二、噂
午の刻を告げる鐘が鳴る。
「ん〜昼餉だー!」
新星が元気よく伸びをする。倣って天翔、白水、そして明藍も思いっきり体を伸ばした。
朝一に積み上げられていた書類は、全員で分担して八割方終わらせることができた。最近はよくて三割だったので、久しぶりの達成感に思わず顔が緩んでしまう。
「さて、それでは明藍さま」
しかし、今日も余韻には浸らせてくれないらしい。
新星が懐から包みを取り出す。真っ赤な生地に白銀の糸で刺繍された牡丹が美しい。新星はその包みを開くと、中に入っていた簪や髪紐を取り出す。
「今日はこのままでいいんじゃないでしょうか?」
何よりも頭をずっと使っていたせいか腹が減って仕方がない。最近は頭というよりも、ただ同じ文字を書き続けるという単純作業だったので尚更だ。
「いいえ、なりません。明藍さまには官女藍藍になって貰わなければっ!」
ぐっと拳を握り締める姿に明藍はもうそれ以上に何も言うまいと、いつものように服を着替えると長椅子に腰掛ける。
「それでは失礼します」
声をかけてまず櫛で髪を梳く。
艶が蘇ったところで、髪紐で器用に結っていく。最後に華美過ぎず、しかし品のある簪を刺す。それに三人が協力して編み出した魔道具の眼鏡をかけると、老舗髪結処の三男坊渾身の作、実はいいところの子女風官女の完成だ。
「うん、今日も完璧です!」
一仕事終えた新星が満足感からか直視できないほど眩しい笑顔を浮かべている。
その笑顔を見るたびに、そんなに好きならば家業を極めれば良かったのにと思わなくもないが、何せ三男という微妙な立ち位置である。彼も彼なりに考えた結果、こうして見習い術師として日々猛進しているわけなのだから外野がとやかく言うことではない。
「ところで、このままだと昼餉を食べそびれてしまいますから食堂に飛ばしますね」
明藍は返事を聞くよりも早く三人を食堂に飛ばした。
皇宮では基本的に午の刻の鐘が鳴ってから半刻が休憩時間となる。その時間に昼餉を食べなければいけないが、何せ食堂で昼餉を取る者は多く、少しでも遅れると菜を食べ損ねてしまうことがある。
食は気を作る基本だ。気が足りなければ、自ずと魔力も足りなくなる。術師は机仕事が多く文官よりだと思われるが、意外と体力勝負なところがあり、どちらかというと肉体は武官よりの方が望ましいのである。
「ではわたしも」
弟子たちに偉そうなことを言っておいて、自分が食いっぱぐれるなど笑えない冗談である。
特に明藍は腹が減ると途端にやる気を失ってしまう。
すぐに弟子たちに続けと、食堂近くにある梅の木の麓に転移する。
「さて」
今日もいるだろうかと辺りを見渡すと、食堂の入り口付近で忙しなく視線を動かせている女見つけた。明藍が今きている服と同じ、官女の制服である。
「紅杏さん」
「藍藍!」
声をかけると、途端にぱあっと表情が明るくなった。その姿に通りがかりの官吏が頬を赤らめる。
誰もが振り返る美人ではないが、小動物のような風貌はとても可愛らしい。
「お待たせしてすみません」
「ううん、うちと違って枢密院はここから遠いでしょ?むしろ少し早く切り上げてきてくれたんじゃない?」
紅杏は礼部に所属している。
少し前にあった収穫祭こと秋の大祭で忙しかったらしいが、今は冬に向けて市井まで巻き込んでの大きな祭祀はなく、あっても細々としたものなので雛形通りに業務を進めればいいらしい。
「でも残念だったなぁ。収穫祭の時に藍藍が枢密院に居てくれたら一緒に仕事できたかもしれないのに」
残念そうに肩を落とし、今日の菜である東坡肉を運ぶ。
たしかに、町の警備はほとんど枢密院で請負ってたらしい。
枢密院は軍の中枢を担っている。
しかし、戦争がないこのご時世は軍自体の活躍の場が少ないため、専ら警備が担当となる。兵部と被る部分も多々あるが、戦争が始まった際に指揮を取るのは兵部となかなかややこしい。まあ、詰まるところ力を分散することで反乱防止に一役買っている、とつい先日枢密院の武官から講習を受けたばかりだ。
たしか歴史書に三代前の皇帝の時に大規模な反乱が起きかけたとあったが、それが枢密院設立の大きな要因となったのだろう。
「それにしても藍藍って変な時期に移動だったのね」
「えっ・・・あ、そうですね。なんでも急に人手が必要になったみたいで」
「ふーん。それにしても戸部からって全く畑違いだし、特に枢密院ってほら、大変じゃない?」
「まあ、仕事は多くて大変ですけど」
「違う違う!そうじゃなくて!」
向かいに座っていた紅杏が身を乗り出す。
いきなりの行動に危うく汁を吐き出すところだった。
明藍が口の端を手巾で拭いていると、周りをきょろきょろも見渡した紅杏が小さく手招きをしてきた。なんだと顔を寄せると耳打ちされる。
