十五、残日
「今度こそはものにしたんだろ?」
腕に押し付けられる柔らかな感触に、確かにこんなことされれば鼻の下も伸びざるを得ないよな、なんて馬鹿なこと思う。自分もそんなに小ぶりではないとは思うが、やはり玄人には勝てない。
「・・・梅雪さん、玉麗さんから何を聞いたか知りませんが、わたしは知人と街を散策しただけです」
「でも、夜は一緒に過ごしたんだろ?」
過ごすには過ごしたが、他にも真や武官たちがいたので梅雪が期待しているような色気があることなどない。しかも徹夜で外壁に術を張りまくるというかなりの大仕事だ。
しかし、真実を言うわけにもいかず、尚且つ他にも男が居たなんて言えば、この目の前で一切恥じることなく股を開いている妓女は「複数行為かい?」なんて言ってくるだろう。これでももう五月の付き合いだ。嫌でも性格はわかってくる。
「何もなかったですけどね」
「ご馳走前にして二度も我慢するなんて、できたお人なのか不能なのかわからないね」
梅雪がほぅと艶っぽいため息を漏らす。
ご馳走とはよく言ってくれる。ご馳走は梅雪であって、自分はよくて粥くらいだろう。どこにでもいる、ありふれた女の一人でしかない。その証拠に今までに浮いた話などひとつもない。
明藍は聞かなかったふりをして、黙々と診察を続ける。内診が終われば、脈と舌をみる。
全身を診終わって、気になることがあった。脈が何時もより早い。
「・・・梅雪さん、お渡しした薬丸は飲まれてます?」
明藍は患者記録に書き込みながら問う。
紙は普及しているとは言え少しでも品質が良いものだと値は張るが、安すぎるものを使うとすぐに駄目になってしまうため、円樹の診療所ではなかなかいい紙を使っている。それでも高明が術式の練習用に使用する髪と比べれば格段に粗末なものだ。
「うーん、一応飲んでるつもりだけど、飲み忘れることも多いとは思うねぇ」
女の明藍でもどきりとするような流し目の先を見れば、控えている禿が困ったように笑う。
「大姐さん、結構残ってますよ」
「あら、そうだったかい」
艶やかでどこかつんとした雰囲気が客に人気だが、こう見えて所々抜けている梅雪だ。
ぺらぺらと数ヶ月前の記録を見返し、やはりと確信する。
故意でやったわけではないとわかっているだけに、気持ちが重くなる。
「梅雪さん、最近いつ月の障りが来ましたか?」
ひゅっと禿が息を呑んだのがわかった。
まだ月の障りも来ていないだろうに、環境のせいか、知識としてはすでにわかるようだ。
「・・・二月、は行ってないと思う。詳しいことは遣り手婆に聞かないとわからないね。うちは障りの時は客は取らないから」
「そうですか。単刀直入に言いますが、胎に赤子がいると思います。先生に伝えますので、詳しい診察を受けてください」
薬丸は孕みにくく、もしくは万が一孕んだとしても医師すら気付かぬうちに流れるような作用がある。
よく効くと評判で、この妓楼も診療所のお得意先の一つだ。孕んでから流す方が妓女の身体には負担がかかる。これでも妓楼は妓女のことを思って、高い金を払って薬丸を買ってくれている。
「秋菊」
「はい、大姐さん」
名前を呼ばれた禿が顔を上げる。
「遣り手婆にこの話、伝えてきてくれないか?あとであたしからも話すけどさ」
秋菊は躊躇いを見せたが、すぐに頷くと部屋を後にした。
梅雪が視線を下に落とす。
落とした先にはまだ膨らみもしない腹があった。
「この子は、殺されちまうのかね」
明藍は黙っていた。
梅雪は否定して欲しいわけでも、答えが欲しいわけではない。ただ、吐き出したいだけだ。
赤子ができるのはめでたいこと。
そう思っていたが、それは時と場合によると言うことを実感させられる。
貧しい平民で、これ以上は養えないと薬をもらいにきた者いる。客相手の仕事だからと産みたいと望んでも無理矢理流させられる者もいる。
自分はきっと幸運だったのだ。
母は妓女にも関わらず、明藍を産み、しかも育てる気でいた。もし母が健全だったら、明藍も梅雪と同じ妓女として生きたのだろうか。
ふと、自分のもしもが気になった。
「妓女を母に持つ子はどうなるのですか?」
想定外の質問だったのか梅雪が目を丸くする。
