないにもかかわらず、すでにどこか懐かしさを感じる。


 「た」

 「遅かったな」


 背を向けたまま家主である円樹(エンジュ)が声をかける。いかにも好好爺といった見た目には似合わず、凛とした、聞く者によっては冷たさすら覚えるような声音に思わず曲がりそうになっていた背筋がしゃんと伸びた。


 「申し訳ありませ」

 「あー!藍藍(ランラン)遅っ・・・て、何?山に山菜でも取りに行ってきたの?」


 顔の下半分を覆っていた手巾を取りながら、玉麗(ギョクレイ)が呆れた声を上げる。

 そんな大袈裟なと苦笑いを浮かべたが、言われてみれば確かに籠が溢れんばかりの野菜や薬草はそう見えなくもない。


 「頼まれた薬草以外に、街の方にたくさんお裾分けをいただきまして。あ、その赤いのだけはちゃんと買いましたよ」

 「ちゃんとって・・・味見はした?」

 「はい。酸味が強くて、さっぱりして美味しかったです」

 「ふーん。じゃあ、今日は特別に生で出すよ。先生、いいよね?」


 玉麗の問いに、円樹が無言で頷く。普段であれば生ものは体を冷やすので敬遠するところだが、夏真っ盛りの、しかも昼となれば話は別だ。使いに出る前からずっと厨に篭っていた玉麗の額には大粒の汗が滲んでいた。薬草でも煎じていたのだろう。


 「藍藍」


 名前を呼ばれると同時に桶が飛んでくる。なんとか顔にぶつける前に受け取る。


 「それに井戸水を汲んできてよ。それで終わったら外のさらしを取り込んどいて」

 「わかりました。薬草、ここに置いておきますね」

 「うん、助かる。ありがとう」


 籠を下ろし、すぐ近くの共同井戸で水を汲む。隣のおばさんと挨拶を交わし、すぐにさらしの取り込みを始める。頬を撫でる生温い風のおかげか出かける前に干したばかりのさらしはすでに水分がなくなり、からりと乾いていた。しっかりと踏み洗いされたそれは、使い古されているため毛羽立ちは目立つが、白さだけでいえばまだまだ現役である。

 両手いっぱいになったさらしを籠に放り込んで室内に戻ると、先ほどまで黙々と作業に没頭していた円樹と玉麗が一服していた。


 「藍藍、お前も少し休みなさい。水分をとらないと水が足りなくなる」

 「はい、ありがたく頂きます」


 籠を出入口付近に置き、椅子を持ってきて机を囲むと玉麗が茶碗を渡してくれた。ありがたく受け取り、すぐにいつもと違うことに気づく。まず見た目だ。茶とは色はついているのもも澄んでいるだと認識していたが、目の前の茶は何かが混ざっているようで濁り、そこが見えない。次に香りだ。よく出るのは鳩麦や大麦などを焙煎し、煮出したものである。そのため香ばしさが鼻に抜けるのだが、この茶は玉麗がよく煮出している薬草のにおいがする。しかもかなり刺激的な方の。

 

 これは─飲めるものなのか。


 そろりと様子を伺うも、二人は平然な顔をして口をつけている。むしろ玉麗なんてさっさと飲み干して追加分を注いでいる。どうやら体に悪いものではないらしい。未知の飲み物に不信感は拭えないものの意を決して口をつけた。


 「・・・美味しい」


 口に広がる刺激的な香りとそれを丸ごと包み込むような柔らかさ、ほんのりとした甘味が暑さでだれかけていた体に営気を与えてくれる。


 「西方の茶葉に丁香(ちょうこう)生姜(しょうきょう)を足して山羊の乳で煮出したんだ。本場では砂糖を入れるらしいんだけど、折角江(コウ)の旦那が持ってきてくれたから蜂蜜にしてみた」


 十日ほど前に腹痛で運び込まれてきた江の主人は、養蜂で財を成したと先日別の患者から聞かされたばかりだった。やたらと手を握る人だったのでよく覚えていた。蜂蜜はよく口にしていたが、なるほど、下町ではかなり高価な品らしい。

 砂糖よりも蜂蜜は高価。普段の会話から、またこうして一つ知識を得ていく。

 二杯目の茶を飲み終えた玉麗が今度は茶菓子に手を伸ばしながら「そういえば」と話を切り出す。


 「また壁辺りで怪我人が出たんだと。しかも今度は三十人!」


 壁とは、王都をすっぽりと囲むように作られている外壁のことだ。王都に入るためには、この外壁を越える必要がある。また外に出るのも然りこの外壁を越えなければならない。外からの侵入も中からの逃亡もどちらも防げるというわけだ。外壁が完成した時は戦乱の時代だったため、対人としての役割が主であったが、今は違う。

