十九、狐面
「なんだ、気付いてたんですね」
明藍が振り向くと、そこに一人の男が立っていた。頭まで覆われていた外套を取ると、以前とは違いはっきりと顔が確認できる。記憶にある永健そのものだ。
「嫌でも分かります。軌跡、隠しきれてないですよ」
「そっか、軌跡かぁ。それにしても明藍さん、僕の軌跡を覚えててくれたんですね!うわぁ、嬉しいなあ」
永健が恍惚の表情を浮かべる。
術部に籍を置いている者の軌跡であれば、ほぼ九割方把握している。残り一割程度は、僻地にいるなどで未だに顔を合わせたことがない人物だ。
真実はやや異なるが、態々否定するほどでもない。高明が険しい顔で見ている気がするが、今はあえて無視をしよう。
「そんなことより、あなた魔族と契約しましたね」
「あはっ、ばれちゃいました?」
悪びれもなく笑う永健に、高明の眉間のしわが更に濃くなる。
「・・・どういうことだ」
「つい先程野犬を魔獣にするために魂鱗を埋め込むという話をしましたが、魂鱗は人間にはありません。魂鱗は魔族と一部の妖族のみが保有しています」
つまり魔族、または魔族に準ずるものは使用可能になる。
魂鱗自体、一部の術師しか知らないような希少な存在だ。上位の職につくか、魔導書を読み漁った明藍のような者か、大抵どちらかである。
「あと一つ、彼は転移術を使えています。あれは高等魔術で詠唱や術式なしでは不可能です。それこそ魔族のような強大な魔力を持っていれば可能ですが、わたしが知る限りでは二人しかいません」
「それは誰だ」
「わたしと老師です」
師が協力しているとはまず考えられない。
あの人は何よりも惰眠を愛する人である。こんなまどろっこしい事をするくらいならば、国一つ吹っ飛ばした方が早いと思う性格だ。
永健が魔力を隠し持っていたというのであれば話は別だが、それにしても魂鱗の説明がつかない。
「・・・やっぱり、あなたほど聡明な女人はいませんね」
子を慈しむような場違いな声音に、明藍は素筋に悪寒を感じた。自分に対する悪意からだと思っていた。耳障りのいい言葉を並べ、王都の外に出てから殺すつもりなのだと。
しかし、さすがに人の感情には疎いと言われる明藍でもこれはわかる。永健は自分に好意を寄せている。
自然と眉間に力が入るのが分かった。同じく眉間に深いしわが刻まれた高明が庇うように前に出る。
「何が目的だ、何故こいつを狙う」
「僕は明藍さんをお慕いしているだけです。窮屈な籠の中は彼女には似合わない」
「それは、らん・・・明藍が望んだことなのか?お前は直接話をしたのか?」
ひくりと永健の口が引きつる。
「話さなくてもわかりますよ。あなたこそ彼女の何を知ってるんですか?彼女は上級術師をも凌ぐ実力を持っていながらいつまでも見習い扱い。それなのに上級術師よりも働かされ、何も知らない奴らは贔屓だと陰口を叩かれ、挙げ句の果てには襲われそうになった」
高明が驚いた様子で目を見開く。
大方、明藍が逃亡した経緯はねじ曲げられて各部署に通達されたのだろう。
無理はない。あの中には皇族の遠縁もいた。圧力をかけられたと考えれば、普通のことだ。
高明の反応に、永健が鼻を鳴らす。
「さて、怪我をしたくなければぽっと出の武官は下がっていてください。それでは」
「何故助けてくださらなかったんですか?」
「・・・え?」
「そんなにわたしのことを想っているといいながら、何故あの時、助けてくださらなかったんですか?もしかしてわたしが気付いていないなどと世迷い言を並べる気でしょうか?」
永健が口を閉ざす。
「あの時、あなたはその場にいました。前から彼らはわたしのことを疎ましく思っていたのはわかっていましたが、あんな無謀な行動に出るほど愚かではありません」
「・・・つまり、僕が嗾けたと?」
「いいえ、そんな可愛いものではありません・・・あなた操りましたね?」
高明は口には出さないものの、そんなことできるのかと言わんばかりの表情をしている。
答えはできる。しかし、これには魔力の強さ云々よりも一緒にいる時間が重要になってくる。精神支配はとにかく根気がいるのだ。
よくもまあ、そんなめんどくさい事を。
思わず吐き捨てそうになった。
「・・・初めてきみを見た時、こんなに美しい人は見たことがないと思った」
観念したのか、永健は語り始めた。
永健は昔から人の持っている魔力が見えた。
大きさから輝きまで、人の数だけ魔力の種類は異なった。特に術部に入ってからはその多様さに驚かされることばかりだった。
そして、永健が下級術師になった頃、これまで見たものとは比べ物にならないほど美しく、底の見えない大きさの魔力を持つ術師が見習いとして入ってきた。春明藍だ。
周りがその容姿に湧く中、ただ一人、明藍の魔力に酔った。それはまるで自分だけ本人の中身を理解している気になれた。
