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一、花娘々

 籠を片手に大通りから一本入った裏道を南へ進む。大通りは広くて歩きやすいが、その分人目についてしまう。いくらすっぽりと頭まで覆った外套に身を包んでいるとはいえ、用心するに越したことはない。

 皇宮とは真逆の方角に進んでいるが、街の活気は衰えるところを知らなかった。むしろ反対に行けば行くほど、賑やかになっている。きっと王都の玄関口と呼ばれる南大門が近くにあるからだろう。


 「姉ちゃん!何か探してるのかい?野菜ならうちが質が良くて安いよ!ほら、食べてみな」


 ずいっと突然目の前に姿を現したのは、弾けんばかりに鮮やかな朱色をした果実のような野菜だった。初めて見るそれに小首を傾げていると、店主が得意げに鼻を鳴らす。


 「これはね、最近旅商人が持ち込んできた番茄(トマト)ってんだよ。茄子と見た目は似てるが、そのままかじりつけるんだ。どうだ、美味いからかじってみな」


 そのまま齧るなんて知り合いに見られたら咎められそうな行為だが、生憎こんな下町に知り合いなどいない。もし居たとすれば、それはそれでかなり問題だ。

 水桶から出したばかりなのか番茄の表面には水滴が残っている。麻でできた軽やかな外套の裾で水を拭い、一口齧る。


 「・・・美味しい」

 

 甘さと酸味が程よく、自分では気づかなかった喉の渇きを潤してくれる。なにより、瑞々しさがいかにも夏の食べ物という風体だ。

 ぽつりと漏れた感想に、店主は誇らしげに胸を張った。


 「だろ?姉ちゃん別嬪そうだから安くしとくよ!」


 別嬪そうだなんて失礼な言い方だが、外套で顔の大部分が隠れてしまっているので仕方がない。むしろその状態で別嬪だと言われた方が口から出まかせというやつである。

 『姉ちゃん』と呼ばれた女は少し悩み、指を三本立てた。

 

 「はいよ!ありがとうね・・・」

 「・・・?足りませんでしたか?」


 言われた通りの代金を支払ったはずなのだが、もしかして間違っていただろうか。何せ、自分で支払いをするなど最近の出来事だ。じっと店主の目を見つめていると、心ここにあらずだった店主が慌てて首を左右に振る。ほのかに顔が赤い気がする。まさかこの暑さにやられたのではないだろうか。そんなことを考えていると、視界の隅で体格の良い男たちをとらえた。咄嗟に外套を深く被る。


 「あの、出過ぎた真似かもしれませんが、もし目眩や吐き気がしたら水に砂糖と塩を少し混ぜて飲んでみてください。それでも良くならなければ、医師に診てもらった方が良いです。それでは」


 店主の様子に一抹の不安を残しながらも受け取った赤茄子を籠に入れ、再び歩き出す。口の中に広がった瑞々しさに思いを馳せながら、やはり自分の決断は間違ってなかったと再確認させられた。あの場所にいれば、こんな目新しい食べ物には到底ありつけなかっただろう。いや、こんなに街が栄えていることさえ知らずに生きていってただろう。この街を守っていたと思えばそれはそれで誇らしいのだが、実情を知らなかったとはいえ、誇らしさなど微塵も感じることはなかった。


 今であれば違うのだろうか─いや、ないな。


 脳裏を過った考えに頭を小さく振る。戻るという選択肢はない。むしろ戻れる状況ではない。見つかればよくて幽閉、妥当で極刑といったところか。だから、見つかるわけにはいかなかった。

 先ほどの男たちは気付くことなく反対方向へと進んでいったが、安心するにはまだ早い。道草を食っていたせいで、本来の目的も達成されていない。少し小走りになると、籠の中の真っ赤な玉がぶつかり合っている。今日の昼餉にはこれを出そう。ただし、調理するのは自分ではないから、あくまで予定である。


 二軒隣の女主人と話し込んでいた女房は不審な顔になった。店先でいつもと変わらず近所迷惑とも言える大音量で野菜を売り捌いている店主が、心ここに在らずといった様子で何やらぼんやりとしている。

 

 「あんた、暑さにでもやられたのかい?」


 今年の夏は例年よりも暑い。何か基準になるものはないのであくまで体感と経験則に基づいた個人的な感想だが。

 声をかけるが夫は一向に現に戻って来る気配はなかった。女房は訝しみながらも諦めて追加で入荷した野菜を籠に盛り付ける。それにしても─少し留守にした間に狐にでもつままれたのかもしれない。いまだ茫然としている夫を横目で見遣ると、「本当に狐かもしれねぇなぁ」と相槌を打ってきた。どうやら声に出ていたらしい。


 「あんたは狐に何を売ったんだい?」

 「今朝西方の商人が持って来た番茄だよ」

 「ほう、あれを買ってくれたのかい」


 珍しいものの結構値が張るので全部売れ残るんじゃないかと内心心配していたが、新しい物好きかはたまた店主の腕がいいのかは定かではないが狐でもなんでも購入してくれたことには感謝だ。


 「ありゃ・・・みだな」

 「なんだって?」

 「・・・なんでもねぇさ。そんなことよりこれを届けてくるから店番頼むぞ」


 そう言うと、店主は溢れんばかりの野菜が入った籠を抱え、いつものように配達に出て行った。その後ろ姿を見送りながら、女房は小さくため息をついた。


 「・・・なんだい、ただの色惚けかい」


 実はしっかりと店主の言葉は聞こえていた。でも聞こえないふりをしてわざと聞いたのだ。


 『ありゃ、花娘娘(ホアニャンニャン)だな』


 実に面白くない。女房は自分がむくれているのがわかった。

すでに付き添ってから十数年もの月日が流れ、今更何をと言われるかもしれないが、一緒になる前、お前がこの世で一番綺麗だと言ってくれたのを忘れたことはない。店主は仕事柄かなりの人の顔を見ているが、あんな風に惚けたところなど見たことがなかった。

 もう何人も子供を産み、母となった自分は女として見られなくなったのだろうか。それともその客が想像を絶する美女だったのか。


 「すみません」

 「あっ、はい!」


 客に声をかけられ、いつもの営業笑顔(スマイル)を貼り付ける。どっちなのか、女房に知る術はない。ただ、きっとあの店主のことだからきっと後者なのだろうと勝手に結論づけておくことにした。

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