三
「本当に申し訳ありませんでした!」
時刻は申の刻になったばかり。
明藍は入室するや否、持ってきた籠をおろしその場で勢いよく叩頭した。
「・・・ちょっと待て、まず顔を上げてくれ。俺の理解が追いつかん」
言われた通りに顔を上げると、椅子に座ったまま額を押さえている高明とその横で副官の徐裕将がぽかんと口を開けていた。
「あの、実は・・・わたしのせいで枢密院に混乱が生じていると小耳に挟みまして」
明藍は紅杏から聞いた話をそのまま伝える。
「なるほど。つまり、お前のせいで武官たちが仕事を怠り」
「はい」
「官女たちも仕事どころではなく」
「ええ」
「その上俺と恋仲だと噂されている、ということでいいか」
「うっ・・・まさしく、その通りです」
話したのは自分なのだが、改めて高明の口から言われると恥ずかしい。恥ずかしすぎて穴があったら入りたい。なくても自分で作るので、しばらくそこで暮らさせてほしい。
きっと高明は優しいのではっきりと迷惑だとは言わないまでも、やんわりと訂正するだろう。当たり前だ。ただの知人と恋仲などと噂されていい気分になる者などいない。本当に心の底から申し訳ない。もし記憶操作術の使用許可が出れば真っ先に全員の中からこの噂話を消し去ってやるのに。
しかし、いくら待っても高明は口を開かない。
「・・・あの高明さま?」
黙り込んでしまった高明に声をかけるも、真剣な顔でぶつぶつと何やら独り言を呟いている。
これはどういう状況なんだ。
徐副官に助けを求めるも、目があった瞬間のひきつった表情で瞬時に無理だと悟る。
そこでもう一度声をかけようかとも思ったが、すぐにやめた。たぶん無駄だろう。それくらい高明の目は真剣だった。
そうだ、それならばこの隙に退室してしまおう。時間をくれと頼んだのも自分だし、話を振ったのも自分だが、冷静になるにつれて恥ずかしさが倍増してくる。このままでは本当に愧死してしまう。
明藍はこっそり退出してしまおうと静かに立ち上がる。しかし、その行動に目敏く気付いた徐副官が止めに入る。
退室したいのですが。
いや、無理ですよ。この状況で返しでもしたらわたしの首が飛びます。
大丈夫です。高明さまはお優しい方なのでいくらなんでもそんなことはしません。
いや、それはあなただからですって!
いやいや、そんなそんな。大丈夫ですから、お願いですから退出させてくださいっ!
言葉に出さずとも視線で会話を繰り広げる。
まだ数回しか顔を合わせていないが、意外と息が合うのかもしれない。
「・・・お前たち、何をしている」
血を這うような声に二人の肩が大きく揺れる。同時に振り向くと、そこには眉間に深い眉を寄せ、ひどく不機嫌そうに高明が睨んでいた。
「なっ、何もしてませんよ。ね、春主席!」
悲鳴のような声をあげた徐副官の顔が途端に青くなる。さっきからやや青みがかっているとは思っていたが、それとは比にならない。
体調が悪いと顔色が悪くなることはあるが、急激な変化に嫌な予感がした。つい先日、顔色が変わってすぐに帰らぬ人となった青年を見送ったばかりだった。
「徐副官、ちょっと失礼しますね」
明藍は徐副官の額に手を当てる。熱はなさそうだ。脈はやや速いが、病的な速さではない。次に口内を見るため顔を覗き込むと、今度は赤くなった。やはり熱かと思ったが、すぐに青くなる。こんな短時間で顔色がころころ変わるなんて一体何が─。
「あのっ、わ、わたしは大丈夫ですので!長官を!」
「へ?高明さま、体調を崩されているのですか?」
慌てて振り返る。
もしかすると明藍の呼びかけに答えなかったのは、意識が朦朧としていたからではないかと嫌な想像をしてしまったが、
「徐副官、これを今すぐ刑部へ持っていけ」
すぐに違うとわかる。
病人はあんな人を殺せるような鋭い眼光には決してならない。現に徐副官は男としては小柄な体を小刻みに震わせている。まるで天敵を前にした小動物のようだ。
そういえば白水が高明のことを虎に例えていたが、今になってなるほどと納得する。