やがて上級術師に贔屓されていると愚痴を漏らすものたちが現れた。永健はあれだけの魔力を有していれば、贔屓されて当たり前だと思ったが、どうやら周りは魔力が見えていないせいか容姿だけだなどと的外れな事を口にしていた。それが癇に障ると同時に、自分だけは理解できているとまたしても満足感を得られるようになった。
でも、人とは欲張りな生き物だ。最初は見ているだけでよかったのに、気がつくと全てが欲しくなっていた。そのためには明藍を縛り付ける小さな箱庭を壊す必要があった。いや、自分の意志で壊させる必要があった。
そのために自尊心が人一倍高く、影響力がある男がいる集団に目をつけた。近寄り、少しずつ明藍への不満を募らせて行った。あくまで隠し味のように誰も違和感を感じない程度に精神を侵食していったのだ。
「僕は、あなたが自由になりたがっているように思えました。だから」
「だからわたしが自暴自棄になって王都を抜け出すと思った。しかし待てど暮らせどわたしは王都を出なかった」
「その通り。しかも上手く魔力を隠されたから探すにも探し出せない。それならいっそと外壁で暴れてみても効果がなかったから、城壁でも魔獣を出してみた。もしかしたら心配になって見にくるかも、なんて思ってね。あなたは一向に姿を見せませんでしたけどね」
術部への心証を最低まで貶めておいて、何が心配して見にくるだ。明藍とてそこまでお人好しではない。
「王都を抜けようとはしましたが、自分の術があまりにも完璧すぎて抜けられませんでした」
「作ったのだから解除できないのか?」
「あれは、二日間寝ずに考えてできた偶然の産物です。偶然をまた起こせと言われても無理です」
実際丸一日は粘ってみたのだがびくともしなかった。それに時間を費やしたせいで生き倒れる羽目になったと言っても過言ではないが、そのおかげで円樹たちと出会えたのだから、終わり良ければ全てよしだ。ただし、まだこの問題の大本は解決していないけど。
「でも、僕ならできる」
そう、魔族と契約した永健なら可能だった。
何故なら、明藍が解除できないのは術師が無断で王都の外に出られないようにした人間の術師にのみ有効な術だ。
きっと永健はすでに人間ではなくなっている。その証拠に─永健が瞼を開くと、普通の人間にはあり得ない瞳孔が真横にまっすぐ伸びた瞳があった。
「あれは」
「体が魔族に侵食されていってる証拠です。そのうち、全身が侵食され、最後には完全に魔族となります」
瞳は最初の兆候だが、永健が魔族になるのも時間の問題だった。あと一月もすれば、完全に魔族側に堕ちる。
「一体、誰が召喚したんですか?」
「・・・相変わらず勘がいいですね」
永健が契約しているのはほぼ確実に上級魔族だ。というよりも使い魔ならいざ知らず、契約そのものが会話の成立する上級以上でなければ有り得ない。
普通、下級術師が格上の魔族と契約することはできない。召喚した時点で喰われてしまうからだ。
「いくら明藍さんの質問だとしてもそれは答えられません」
「なるほど・・・では吐かせるまでです」
明藍が術符を懐から取り出す。
出発前の身体検査が緩く、こんな緩くて大丈夫かと心配したが、上がこの可能性を考慮していたとすれば納得がいく。むしろわざと見逃したと考える方が自然だ。
班次官か、いや、これは東官長が一枚噛んでいるな。
けらけらと笑っている姿が脳裏を過ぎった。いつもはおちゃらけているが、ああ見えて術部の頂点に君臨するだけあって食えないお人だ。
「ははっ、いくらあなたでも僕は口を開けない」
自信のある口振りから、きっと契約の中に含まれているのだろう。確かにその知識は正しい。しかし、一番肝心な事を忘れている。
すっと腕を前に伸ばすと明藍の掌に術式が浮かび上がる。
「解」
短い詠唱と共に術式から剣が出現する。
それを手に取ると、高明に手渡した。
「これはなんだ」
「魔武具です」
この国では、武官のほとんどに術師が魔力を込めて作り出した魔武具が支給される。
本当は武官たちも術師の力など借りたくはないと思うが、その武具でなければ魔物は倒せない為、切っても切れない縁で結ばれている。
ちなみに高明が腰に挿している剣も魔武具であり、明藍がそれを理解していないわけではない。
即席で作り出した魔武具には魔族と繋がりを切る術を施した。所謂縁切りである。簡単に思えるが、かなりの高等魔術で、下手をすれば手を出した方も飲み込まれてしまう。
しかし、明藍には確信めいたものがあった。それは自然界で獣たちがごく自然に行なっている相手が自分よりも上位か下位かを判断する能力と同じだ。
永健が契約した魔族は、明藍よりも圧倒的に下位である。
「・・・何をすればいい」
