十三、街歩きその二
「あっ、見てください、これ!」
明藍の指差した先には、口を忙しなく動かし、もっしゃもっしゃと草を食んでいる山羊の姿。
「山羊か」
「実物は初めて見ました」
書で目にしたことはあったが、見物を見たのはこれが初めてだ。何せ明藍がいつも買い出しに行っている市場では、家畜はすでに捌かれた状態で置いてある。生きていてその場で捌くのは鶏くらいだろう。
「お嬢ちゃん、山羊が初めてかい?」
「はい。この山羊はどのようにして食すのですか?」
動物といえば愛玩か、労働力か、食肉のどれかである。色気よりも食気で生きてきた明藍が一番に頭に浮かんだのは食肉だ。
「ははっ、こいつは食わねぇよ。山羊は臭みが強いから、好き嫌いがはっきりするんだ」
「そうなんですね。では、乳を飲む為ですか?」
「おっ、よく知ってるね。最近出回り始めたんだが、何せ獣の乳だから独特の臭いもあるし、搾ってから売ってたんじゃ腐っちまうからさ。本当はまだ家に何頭かいるから、搾ってもって来れたらいいんだがね」
明藍は以前玉麗が入れてくれた乳茶に香辛料が入った飲み物を思い出していた。そのまま飲めば獣臭さは残るかもしれないが、茶で割るなどすれば意外と流行る気がする。
ただ、それだけだと残った時の損失が大きい。搾乳して運んでくる手間まで考えて利益を出さなければならない。そうなると─。
「あの、これ酪乳にできませんか?」
「酪乳?なんだそれ」
店主の反応に、やはりまだ平民の間では出回っていないのだと確信する。
明藍は「わたしが知っているのは牛の乳の作り方ですが」と前置きしてから話始める。
酪乳の作り方はいたって簡単だ。乳を大鍋で加熱し煮詰め、途中酢や柑橘の汁など酸味が強いものを入れる。固まり始めたら少し時間を置いて布で越し、搾って水気をなくす。ここで食べてもいいのだが、もっと日持ちをさせたい場合は、型にいれて重石などを乗せさらに水気を切る。水気がなくなったら、表面に塩をぬり、晩冬から早春くらいの温度で数月から一年程度熟成させる。
「・・・とまあ手間暇はかかりますが、酪乳にしてしまえば保存も効きますし、なにより美味しいです」
明藍も一度だけ口にしたことがあるが、濃厚でとても美味しかった記憶がある。あれは、そうだ、花神楼だったではないか。
先日のことを思い出し、すぐに頭の中から追い出す。
変に意識したら駄目だ。一刻も早く忘れなければ。
「お貴族さまはそんなもん食ってんのかぁ・・・いや、ちょうどうちの倅たちに仕事を与えたかったんだよ。乳酪だっけ?それ、うまくいったら食わせてやるよ。旦那、いいよな?」
店主が明藍の背後に語りかける。
もしかして、その旦那って─。
「ああ、構わない。皇宮に届けてくれ」
高明は涼しい顔で頷く。
「あら、官吏さまでしたか。なるほど、だから細君も博識なわけだ」
「ちょっ、細君などではっ」
「そうだな。彼女ほど知識が広い女人を俺は知らん」
必死に否定しようとする明藍の言葉を遮り、肯定とも、というよりも肯定としか取れないような言い方をする高明を明藍は驚愕の表情で見上げる。
深い海のように黒々ときた瞳が間抜け面した女を捉え、細められる。
─ずるい。
そんな表情をされれば、必死に否定しようとしている自分が道化みたいだ。
「お礼と言ってはなんだが、ほら、山羊の乳飲んでいってくだせぇ。搾りたては格別だからさ」
店主から受け取った山羊の乳は想像よりも獣臭く、やはり茶で割った方が美味しいなと思いながらもしっかり飲み干した。
それから二人は町をあてもなくぶらついた。
いつもは何かしら予定があっての町歩きだったので、明藍にとってその場その場で適当に店に入ってひやかすという行為が新鮮で楽しかった。
途中何回も夫婦や恋仲に間違われて、その度に死にそうな思いはしたが。
「それにしても良かったのか、酪乳の作り方を無料で教えて」
休憩に入った茶屋で西方の紅い茶を飲んでいると、唐突に高明が話を切り出した。
「何故ですか?」
「作り方を知っていて、まだ他者が参入していない品であれば、自身で流通させることもできる。そうすれば利益は自ずと一カ所に集まる」
つまり、自分でやれば大儲けなのでは、と言いたいらしい。
高明の出生についてはほとんど知らないが、やっぱり彼は商家の生まれなのではと思う。いや、初対面での愛想のなさを加味すると半々だ。もっと商家生まれは誰に対しても愛嬌がいい。
「そうですね。ただ、その話の前提には、潤沢な資金が必要となります。町医者の助手の給金では到底叶わぬことですし、世の中富が全てだとは思っていません」
明藍だって裕福な生活は知っている。
着るものにも、食べるものにも困ったことはない。まだ年端も行かないのに物乞いをさせられたり、路地裏で野垂れ死ぬ子どもに比べれば、比べ物にならないほど恵まれている。
ただ、それでもどこか満たされなかった。悲しみや苦しみで心に穴が開いたというが、極限を超えると心そのものがなくなってしまう。
あの家にいた頃、明藍はまさしく心がなくなった人形のようだった。
「わたしは、今の生活で満たされています」
血の繋がりもないのに家族のように受け入れてくれた円樹と玉麗、よく世間話をしに来てくれる文成、明藍が好きなものだからとおまけしてくれる店主、声をかけてくれる下町の人々、そしてこうして一緒に居てくれる高明。
わたしは、今、初めて息ができている。
誰に遠慮することもなく、誰からも抑圧されることもなく、ただ本当に自由に自分の意思で生きている。
「それに安価で酪乳が手に入るようになれば、私も助かりますし」
「・・・そうか」
「あっ、でも、きちんと働いた分の対価は頂きますよ」
暗に金四枚はまけるつもりはないことを示唆する。
「抜け目がないな」
「当たり前です」
高明は笑ったが、その金で明藍は診療所の建て替えに当てようと思っていた。建て替えと言っても水回りだけらしいが、少しは足しになるだろう。
そんなことを考えていると、酉の刻を告げる鐘が鳴る。
そろそろ帰宅せねばと席を立とうとすると、高明が「この後」と言葉を続ける。
「少し時間はあるか?」
あるにはあるが、あまりにも遅いと夕餉を食いっぱぐれてしまう。明藍が住んでいる地区は歓楽街ではないため、店仕舞いが早い。
ここで断っても高明なら無理強いはしないだろうが─。
「・・・あまり遅くならないのでしたら」
高明の真剣な顔を見て、これは断ってはいけないと明藍は判断し、うなずいた。