「わかりました!大至急ですね!ではあとは頼みました春首席!」
「へっ、あっ、徐副官!?」
言うが速いか、脱兎の如く徐副官が部屋を飛び出していく。しかも律儀に戸はきちんと閉めていくあたりが、流石は軍で鍛えられし武官だ。
「・・・それではわたしも失礼し」
「それはなんだ?」
高明の指差す先には明藍が持ってきた籠があった。最初に渡すつもりだったが、謝罪することに頭がいっばいで完全に抜け落ちていた。
ちらっと中身を確認する。どうやら無事のようだ。
「煎餅と白茶です。煎餅ならば高明さまも召し上がられるかと思いまして」
「そうか、それならば茶を入れてくれないか。少し休憩をしよう」
高明が立ち上がり、長椅子の方は移動する。
「えっ、いや、でも」
「なんだ、この後用があるのか」
明藍は首を左右に振る。
むしろ謝罪がどれだけ長引くかわからなかったので、自分が戻ってこなかったらそのまま退勤するように弟子たちには伝えておいたくらいだ。
予定はないのだが、そんなことではなく。
「・・・わたしの茶はそんなに美味しくないですよ」
「問題ない。茶葉を入れ忘れなければそれでいい」
それは診療所で何度か失敗して茶葉がなくなったしまったため、仕方なしに白湯を出したことを揶揄しているのだろうか。
態々蒸し返さなくてもいいだろうに。
恥ずかしさも相まって思わずむっと口を尖らせると、反対に高明がふっと口元を緩めた。
不意打ちの顔に、一瞬ぽかんとしてしまう。ついさっきまで虎のように険しかったのに、急に微笑むなんて見る側の心の準備ができていないなくても仕方がないではないか。
『枢密院なんて彼目当てで志願する子もいるくらいだし』
紅杏の言葉を思い出す。
当たり前だ。これだけの美丈夫、世間が放っておくわけがない。そんなのわかってる。わかっているし、自分には関係ないことなのだが─それがなんだか悔しく仕方がなかった。悔しいという表現が正しいのかすらわからない。
明藍はなんとも言えない歯痒さから逃げるかのように、籠を持ったまま隣にある厨で茶を入れる準備を始めた。
うん、薄い。
一口啜って、すぐに茶葉を足したい衝動に駆られる。
これまでの人生、決して自惚れではなく色んなことを優以上にこなしてきたが、料理、特に茶に関しては全く進歩する兆しが見えない。
こればかりは才能の問題かもしれないが、環境も一つの要因ではないかと思っている。
例えば実家にいる時は使用人が、術部にいた時は官女が、診療所にいた頃は玉麗が、そして今では弟子たちが。どこにいても茶を入れる機会などなかった。明藍の中で茶は入れるものではなく、自然と出てくるものという立ち位置だ。ついでに言うと官宿に戻っても管理人の小母さんが入れてくれるので、茶を入れるのは高明に頼まれた時くらいだ。
「今日は薄いです」
そして、こういう時は自己申告するべきだと最近は心得ている。玉麗直談、上手く生き抜くための知恵だ。
「たしかに薄いな」
高明が一口啜り、煎餅を齧る。ぱりっと小気味よい音が二人しかいない部屋に響く。
明藍も一口齧る。醤がたっぷり塗られているためか水分が残っており、表面はやや柔らかめだ。これにざらめをまぶしても美味しいだろうと思ってしまうところが自分はつくづく甘党なのだと思う。
「まあ、色はついているだからいいだろう」
「・・・まあ、たしかに色はついてますね」
薄目で見たらやっと色がついているかわかる程度だと思うのだが、ついているといえばついている。何故ならこれは白湯ではない。
「どうやったらうまく入れれるんでしょうね」
「技は見て盗めばいい」
「たしかにそうなんですけど」
実は見て学ぼうとしたことは今までに何度もある。
しかし、実際にやろうとするとあまり良い顔をされないか、気がついたらすでに入れ終わっているがのどちらかだ。直接教えを乞うたこともあるが「あたしは美味しい茶が飲みたい」と三度目くらいで一蹴されてしまった。たしかに飲むならば美味しい茶を飲みたい。なにより茶葉も無料ではないので無駄にするのは忍びなかった。