「枢密院に最近術師の出張所ができたのは知ってる?」
明藍は頷く。
知ってると何も、まさしくそこが職場だ。
「そこに来た女術師って見たことは?」
見たことあるというか、まさしく─
「・・・・ないですね」
「・・・そうだよねぇ」
大きく肩を落とす紅杏には悪いが、ここで自分がその女術師ですなどと言えるはずもなく。
というか、そのために態々弟子たちにこの眼鏡を作ってもらったのだ。
明藍がかけている魔道具の眼鏡は、使用中は相手から見える姿形が変わる妖術を基礎にして作られている。妖術とは人の心を惑わしたり、騙したりする術のことだ。明藍が自身にかけていた瞳の色を変化させたり、顔を記憶に残させないといった術も妖術に該当する。
人に妖術をかけるのは違法だが、魔道具にかけてしまえば合法だろうと弟子たちが力を合わせて作ってくれた記念すべき魔道具第一号である。
「ところで、その女術師がどうしたんです?」
聞かなければいいのかもしれないが、やはり自分のこととなると気にはなる。
「うん、いや・・・それがね、うちの上官が一度だけ見かけたらしいんだけど」
「だけど?」
「すっっっごい美人だったんだって。なんかもう花娘娘が降り立ったのかと思うくらい綺麗って言ってたの」
「・・・へぇ、それはまた」
何という勘違いで。
どこからどう見たらそんな見間違いをするのか知らないが、いやむしろどこか別の人と間違っているのだろう。例えば枢密院で官女をしている、名前が出てこないが美人だと弟子たちがよく言ってる子とか。
「そっか、でも枢密院で働いててもなかなか会えないんだね」
「ええ。ところで、それの何が大変なんです?」
話が逸れかけていたので明藍が軌道修正をする。
「あっ、そうそう!その女術師がなんでも護身符を作ってくれるらしいんだけど、やっぱり皆欲しがるじゃない?それで一悶着あったらしくって、先日からついに謁見禁止令が出たそうよ。しかも、用がある時は必ず長官まで通さなきゃいけないって」
「えっ、そうなんですか!?」
「うん。あれ、そんなんじゃないの?」
たしかに明藍が高明に文を送った直後から依頼にくる武官数は激減し、おかげで悠々自適に仕事に取り組めていたが、まさか高明自身が緩衝材になってくれていたとは。
注意喚起くらいで良かったのにと思うと同時に、仕事を増やしているのではと居た堪れなくなる。
あとでお詫びに茶菓子でも持って行こうか。いや、でも高明はそんなに甘味を好みはしない。それならば以前白水の実家から送られてきた煎餅があった。あれならば辛党の高明でもおいしく食べてくれるのではないか。それと東長官がくれた白茶がまだ残って─。
「・・・ん、藍藍!」
「えっ、あっ、はい!」
いつのまにか俯いていた顔を上げると、頬を膨らました紅杏が半目で睨めつけている。
そういえば、完全に自分の世界に入り込んでしまっていたが話の途中だった。
「あ・・・すみません」
「もう・・・あ、それでね、長官がそこまですることって今までなかったんだって。だから、まことしやかに囁かれてるのが長官と女術師ができてるんじゃないかって」
「できてる?」
できてるとは、なんだろう。
たしかに知人として比較的仲良くはしてもらっているが、肝心の部分が文脈から抜け落ちているためよくわらがない。
明藍が小首を傾げていると、紅杏がこれ見よがしに大きくため息をついた。
「できてるって言ったら、一つしかないでしょ。恋仲よ、恋仲」
恋仲。
恋と仲。
恋人の仲。
「はいぃ!?」
「ちょっ、声が大きい!まあ、たしかに驚くわよね。だってあの長官ってどんな美人の誘いにも乗らないって有名だもの」
「誘い、ですか」
「ええ。今、枢密院問わず官女の間ではその話題で持ちっきりよ」
たしかにあれだけの地位と容姿を兼ね備えた男など石を投げても滅多に当たらない。むしろ一生に一度お目にかかれるかどうかくらい貴重な存在だ。
「まあ、あれだけの美丈夫なかなかお目にかかれないから。それに官女なんて結婚相手探している子がほとんどだし、もし噂通り恋仲なんてことになってたら手遅れになっちゃうじゃない。特に枢密院なんて彼目当てで志願する子もいるくらいだし、ちゃんと仕事回ってるのかなって思ってさ」
「それは、たぶん・・・大丈夫だと思います」
今初めて聞いた話なので大丈夫かどうかなんて明藍にわかるわけがないが、それでも大丈夫だと思いたい。思っていないと平和だな、なんて呑気に仕事していた自分が馬鹿みたいに思える。実際その可能性を考慮できていなかった時点で馬鹿なのだが。
「ごめんなさい。急用を思い出したので今日は早めに戻ります」
明藍は残っていた粥を流し込むと、さっさと食堂を後にした。




