二十、一か八か
肉を裂く音、魔獣の叫び声、血の匂い。
最後に見えた鋭利な爪は一体どこを切り裂いてくれたのだろう。
腹か、胸か、それとも四肢か。
願わくば、四肢でない方がいい。腕など一瞬で切り落とされてしまうし、片腕がないのは術師としてはかなりの痛手だ。
しかし、いくら待てど痛みは来ない。痛みに鈍いからかとも思ったが、肉を裂くほどの怪我をしておいて気付かないなど馬鹿な話あるわけがない。
「・・・なっ、で」
言葉にならなかった。
ゆっくりと目を開けると、すぐ目の前には脳天に剣が刺さり事切れた魔獣と、その傍らで片膝をつき、なんとか自身を支えている高明。
その姿に、頭が真っ白になっていく。
「・・・くっ」
高明の漏らした呻き声にはっと我に帰らされた。
すぐさま傷の箇所を診る。腑まで到達している。傷が深いせいか血が止まらない。
服を裂き傷口にあて、帯で強く圧迫する。これでもかと力を込めているのに、すぐに布の色が変わっていくのが暗闇でもわかる。
「ッ何故庇ったりなどしたのですか!」
怒りから震える明藍を高明が力なく笑う。
「放って、おいたら、お前がき、つくだろ?」
「傷などっ、治癒術があります!」
「そんなことは、わかっている・・・ただ、お前に、痛い思い、をさせた、なかった」
なんだ、一体なんだそれは。
この人は一体何処まで優ししく、そして愚かなのだろうか。
自分を欺いていた女など放っておけばいいのだ。重傷を負ったとしても死にはしないのだから態々体を張って助けなくていいのだ。それなに、この人は─。
「すぐに術をかけます」
「それは・・・無理だ」
「何故っ」
高明は力なく首を横に振る。
「俺は、幼少から、狙われること、が多かった。気をつけてはいた、が幼い頃に毒を食らったことが、ある。他に、も危険なことはあり、すでに・・・三回の、治癒術を受けている」
本当にこの人は何者なのだろうか。
治癒術を使いこなせる術師すらそうそういないのに、それを惜しみなく三回も受けているなんて。
生死の境を彷徨うような病傷に対する治癒術は生涯に受けられる定説では三回までとされている。理由はまだ解明さらていないが、それ以上受けた場合、術を施した側も受けた側も生存したという記録がない。だが、
「・・・っやめろ、藍藍、お前までも」
明藍は無視して詠唱を始める。
本当は術式を使いたいが、先にすべきは応急処置だ。そうだとしても背後の狐面の男にかけた術を解かなければならない。さすがに自身も疲れ切っている状態で何個も術を維持はできない。
「藍藍っ!」
「黙って!」
ぐっと力を入れたせいで、高明から呻き声が漏れる。
「あっ、すみません・・・お願いですから少し黙ってください」
抗議の視線が痛いがそんなことを気にしている場合ではない。
まず男の術を解き、即座に結界を張る。そこでうまく行かなければ全てが水の泡になる。
大丈夫だ、集中しろ。速さでは今まで誰にも負けたことはない。そう、今までは。
もし狐面の男が自分より速かったら、と嫌な想像をしてしまうが、躊躇している余裕はない。
最悪、明藍が男に攻撃されたとしても、残りの魔力を全部高明の治癒に回せばなんとかなるはずだ。
「馬鹿なこと、は、するな。確実、えら、べ」
明藍の考えを読んだ高明が息も絶え絶えに半眼で睨めつけてくる。まだそんな余裕があるならば、安心だ。
「せっかく、助けた、のだ。お前だけ、でも、生き、ろ」
「・・・高明さまは、残される方の気持ちをもっと考えるべきです」
高明の命を犠牲にして助かったところで、喜べるわけがない。考えただけで胸が張り裂けそうになる。むしろその罪悪感から肉体は無事でも、心を病んでしまうかもしれない。
「大丈夫です、命に替えてもわたしが絶対に助けますから」
さて勝負の時、と男にかけた術を解く間際。
「男はわたしが」
どこからともなく現れた真が姿を現す。
みじかいつきあいではあるが、真ならきっと時間を稼いでくれるだろう。その申し出に、今回は甘えさせてもらうことにした。
「頼みました。危険だと思えば引いてください。相手はきっと魔術を使ってきます」
真は小さく頷くとすぐに男に向き合った。
術を解くと共に真が男に斬りかかる。男は武術には長けていないのか、避けるだけだ。
横たわる高明に視線を向けると、じっとこちらを見ている目と合う。海より深い瞳は、闇夜に溶けてそのまま同化してしまいそうだ。それが今は、このまま消えてしまうのではと不安感を煽る。
「・・・お前は、存外、寂しがり、だったのっ、だな。冥土にま、でついてこなく、ていい、ぞ」
そんな不安を他所に、高明はにやりとここ一番意地悪な笑みを浮かべる。痛みと出血でもうそんな余力ないだろうに。
明藍は言葉につまり、そのまま詠唱に集中した。詠唱が終わる頃には、高明はすでに意識を失っていた。止血はできたが、傷ついた腑は詠唱だけでは治らない。
明藍が指で宙に術式を描き始める。治癒術の中でも扱いが難しく、それこそ力が足りなければ術師の命と引き換えになる。
術式が完成する。大きく呼吸し、魔力を流し込む。次第に身体がぐらつき、頭が割れそうに痛くなった。目を開けていられず、瞑るとそこには魔族でも妖族でもない何かが佇んでいた。
─この男を救いたいか。
救いたい。
─命に替えても。
もちろん。
─男がお前のことを忘れたとしても。
忘れられるのか。それは少し寂しい気がする。
ええ、もちろん。
返事をしてから、ぽかりと胸に穴の開いたような気がした。高明の言うように自分はいつの間にか寂しがりになっていたのだと気付かされる。以前は顔を思い出せない術をかけていたくらいなのに。
しかし、どうせもう高明とは藍藍として会うことはないのだから、忘れてもらった方が気が楽かもしれない。
そこまで考えていて、頬を何かが伝ったのがわかった。遅れて、自分が泣いていることに気づく。
─その願い、叶い入れよう。君は─だからね。
次の瞬間、何かは消えた。
瞼を上げて下を見る。横になっている高明は安らかな顔をして眠っているようだ。
「・・・さよなら、高明さま」
また涙がごぼれ落ちたそうになったので、明藍はすぐに上を向いた。
泣く資格などなかった。きっと泣きたいのは庇って死ぬ思いをしたのに、勝手に記憶を消され、体に傷だけが残った高明の方なのだから。
空には、かけ始めた月がぼんやりと浮かんでいる。明藍の記憶はそこで途切れた。