「ならばここで学べばいい」
「・・・ここ、ですか?」
「ああ」
高明は頷き立ち上がり、何を思ったのか隣の厨に向かう。明藍も倣って後を追う。
厨に立った高明は薬缶に入った水の量を確認すると、そのまま竈門にかける。
「湯を沸かすなら手伝いましょうか?」
手の上に炎が宿す。
高明は狐につままれたような顔で一瞬ぽかんとし、すぐに半眼になる。
「まさかとは思うが、いつもそれで湯を沸かしているのか?」
「いいえ、まさか。これは火急の時だけです」
一瞬で沸かしたい時は結構重宝するのだが、如何せん威力が強いため飛び火する危険性を孕んでいる。そのため、紙など燃えやすいものがある場所では厳禁で、使用は厨のみという独自規則を敷くほどだ。
あと、火おこしが面倒な時な種火にするという手もある。むしろそっちの方が主な使い方だ。
「いいか、白茶の場合、湯が沸いてから少し冷ます。茶壺に先に茶葉を入れ、高い位置から勢いよく注ぐ」
高明は流れるような動きで薬缶から湯を注ぐ。
「ほら、見てみろ。茶葉の量はこれくらいだ。蓋をして上から湯をかけて温める。あとは少し蒸らして茶碗に注げばいい」
ほら、と完成した茶を渡される。
湯気が立っているので、少し吹いて冷まし、口に運ぶ。
「・・・美味しい」
普段の言動からいいところの坊ちゃんで茶の一つも入れたことないだろうと思っていたが、これは玉麗の茶の旨さに匹敵する。
実は茶屋の倅だったりするのだろうか。
そして、ふと思う。
「これだけ美味しい茶が入れられるのであれば、わたしではなくご自身で入れられた方がいいと思います」
男に自分で入れろなんて言語道断だが、そんな一般常識を無視するくらい高明の茶は美味いのだ。むしろ湯か茶かわからないものを飲ませてしまうくらいなら非常識だと思われた方がましである。それにわたしだって美味しい茶が飲みたい。
茶碗を持ち上げてぐるぐる回してみる。
あまりの美味しさに茶碗に細工があるのではないかとついつい探してしまう。
「藍藍」
名前を呼ばれ顔をあげる。
未だに高明は下町にいた時の呼び名で呼ぶ。明藍としてはどっちでもいいのだが、なんだかそれがとても擽ったく感じる時がある。別にこの名前で呼ぶのは高明だけではないのに。
「俺はお前が入れてくれた茶が飲みたい」
「は、はあ」
「お前のことだから、自分が入れた茶を飲ませるのは忍びないとでも思っているだろう」
よくおわかりではないですか。
明藍は大きく相槌を打つ。
「そう思うならば上手くなればいい話だ」
「それはそうなのですが・・・」
簡単に言ってくれるが、明藍には茶を入れる機会がない。弟子たちの仕事を奪うわけにもいかないし、わざわざ奪って美味しくない茶を飲ませるほど性悪でもない。
「練習する場がなければここですればよい」
「ここ、ですか?」
ああと高明は当たり前のように首を縦に振る。
でも、そんな頻繁に来る用事はないんだけどなぁと明藍が思っていると、見覚えのある書が机に置かれた。
「・・・魔導書」
しかも、以前下町で教えていた続きよりほんの少し進んでいる。
「まだ勉強なさってたんですか?」
「ああ。今後のことを考えても知っておいた方がいいと思ってな。しかし、最近行き詰まるようになってきた」
頁をめくる。
たしかに高明の言う通り、術師も最初につまづく内容だ。
「お前は俺に続きを指南する。その見返りとして俺がお前の茶を飲む。これで練習になるだろう」
側から見れば明藍の方が明らかに損をしているが、茶を入れる機会とその処分までしてくれるのはありがたい。それに、そろそろ茶の一つでも入れられないといくら貴族とはいえ、東長官曰く花の適齢期の女子としては結婚する気があるかないかは別として、危機感を持たねばならない。
結婚といえば──最近会ってないな。
「どうかしたか」
「いえ、なんでもありません」
明藍はふと思い出しそうになった顔を無理矢理記憶の奥にしまった。思い出さない方が幸せなこともあるのだ。