 外壁の現在の役割は、主に対魔族だ。戦争とは敵味方関係なく大なり小なり死者が出る。魔族はその屍で満足していたため人を襲うことはなかった。それが大きな戦争がなくなってからというもの、魔族たちは人を襲うそうになった。そこで活用され始めたのが外壁である。外壁には無数の魔導機が設置されており、魔族たちの侵入を阻んできた。魔導機を動かすためには、魔術師と呼ばれる者たちの術が必要となる。そしてその外壁の魔導機を一人で動かしていたのが、藍藍─もとい三月ほど前に突如皇宮から姿を消した見習い術師春明藍(シュンメイラン)である。

 そんな明藍を拾ってくれたのが円樹だ。一時の感情に任せて飛び出しまったため、手持ちの金は殆どなく、まず食べるためにはどこに行けばいいのかわからない、ついでに言うと支払いの仕方すらわからなかったのだから仕方がなかった。盗み食いをするわけにもいかず、三日三晩うろうろとうろつき、最終的には空腹に耐えきれず倒れてしまったというわけだ。目が覚めた時に食べた粥の味は、短い人生の中で一番うまかったと言っても過言ではない。

 もともと明藍は食べることが好きな(たち)である。

 今日も二回も『初めて』の『美味しい』に出会えた。ここに身を寄せてから数えると両手では足りないほどだ。自分の世界がいかに狭かったのかをまさかこんな形で知ることになるとは思ってもいなかったが、それだけでもあの籠から抜け出してきた価値は十分にある。


 自分の選択は間違っていなかった。


 そう思いたいのに、壁の話が出ると神経を研ぎ澄ませている自身に気付いてしまう。


 「ここだけの話、担当の魔術師が姿をくらませたらしいよ。しかもたったひとりで壁全部任されてたらしくて、その後任が決まらずにかなりの人員を割いて穴埋めしてるらしい」

 「それは・・・大変ですね」


 まさかその担当者は私ですなんて馬鹿正直に名乗り出るわけにもいかず、相槌を打つに留めておく。

 彼らを信頼していないわけではない。むしろ生い立ちすらわからない女を置いてくれるような善人だ。だからこそ教えるわけにはいかなかった。

 情報を持つということはどんな立場であろうとも危険が伴う。明藍がたったひとりで術を施していたことも本来であれば国家機密のはずだが、今回の混乱でどこからか漏れて市井の下町まで噂として回ってきてしまったのだろう。


 「ひとりの時は侵入を許さなかったのに、何十人でして侵入を許すって・・・いくら精鋭(エリート)とはいえ、上には上がいるもんだね」


 皇宮術師─いわゆる魔術師は国の役人になるための試験である科挙とはまた別の術挙を受ける。術挙に合格したのち、上級術師に弟子入りをし、半年毎にある追試験を受け続けねばならない。十二ある追試験を全て合格できた暁に、晴れて下級術師と名乗ることが許されるのだ。

 つまり通常であれば下級術師になるためには最低六年かかる。しかし、明藍は十二の項目を二度の試験で合格した。二度に分けたのも一度では負担がかかりすぎると上席のものが判断したためだ。そんな明藍が下級術師と名乗っていないのも上の指示だ。

 ただでさえ稀な女術師が、一年で下級術師になったとなれば、自尊心(プライド)の高い他の術師たちのやる気を削ぎかねない。もちろん鼓舞される輩も一定数はいるだろうが、基本的に術師は世襲が多く、生まれた時から術師になるために育てられてきたお坊ちゃんがほとんどだ。そんな大事に大事に育てられてきたお坊ちゃんたちの心が粉々にされてしまっては術師育成に影響が出ることを懸念したのである。

 くだらないと言ってしまえばそうだが、いくら優れた術師であろうと不眠不休で働くことは不可能だ。そのためには人手はあった方がいい。

 だから、明藍は実力は上級術師に匹敵、あるいはそれ以上のものであるにもかかわらず、名目上見習い術師のままだった。しかしお坊ちゃんたちの自尊心は上が考えるようも遥かに高かったらしく、見習いが上級術師たちに取り入ろうとしていると見えたらしい。しかも女だから身体を使って、といういかにも頭の悪そうな考えだ。


 「・・・ま、ここであたしらが気を揉んでも何の解決にもならないからさ!」

 「いっ!」

 

 ばしんと叩かれ、曲がりかけていた背中が伸びる。


 「そんな辛気臭い顔するのはやめなよ。幸せが逃げちまう」

 「幸せ、ですか」

 「うん、幸せ。そうだよね、先生!」


 それまで黙って茶を啜っていた円樹が、ふっと息を吐く。


 「能天気すぎるのも考えものだが、考えすぎるのもよくない。気が滞ると乱心や逆上につながる。特に今のおまえは気が不足しておる。不足は滞りになりやすい」

 「特に夏は気が不足しやすいから仕方ないんだけどさ。ちなみに先生、能天気ってあたしのことかい?」


 玉麗の問いに答えず、円樹は再度茶を啜った。沈黙するということはつまりそういうことである。

 全く包み隠そうとしない態度に玉麗が吹き出し、つられて明藍も笑う。人と笑い合うなんていつ以来だろうか。笑い方などとうの昔に忘れてしまっていた。

 ずっとこのままだったらいいのに。

 急患が訪れるまでの少しの間、笑いに包まれた空間はとても和やかだった。

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