「どうって・・・基本、妓楼で育った女は死ぬまで妓楼、つまり妓女になる。ただ、例外もなくはない」
「例外ですか?」
「ああ。ほら、あんたのところの玉麗。あの子は青華館で生まれ育った子だよ」
青華館は都の花街でも一、二位を争う高級妓楼だ。
確かに玉麗は黙っていればかなりの美人だ。実際、円樹の往診先で患者の倅から求婚をされて一蹴した話も聞いたことがある。
「・・・知りませんでした」
「あら、そうなのかい?」
まさか玉麗が自分と同じだったなんて。
厳密に言えば妓楼で生まれただけの明藍と妓楼で生まれ育った玉麗とではかなり差があるのだが、それでも数奇な運命を感じずにはいられない。
玉麗は何故妓楼で生まれ育ちながら、円樹の助手として働いているのだろう。
五月も寝食を共にしていたが、まだ知らないことの方が多い。
いや、明藍の方が身元が分かるような話を避けていたのだから当たり前だった。
「そういえばついこの間玉麗と話したんだけどね、あんたのこと妹みたいだって言ってたよ。家事も下手だし、あんな見た目で大食らいだから家計が火の車になりそうだけど、それでも可愛いんだと」
目の奥が熱くなった。
自分に姉がいたら、玉麗のような存在なのかと思ったことがある。玉麗もまだ同じように感じててくれたことが嬉しくもあり、とても申し訳なくもある。
傷など一切ない白魚のような手が明藍の頬を撫でる。
「なあ、あんたが何考えてるか知らないが、たくさんのことは背負わなくて良いんだよ。せっかくどこにも繋がれてない自由の身なんだ。人の幸せよりも自分を大事にしな」
じっと見つめてくる瞳はこれから起こる全てのことを見透かしているかのように思える。
明藍はなんと返事をして良いのかわからなかった。代わりに、曖昧笑って見せた。
その夜、明藍は玉麗と風呂屋の帰りに寄り道をしていた。夏も盛りを過ぎ、昼の日差しは強いものの、夜はだいぶ暑さが和らいでいる。民家が多い地区のせいか、明かりがほとんどなく、かわりにまん丸とした月が辺りを照らす。
これが新月だったら足元にかなり気を配る必要があるが、あと数日で満ちる月の光はそんじょそこらの蝋燭に負けないほど明るい。
そのおかげか橋の欄干にもたれかかった玉麗の表情ははっきりと見える。
誘おうと思っていたが、誘われたのは明藍の方だった。何か玉麗が話したいことでもあるのだろうかと黙って見守っているが、玉麗が話を切り出す様子は一切ない。ただ、じっと水面を眺めているだけだ。
「皇帝や貴族や官吏、どんな偉い人でも、川の流れは変えられても水そのものの流れは変えられない」
視線を玉麗に向けると、玉麗も明藍に視線を向けていた。
「だからあんたは何にも縛られず生きていけばいい・・・あたしの母親の死際の台詞」
「鬼籍に入られてたんですね」
「そう、あたしが十二の時、元から患ってた病が悪化してね。結構あっけなくぽっくりと」
十二の時といえば、明藍にとっても転機の年だった。たまたま父に連れて行かれた皇宮で師と出会い、人生が変わったのだ。きっとあの出来事がなければ、今頃幽閉され続けていたか、もしくはどこぞに嫁がされていただろう。
「だからさ藍藍。あんたがどんな決断をしようとあたしは止めない」
玉麗の人柄をそのまま写したような真っ直ぐに伸びた髪が揺れる。
明藍は先日の夜、すでに決めていた。
五日後には診療所を出て、皇宮に戻ると。
それが幽閉という道でも仕方がないと思っている。それほどの罪を明藍は犯している。
本当は止めて欲しかった。でも、そんなのどこかで後悔するかもしれないと臆病になっている自分のわがままだと思い知らされる。
きっとこのまま明藍が残るといえば、玉麗は笑顔で受け入れてくれる。それが偽りだろうと、そうでなかろうと。
でも、やはりそれではいけない。
「わたし、玉麗さんのこと、姉様がいたらこんな感じかなって思ってました」
玉麗が目を丸くしたと思うと、すぐに細めた。
「それはまた偶然。あたしも妹がいたらこんな感じかなつて思ってた」
本当の姉妹なら、と思い、すぐに小さく頭を振った。
本当の姉妹でもうまく行かない例などごまんとある。むしろそっちの方がうまくいかない実例を身をもって知っているではないか。
