九、約束
「わたしは兄弟で唯一妾腹の子なんです」
こんなこと話すつもりはなかったのに。
「お前のことが知りたい」などと見つめられれば、根負けしない方が難しい。
ただそれでも絆されやすくなっている気がする。今日はきっと今までになく大量の酒を飲んだせいだ、と明藍は無理矢理納得し、話を続けた。
明藍の母は妓女だった。
しかもそんじょそこらの貴族では手が出ない高級妓女。彼女に相手をしてもらいたければ、平民の一年以上の銀が必要とされた。
母は明藍を身篭ったが、身請けはされなかった。正しくは身請けを断った。男には長年連れ添った正妻がいた。母は妻がいる男の元に嫁ぐなどできないと。
しかし、彼女は産後の肥立ちが悪く、明藍を産んでから僅か五日後にこの世を去る。産みの母が居なくなった乳飲み子を持て余した妓楼が父に文を送ると、父は飛んできて明藍を引き取ったという。
明藍は正妻に育てられた。しかし、その正妻も明藍が二つの時に流行病で命を落とす。そしてやってきたのが、現在の正妻─継母であった。
継母は女子を産んだが、難産だったためそれ以上の子を望めなくなった。程なくして、継母は何を思ったか明藍と同じ名を、赤子に美蘭とつけた。
それからは何かと明藍と美蘭を比べては、明藍の至らなさを指摘し、挙げ句の果てには薄気味悪い娘はこの家には相応しくないと部屋に閉じ込めるようになった。
だから、明藍はいつも一人だった。でも寂しくはなかった。家には沢山の本があり、本は知らないことを教えてくれる。そんな時だった、明藍が魔術と出会ったのは。
「今でも顔を見せれば嫌な顔をされるので、しばらく実家には帰っていません」
本当は続きがまだあるが、これ以上踏み込んだことは素性を明らかにすることになる。
「まあ、わたしがいても居なくてもたいして変わらないですけどね」
継母とは反対に良くしてくれる父だが明藍を娘だと公表しないのは、何処かで線引きをされているからだろう。
明藍は血の繋がりはあれど、きっと家族としては認められていないのだ。今まで深く考えようとしてこなかっただけに、言葉にしてして初めて心の重しになっていることに気付かされる。
「生憎俺も妾腹だ」
いつの間にか握り締めていた拳を高明が解きほぐすように上から手を重ねる。
熱が目の奥から手の甲と頭へと移る。さっきから熱が色んなところに飛び移って忙しい。
これもきっと季節柄というやつなのだろう。これまでは篭りっきりだったので、季節というものを感じる機会が少なかったせいか耐性ができていない。
最近熱にやられたという患者が多かったが、このままでは明藍も二の舞になってしまうかもしれない。
「母が身罷ったのは俺が三つの時だった。そのせいか、母の記憶はほとんどない。とても美しい人だったと聞いている」
それはそうだろう。
一見荒々しく見えるが、実は繊細に作り込まれた人形のような顔をしている。もちろん父親に似た可能性はあるが、母君が美しかったというのは誰しもが納得の事実のはずだ。実際、男子は母に、女子は父に似やすい傾向にある。
「正妻には男子が生まれなかった。それ故・・・いや、彼女の性格だな。実子と分け隔てなく育ててもらった」
高明が遠くを見ながら口元が緩ませる。
せっかく顔がいいのだからもっと笑えばいいのにと思ったが、口には出せなかった。
きっと高明が今よりも幾分にこやかで近寄りやすい青年になれば女たちが放ってはおかないだろう。現に今でさえも、狙っている女性は多いのではないか。いや、その前に妻帯しているのかもしれない。
ここ一月ほぼ毎日顔を合わせていたが、高明のことを明藍はよく知らない。明藍も自分のことはなるべく話さないようにしていたのでお互い様ではあるが、それでも少し寂しく思ってしまう。
全く関係ないはずなのに。
明藍と高明は、金で雇われているとはいえ師と弟子のような関係だ。それ以上でもなければ、それ以下でもない。
頭ではわかっているのに、先ほどからぐるぐると嫌な感じが胸の中を蠢き、居なくなったと思えばまたふと顔を覗かせ、かき乱す。
たしか、こういう魔物がいたことを思い出す。人の心惑わせ、破滅させ、死ぬ間際の魂を喰らう知能の高い魔族だ。名前までは覚えていないが、書で見たときの印象は強かった。
