十、曇天
それから数日、明藍は太陽を拝めていなかった。
空を覆った雲は黒く分厚い。今にもこぼれ落ちそうなのに一向に雨は降らないどころか、流れることもせずにずっとそこで停滞しているように感じる。そのせいかなんだか気が滅入ってしまう。
「・・・ふぅ」
「今日も彼来ないんだね」
「ひゃあっ!」
驚きのあまり腰を抜かしたその場に尻餅をつく。
ちょうど置いていた桶に尻がぶつかり、痛みのあまり叫び声をあげそうになった。涙目で背後を振り返ると、追加の洗濯物を抱えた玉麗が居た。
「〜っ玉麗さん!」
「あはは、ごめんごめん」
玉麗に差し出された手を、明藍は素直に掴んだ。つきんと片足に痛みが走った気がするが、立ち上がってみればなんともなさそうだ。
「もう!驚きました!」
「だからごめんってばー」
形こそ謝罪しているものの全く誠意を感じられない。完璧な平謝りだ。
しかし、相手が玉麗ならすぐに許してしまう明藍である。
玉麗が持ってきた洗濯物を半分もらい、すでに干した洗濯物を寄せて隙間を作りながら手早く干していく。
ここに来たばかりの時は洗濯の仕方すらわからなかったのに、四月も経てば大抵のことはこなせるようになっていた。人間誰しもやらなければならない状況に陥れば、自ずとできるようになるものである。ただし、得意不得意はあるが。
干された大量の洗濯物を眺めつつ、今までにこんなに多かったことはあったかと考えていると、横から視線を感じた。
「・・・何かついてます?」
「いや、若いなぁと思って」
歳の話かと一瞬思ったが、玉麗の意味ありげな笑みを見てすぐに違うと確信する。
歳の話じゃなければ、技術が未熟ということだろうか。そんな家事歴十数年の玉麗からすれば、四月の明藍などひよっこもひよっこ、まだ孵化すらできていない段階だろう。
しかし、何か不手際があれば玉麗は必ず指摘してくる。自分で直した方が早いと思っていても、絶対に教えてくれる。そんな彼女が何も言ってこないのだから、それも違うのだろうか。
考えてもわからないのであればここは素直に聞いておくに限る。
「それはどういった意味なんでしょう?」
よくぞ聞いてくれましたとばかりに玉麗がふふふっと口元をさらに緩めた。
「最近元気ないけど、李さんが来ないからじゃないかなーって思ってさ」
「李さんですか?」
生憎、この国の家名はそんなに多くない。特に李なんて名前は大通りで石を投げれば誰か一人は当たるくらいありふれた名前だ。
小首を傾げると、また玉麗が口を緩める。手で隠しているようだが、緩すぎて全く隠れていない。
「もう、惚けちゃってさ!ほら、いつも来てた李隊長!あのやたら綺麗な顔したあんたと逢引してる武官だよ!」
「あっ、逢引なんてしてません!」
「でも泊まったんでしょ?え、まさか・・・藍藍!もっと自分を大切にしなきゃ駄目だろ!?」
何を想像したのか知らないが、逢引でもなければ、そういうことでもない。だいたい結婚してもいないのに体を許すなんてあり得ない、と思ったが、もしかしたらそれは明藍の常識であって、下町では違うのかもしれない。
なるほど、結婚を前提でなくても男女の仲になるのが普通であれば、あの夜のこともわからなくもない。いや、わからなくもないというだけで、積極的にとかそういうのではなく、やっぱり責任問題もあるし、当たり前のように用意してあったし・・・。あれ、当たり前ということは手慣れてるということか。そうであれば、他にもあったと考えていいのではないか。
あまり深く考えないようにしていたせいか、一旦考え出すと抑圧していた分溢れ出てくる。
実際に会えばきっと高明の行動に深い意味などなく、全て杞憂だとわかるのに─あの日、また明日と言われた。しかし、その明日はまだ来ていない。
酒楼に泊まった翌日に届いた文には、術式とは打って変わって几帳面な字を書く高明にしては珍しく乱雑だった。忙しさの中で、手早く書いてくれたのが伝わってきた。
そして、忙しさの大きな要因は消えた術師─明藍なのだから心苦しくもある。
実際、ずっと逃げ切れるとは思っていない。
本当は都を出るのが身を隠すには良かったのだが、都を抜ける際に感知される可能性が高く、断念した。言うまでもなくその術を作ったのは明藍である。ただし、数日寝らず変な高揚感の際に編み出したもので、自分でもどのように組み立てたのかよくわからなかった。
だから次の策として明藍は自分の顔を忘れる術をかけた。記憶に介入する魔術は禁止されているが、思い出そうとした際にだけ顔にもやがかかる仕組みなので大丈夫だと勝手に解釈している。
捕まればこんな小さなこと、誰も気に留めないだろうけど。
明藍が黙り込んでいると、玉麗が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「その・・・大丈夫かい?」
患者の中には玉麗のことを怖いと言う者も多いが、決してそんなことはない。確かに厳しめだし、下手すれば拳が飛んでくるけど、根は優しい笑顔の素敵な女人だ。
こんな優しい人に、なんて顔させてんだろう。
明藍は小さく頭を振ると、笑みを浮かべた。
「大丈夫です。高明さまとはただの知人ですし、この間も遅かったのでお気遣い頂いただけですよ」
高明とはただの知人。
それが飾り気もない真実である。
「・・・あの人も大変だね」
それは魔術に関しては峻厳だからだろうか。
しかし、玉麗は魔術に関してはてんで駄目だからと近寄ろうとすらしなかったので知らないと思うが。
「そう、ですか?」
よくわからないが、一応相槌は打っておいた。