四
雛鳥みたいだな。
とてとてと前を歩く童の後ろをついて階段を登り続け、やっと目的の階に辿り着く。
部屋へ続く回廊から外を覗くと、大きな池と夕陽色の花が目に飛び込んできた。建物のみというところも多い中、ここには立派な庭園がある。梅や沈丁花、梔子といった花が季節毎に咲き誇り、目も鼻も楽しませてくれる。今はちょうど金木犀が花をつけており、強く甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「こちらで少し、お待ち下さい」
予定の時間より早くついたせいか、通された部屋に目当の人物はいなかった。
一旦閉められた戸の隙間から外を覗くと、案内役の子を含めたまだ十にも満たない童が格子窓を開けたり、荷物を運んだりとぱたぱた忙しそうに走り回っている。
あんなに小さいのに大変だと思う反面、自分の役割があることを少し羨ましく思う。
明藍が同じ位の時は、とにかく息が詰まって仕方がなかった。外に出させてもらえず、見た目こそ広かったが狭い世界に閉じ込められていた。人と会話することもほとんどなかったが、おかげで家の書庫にある本という本は全て読み尽くした。それが明藍の魔術の基礎になっているのだから曲がり曲がって感謝しないこともないが─いや、やっぱり感謝はできない。
あの時期に同年代の同性との交流があれば、今頃人並み程度の可愛らしさは手に入っていたのではないかと最近よく思う。きっとそうすれば遠巻きに指差されることもなかっただろうし、もっと楽に生きていけただろう。
事実、あの頃の明藍が会話していたのは、人の目を盗んでやってくる義母兄と無口な幼なじみだけだった。一方的に話まくる人間とほぼ喋らない人間。残念ながらどちらも参考にならない。誰か足して半分にしてくれば良かったのに、そんな器用な人間は周りにはいなかった。
それにしても、梅雪さん遅いな。
来るまで待とうと思っていたが、出された茶菓子に手を伸ばし、すぐに軌道修正をする。少し前までの明藍ならば茶菓子優先だったが、先に茶の味を確認しておきたかった。
色が赤っぽい。最近巷で流行っている西洋茶だろう。ほんのりと金木犀の香りが鼻に抜けた。
一口含むと、普段飲んでいる茶よりもやや渋みを感じるものの、後味はさっぱりとしている。
これはきっと入れるのにコツが必要だ。
最近ほぼ毎日茶を入れているからこそ、その難しさもようやくわかってきた。
茶菓子はころんとした丸い風貌で、周りには粉がまぶしてある。咀嚼するたびに口の中でほろほろと崩れる珍しい食感だ。しっかりした甘さに、飲んでいる茶にも合うことから西から入ってきた新しい菓子だろうかと予想する。もしかして赤い茶の渋みは菓子の甘さを緩和するためなのだろうか。
そうやって茶を一人楽しんでいると、部屋の主、梅雪がやってきた。
「すまない、待たせたね」
「いいえ、美味しく頂いてました」
「それは良かった。西方の菓子だって言ってたよ、客が置いて行ったんだ」
そう言うと、梅雪はまだ膨らみがほとんどない腹をそっと撫でた。無意識の行動だろう。
「もしかしてその子の父親ですか?」
一瞬聞いていいものか迷ったが、二人の仲である。
梅雪は腹の赤子の診察を明藍に指名してきたのだ。腹が大きくなるまでは何もなければ月に一度程度でいいので、明藍の休みに合わせてで良ければと話を受けることにした。本当は助手とすら呼べるか危うい明藍よりも、玉麗や円樹の方がいいとは思うが、そこは患者側の意思を尊重する方針だ。
梅雪は返事の代わりに女の明藍でもどきりとするような妖艶な笑みを浮かべた。
誰の子種かなんて場所が場所だけにわからないと言われてしまえばそれでおしまいなのだが、梅雪は妓楼でも一、二を争う人気妓女だ。妓女は人気になればなるほど出し惜しみされる。人気なのに会えない。それでも会いたい者は余分に金を妓楼へ落とす。そうすることで妓楼側が妓女の価値を引き上げる。
それに梅雪の名前から、彼女と閨を共にすれば梅咲く頃に雪が降ると言われるくらい身売り自体が珍しい。同衾しただけでも名誉とすら言われている。
そんな梅雪が体を許した相手など見当がつかない方がおかしいのだ。
「・・・父親になるかはわからないさ」
「・・・まだ迷ってるんですか、お伝えすることを」
梅雪は無言で先程禿が持ってきた白湯を口に含む。懐妊のせいか、体が茶を一切受け付けなくなっているらしい。食事はなんとか取れているのは幸いだった。
「あたしの父親ってのがさ、これまた酷い男だったんだよ」
明藍は無言で梅雪の話に耳を傾ける。
梅雪は地方貴族の出身だった。