初めて会った時のような沈黙が続く。でも、不思議とその沈黙が苦痛ではなかった。
「そういえば、今日何故あのような場所にいた」
「あのような?飯店のことですか?」
「そうだ・・・いや、聞きたいことはそうではない。何故うちの部下たちと一緒にいたのかということだ」
部下と高明から言われ、武官六人衆のことを思い出す。
そういえば高明との出会いのきっかけも部下である文成の見舞いに診療所を訪れたことだった。あれだけの量のご飯を奢ってもらっておいて今の今まで完全に記憶の隅に追いやってしまっていた。お礼も言えずに連れ出されたため、今度お礼の文を出さなければ。
「文成さまとは買い出しをしていた時に偶然出会いまして、お食事に誘われたのでご一緒させていただいたまでです」
「これが初めてか?」
「ええ、診療所を出られてからは初めてです」
「出てからだと?」
高明の眉間に小さくしわがよる。
「はい。診療所にいらっしゃる時はひとりで食べる飯はまずいとおっしゃられたので、わたしともう一人の助手も交えてご一緒することが多かったです」
診療所といっても、大抵が病で寝込んでいるものが多く、怪我で比較的元気な文成は暇を持て余していた。話し相手になれば、少しは退屈凌ぎになるかと思っての計らいだ。
ただ、何故食事を共にしていて明藍が大食らいであることを知らなかったのかと聞かれれば、手持ちの盆に乗らなかったので皆と同じ量をその時は食べていたからである。もちろん足りるわけもなく、戻ってからまた食べていた。決して意図して隠していたわけではない。
「・・・そうか」
高明は小さくつぶやくと、更にしわが深くなった眉間を押さえる。何かと葛藤しているような雰囲気に、明藍は黙って見守っていた。
「いつか暇な日はあるか?」
「暇、ですか?」
基本的に診療所に休みはないが、もとは円樹と玉麗の二人で回していたのだ。新入りの明藍はおまけみたいなものなので、休みを希望すれば休ませてもらえる。
「急に患者さまが増えない限りは、前もって言っていただければいつでもお休みはもらえます」
「良い職場だな。それでは近日中に」
「高明さま」
すっと何処からともなく姿を現した男に、話を遮られた高明は消えかかっていたしわを濃くする。
「なんだ」
「外壁で魔物が現れました。至急、ご移動願います」
「ちっ・・・藍藍」
「あっ、は、はい!」
立ち上がった高明に倣い、立ち上がろうとするがやんわりと肩を押される。
「すまない、急用が入った。この部屋は朝まで好きに使うといい。既に円樹殿には連絡をしてあるが、戻りたければ馬車を用意するが」
「お気遣い感謝します。せっかくなので泊まらせていただきます」
「そうか、それではまた明日」
そう言うと高明は明藍の髪を一房手に取り─名残惜しそうに指を滑らせ出て行った。
一人になった部屋は非常に静かである。
それはそうだ。何せここは酒楼の最上階。何度か家族で来たことのある明藍ですら、初めて足を踏み入れた場所だ。
自分で支払ったことはなくとも、どれくらいの銀が必要かくらいはわかっている。失礼だが、一介の武官が支払える額ではない。一体彼は何者なのだろうか。
部屋を仕切っている障子をあけると、大人が数人は寝られる立派な寝台があった。明藍はしばらく固まったのち、服を脱ぎ、下着だけになると布団に潜り込んだ。
汗をかいていたが、頭は破裂寸前で、風呂に入る余裕はない。明日の朝に入れば問題はないだろう。
そういえば高明は自然に朝までと言っていた。一体彼は何をするつもりだったのか。本人がいない今、聞くこともできないし、多分居たとしても絶対に聞けない。
いくら疎い明藍でも、その可能性くらいは知っている。
ただ─いや、そんなことはない。
少し冷静になって考えれば、高明のような容姿も金もあるような男が薄気味悪い女をわざわざ選ぶようなことはない。
むしろ選ぶってなんだ?
またよくわからない感情がぐるぐると胸の中を蠢く。もしかしたらこれは寄生虫に感染しているのかもしれない。帰ったら円樹に診てもらおう。
明藍は頭に浮かんだ可能性を打ち消すかのように、きつく目を閉じた。