「玉麗さん、わたし、明後日出ていきます」
「・・・そっか。まあ、嫌なことがあったらさ、いつでも帰ってきなよ。もう診療所は実家みたいなもんだろ?ついでに帰ってくる時は食材をたらふく抱えてきな。先生も首を長くして待ってるからさ」
円樹に限ってそんなことはと思ったが、明藍と比べて何十倍も一緒の時を過ごしてきた玉麗が言うのだから間違いないだろう。
ただでさえ細長い円樹の首が伸びている様を想像し、ふふと笑い声が漏れてしまう。
「さ、そろそろ帰ろうかね。先生が、『女人は身体を冷やしてはいけないよ。早く髪を乾かしなさい』って煩いからさ」
「ふふ、それ先生の真似ですか?」
「そう、結構似てるって患者には評判なんだよ」
玉麗が胸を張る。
こういう楽しい会話ができるのもあと少し、と明藍は気が緩んでしまった。
それがいけなかった。
「じゃあ、術で乾かしましょう」
「術?あんた本当に術師かなんかなの?」
「秘密です」
明藍は唇に添えた人差し指をそのまま掌に滑らせる。
小さな風が起き、玉麗の全身を優しく包む。
「うわっ、えっ、なに!?」
「もう乾いたんじゃないでしょうか」
ぱんと小さく手を叩くと、風がおさまった。
やや放心状態の玉麗が、自身の頭に手を当てる。
「・・・すごい、乾いてる」
「これ、調整が難しいんですが、習得すると結構便利なんです」
「なにこれ・・・こんな便利なものがあるんだったらもっと早くしてくれればよかったのに!」
元は強靭な風撃術を明藍の手腕で代用しているだけだ。一歩間違えれば、民家ごと吹っ飛ぶ。
もちろんそんなことを知らない玉麗にとってはどうでもいい話だろう。
「そうですね、では」
今度里帰りした時にでも。
その言葉を明藍は飲み込んだ。
『やっと見つけた、春明藍』
突然姿を現したのは、先日外壁で高明たちが撃退した魔獣。
何故人間の言葉を、何故わたしの名前を。
疑問はたくさんあるが、今しなければならないことは─。
言葉を失い、ガタガタと震える玉麗を庇うように明藍は前に出る。恐怖心がないといえば嘘になるが、今はそれよりも玉麗を守らなければならない。
「玉麗さん、絶対にわたしの背後から動かないでください。いいですね」
返事は聞こえないが、確認している余裕などない。短く詠唱する。魔獣が飛びかかってくるが、明藍の手前で弾かれるた。
これだけでは不十分だ。
本当は結界と合わせて攻撃も組み合わせたいのだが、ここは民家も多い。下手に攻撃を避けられても被害が出る恐れがある。
頭ではわかっているが、できることをしないという選択はもどかしさが残る。
『やっと、やっと見つけた!やっと、におい、見つけた』
においという単語に、術を使ったことを悔やんだ。
たぶん魔獣は明藍の術の軌跡を嗅ぎつけて飛んできたのだろう。
でも、外壁の結界は先日施したばかりだ。いくら力のある魔獣だとしても、流石にこの短期間で破るなど考えられない。
やはり、と明藍は自身の嫌な予感が的中していることを確信する。ただ─
「一体何が目的なんです」
明藍には目的がわからなかった。
自分に恨みでもあるのだろうか。殺すことが目的ならば、さっさと殺せばいいのだが、どうもこの魔獣の動きを見ていると、捕縛が目的のように見える。
『ほしい!ほしいほしいほしいっ!お前、欲しい!』
魔獣は狂ったように何度も結界にぶつかっては弾かれを繰り返す。軋むような音はするが、結界が持たないということはないだろう。とにかく今は諦めるのを待つしかない。
突然後ろからぎゅっと腕を握り締められた。玉麗が泣きそうな子供のような顔でこちらを見ている。
「・・・怖い思いをさせてしまってすみません」
一緒にいなければ、もっと注意しておけば巻き込むこともなかったのにと自責の念に駆られていると、頭に拳が降ってきた。
「いっ」
「何で謝ってんの馬鹿!あんた、こんな奴に平然としてっ、まるでこれが日常だったみたいに・・・ごめん、あたし何もわかってなかった」
玉麗のやや吊り上がった目から大粒の涙が溢れる。
ああ、本当にこんな優しい人に最後に出会えて良かった。
「一緒に帰りましょう。診療所へ」