貴族とは言っても、北の痩せた土地を所有するだけで名前だけだと言われても仕方がないくらい生活は豊かではなかった。それでも着る物もあれば、飢えることもなかった。梅雪の上には二人の兄と一人の姉がいたが、兄たちは科挙を受けるために塾にも通えていた。姉と梅雪も詩や楽器、舞など一般的に令嬢が身につけるべきものは一通り習わせられた。今考えれば豊かではないとはいえ、それなりに金は持ち合わせていたのだろう。家族の誰しもがそれが当たり前で、これからも変わることはないと思っていた。そう、祖父が急逝するまでは。
祖父が亡くなり、梅雪の父が家督を継いだ。しかし、父は祖父とは異なり、無能だった。年を追うごとにどんどん貧しくなり、姉と梅雪の稽古は早々に全て打ち切られた。そのうち二番目の兄も塾に通うことはなくなった。
一番上の兄だけが頼みの綱だった。しかし、兄は童試すら合格できなかった。皆、諦めた。だが、父だけは諦めきれなかったらしい。兄の塾代に、家の家財道具や土地などを担保に借金を始めた。
元々気が弱かった兄は、父からの重圧で体を壊した。すると、今度は二番目の兄に科挙を受けさせるべく塾代を捻出し始めた。しかし、もうこの時すでに首は完全に回らなくなっていた。
そして、父は梅雪を人買に売った。一応貴族の出ということで、二束三文ではなかったが、それでもなんの足しにもならなかっただろう。
「それでもあたしはまだ良い方だ。姉さんなんて、父よりも年上の爺さんに嫁がされたんだ」
静かな雨を思わす声音に、なんと声をかければいいのかわからない。
妓女の過去なんてほとんどが訳ありだが、それでも直接聞くことなんてなかった。
梅雪の父にとって梅雪はなんだったのだろうなどと責めてはいけない。
女は男より劣っている。女は男の所有物である。
それがこの国のごく一般的な考え方だ。
でも、明藍は責められずにはいられなかった。それと同時に、自分を恥じた。実家での自由がなかったことなど、妓楼に売られてしまった梅雪に比べれば大したことではない、と。
「そのあと、家がどうなったかは知らない。ただ、姉さんとは文のやりとりをしていた。昨年、流行病で亡くなっちまったがね」
「・・・それは残念でしたね」
「いいや。旦那にはさっさと先立たれ、義息子には煙たがられてたみたいだから、生きててもいいことはなかったんじゃないかね。まあ、あの人は優しかったからさ」
言葉が見つからなかった。
梅雪はもう一口白湯を啜ると、窓の外に目をやる。凛とした姿なのに、明藍は違和感を覚えた。
ああ、そうか。泣いているのか。
格子窓の外を眺める梅雪の瞳には涙は浮かんでいない。でも、心の奥底でたしかに泣いている。
「親は初めから親ではない」
黒曜石の瞳がゆっくりと明藍を捉える。
「ある書物に書いてありました。親は子が生まれてから初めて親となる。子が育っていくように、親もまた親となっていく・・・つまり、初めから完璧な人なんていません。ましてや、生まれる前からどうなるかなんてわかりません。梅雪さんは父親という存在に嫌気がさしているのかもしれませんが、相手の方のことが嫌いなわけではないですよね?」
むしろ嫌いだったら梅雪は茶さえ飲まないだろう。梅雪とは、そういう妓女である。
「案ずるより産むが易しと言いますし、もし駄目だったらわたしも責任持って加勢いたします。だから、自分の思うがままに決断されていいと思います」
梅雪にはそれができる。その機会と、その強さを彼女は持ち合わせている。
「・・・ふっ、ふふ、あははっ」
梅雪が腹を抱えて笑い出す。艶のある笑みでも、駆け引きの笑みでもない。妓女としてではなく一人の人間としての笑いだ。
明藍は黙って笑いが治るのを待っていた。
顔を思いっきりくしゃくしゃにして笑うせいか、梅雪の瞳からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
それでいいと思う。泣き方は人それぞれだ。うまく泣ける者もいれば、うまく泣けない者もいる。
「ふふ、ああ、お腹が痛い・・・そうだね。まだ始まってもないことに悩むなんてあたしらしくないね」
指で目尻の涙を払う姿は、どこかしらすっきりして見える。
「藍藍、あたしやっぱりあんたに任せてよかったと思ってる」
ふっと浮かべた笑みは、今までに見たことのない本物の笑みだった。
「・・・何言ってるんですか。そういう言葉は無事赤子を産んでからにしてください」
「そうだね。名前はあんたにつけてもらわなくちゃね」
そんな大役担えるわけがないと思ったが、折角の好意をすぐさま無碍にする必要もない。どうせ相手側がそんなこと許さないだろう。
明藍は返事の代わりに曖昧に笑みを浮かべると、冷えてしまった茶を口に含む。そしてしまったと思った。
どうやら西方の茶は冷めると渋みが増すらしい。それに気づいた梅雪がまた小さく笑って秋菊を呼んだ。
「次はこれを入れてみなよ。きっとあんたなら気にいるよ」
そう言って梅雪が差し出してきたのは蜂蜜だった。
先日、同じことを話した際、眉を寄せなんとも言えない表情をしていた人物を思い出し、思わず苦笑してしまった。