この状況で長々と説明を求められたら面倒だな、と思っていたが、流石は武官。説明は後、今は目の前のことに集中してくれるらしい。
本当は自分でするのが一番手っ取り早いが、何せ明藍は剣など振るえないので誰かに頼るしかない。
「彼の心の臓をついてください」
想定外の指示だったのか、高明の眉間にまた大きな溝ができた。あんまり溝ばかり作っていると、そのうち形付いて取れなくなってしまうというのに。
「その剣には不殺です。魔族を捕らえるには、一度人側を仮死状態にするしかありません」
「・・・信じるぞ、藍藍」
言うが早いか、高明が地を蹴って永健に斬りかかる。無駄のない動きに対し、永健は避けるので精一杯といった状況だ。
魂鱗は数を増やすには持ってこいだが、一対一の闘いになった瞬間、その数の多さが仇になる。自分の魂を分け与えているということは、魔力を分けていることと同義だ。つまり、三体動かしているのであれば、その分永健の体に負荷がかかっている。
なんとか永健が自身の魂鱗を戻す前に決着をつけたい。
しかしここで下手に手を出せば、高明の邪魔になる可能性が高い。できる事をしなければ。
明藍が先ほど張った結界の状況に意識を集中させていると、
「見つけた」
ぞわっと鳥肌が立ち、すぐに背後を振り返る。
顔の上半分を狐面で覆った男が以前明藍が対峙したと思われる魔獣の横に立っていた。
いくら集中していたとはいえ、全く気付かなかった。
まずい。こいつは危険だと直感が告げている。
「おっと、動くとこいつらがお前の手足を食いちぎるぞ」
いつの間にか閉じ込めておいたはずの三体も合流し、四体になっていた。
体力を消耗している明藍にとって一人で四体全てを相手にするのは分が悪い。いや、違う。これは体力を(消耗させられた)。どうやら最初から明藍はこの男たちの掌の上でいいように転がされていたようだ。
その事実に気付き不愉快そうに顔を歪めると、男は反対に愉快そうに口を歪めた。
「稀代の天才術師というだけあって期待したが・・・魔力は一流だが、戦い方がなってない。そんなんじゃ持久戦に持ち込まれて、すぐに壊れる」
「・・・あなたの目的はわたしを壊すことですか?」
物理的に殺すか、精神的に追い詰めるか。
男がどちらを指しているのか明藍にはわからなかった。どちらか一つ、いや、両方の可能性だって十分にある。
「目的はここでは話せない。ただ、俺たちとあいつの利害が一箇所だけ一致した。だから力を貸してやっただけだ」
「では、あなたが魔族と契約させたのですね」
「俺は少しだけ手助けをしてやっただけだ。魔族を呼んで、足りない魔力を補ってやった。あいつだって術師の端くれなんだから、魔族と契約すればどうなるかなんてわかってるだろ?」
明藍は掌を強く握り締めた。
男の言っていることは正論だ。
術師の端くれならばわかっていたはずだ。それでも、この男が手を貸すなどとふざけた事をしなければ道を外さずに済んだのかもしれないと思わずにはいられない。
例え人間に戻れたとしても、一生収容所で幽閉されるか、下手すれば首を跳ねられるだろう。それほどまでに男が手を貸したことは罪深いことなのだ。
この男は色んな危険性を孕んでいる。
残りの術符を手に取る。残り三枚。一枚足りないが、致し方がない。術符はすぐに漆黒の闇より深い色の翼を持つ鳥に姿を変えた。
「烏か」
「ただの烏ではございません」
ばさりと烏が空高く飛び立ち、勢いをつけて下降してくる。手から飛び立った時の数十倍にもなった烏が魔獣たちに襲いかかる。魔獣も奇声を上げて威嚇しているが、何倍もある烏は、獲物のねずみでも仕留めるかのように易々と魔獣の体を掴むと空高く舞い上がり叩き落としたり、鋭利な爪や嘴で攻撃を繰り出す。一匹、また一匹と絶命する。現れた魂鱗を烏たちが飲み込んでいく。
その様子に明藍は酷く安堵した。通用しなければ、残る手札などないに等しい。そして、次にやるべきことは─。
「魔力を高める術符だったか。なるほど、たしかにそれは便利だ。それもお前が作ったのか」
面から覗く瞳は爛々と輝いている。
それはまるで新しい玩具を見つけた童のように思えた。
「さあ、どうでしょう」
「ふん、まあいいさ。あとで俺にも教えてくれ」
何故今後も付き合いがある前提で話をしているのか。無性に腹が立つ。
「それは無理ですね。あなたに今後はありません」
男の足元が光り、無数の腕が男の体に絡みつく。
時間を稼ぎをしている間に術式を組み立てていた。うまくいけば、このまま捕縛できる。
「っこれは、ははっ、それだけ消費してるのに・・・流石だなっ!でも、背中が留守だぞ?」
「ッ!」
男に集中していたため、背後への注意を怠っていた。急いで振り返った先には、大きく振りかぶった魔獣。
しまったと思ったが、即座に体が動かない。明藍はぎゅっと目を瞑った。




