零、喜鵲
見上げればどこまでも続く青い空。季節を感じさせる霞かがった雲と共に気持ち良さげに鳥たちが風にのって飛んでいく。
私も─飛びたいな。
そんな口にしてしまえば何を馬鹿なと鼻で笑われるか、不思議な子だと距離を置かれるかもしれないようなことを考えていると、くんっと体を引っ張られる感覚に自然と視線を後ろに向けた次の瞬間、
「ッ!」
顔に受けた衝撃に固く目を瞑る。顔に張りついた髪を払うことなく、袖で顔を拭った。顔を上げずともこんなことするのは誰だかわかっている。だから上げなくていいのに、何故だか顔を上げてしまう。
そこにはよく見知った顔があった。頭の中に浮かんでいたものと寸分変わらぬその表情に、思わず口元が緩んでしまう。しかし、それがいけなかった。緩やかに弧を描いていた口は引き攣り、ただでさえ意地の悪く吊り上がっていた眦が角度を増す。その表情があまりにも醜く、滑稽で、そうすべきではないと頭ではわかっているのに、さらに顔が緩んでいく。
「何がおかしいのだ!」
激昂した男が掴みかかってくる。目と鼻の先にある三白眼が血走っている。身を引こうとしたが、胸ぐらを掴まれているので距離を取ることができない。身を捩って離れようとする姿を見て、他の男たちが嬉しそうに声をあげる。一頻り笑うと、その中の一人、その集団で明らかに上位に立つ男が近づいてきた。胸倉を掴んでいた男が手を離すと同時に強く押され、尻餅をついた。じんわりと尻が濡れる感覚の気持ち悪さに身震いする。被害を最小限にすべく、急いで体を起こそうとしたが、それはすぐ阻まれた。伸びてきた手に顎を持ち上げられる。
「そろそろ辞めたらどうだ?お前の居場所などないことなどわかっているだろ」
目の前にいる世間一般で言えば整った顔に笑みを貼りつけた男が、気持ち悪いほど甘ったるい声で囁く。震えた。もちろん恐怖ではない。いくら水浸しとはいえ、燦々と惜しみなく照らしてくれる太陽の下、寒気がするほど気温は低くはない。むしろこの季節にしては暑く、汗ばんでいたため手拭いで清めようかと思っていたくらいなので、水をかけられたことは然程気にしていない。むしろそんなことを気にしていたら、すぐに精神を病んでしまう。
なんと答えようともどうせ悪意を含んだ言葉しか返ってこないのは目に見えている。だから普段なら無視を決め込むのだが、今日はそうではなかった。
何故と問われれば難しいが、ふと視界の隅に写った喜鵲が飛び立った。それが何故だろう、喉から手が出るほど羨ましかった。
「わたくしが辞せば、自分が成り代われるとお思いなのでしょうか?」
そんなつもりはなかったのに、驚くほどはっきりと口に出していた。
まさか反論が来るなど思っていなかったのか、男たちはしばし固まったのち、やっと何が起こったのか理解する。
「貴様!一体何様のつもり」
「待て」
「し、しかし」
「待てと言ったのが聞こえなかったのか?」
ひゅっと空気を呑む音がした。掴みかかってきていた三白眼の男の顔色が見るからに悪くなる。しかし、その元凶となった男は全く気にかける素振りすら見せずに、じっと見つめてくるばかりだ。この時、初めて男の瞳が淡い茶なのだと知る。知ったところでなんの得にもならないが。
ふいに男の手が頬に伸びてきた。ひんやりと冷えた頬に触れる生暖かい掌が気持ち悪い。
「成り代わる、とな?」
「ええ」
間髪入れずに頷くと取り巻きの男たちから失笑が漏れたが、目の前の男は一瞬鼻を鳴らしたかと思うと、すっと表情を消した。頬に添えられていた掌がすべり、首にかけられる。これはまずいと思ったが、時すでに遅し。
「くっ」
「なぜお前程度の術師が、と俺たちは常々疑問を抱いていた」
「っに、を」
抵抗しようとしてももう片方の手で肩を押さえられ、上手く逃げ出すことができない。同性であればまだ勝機があったかもしれないが、相手は男である。しかも自分よりも一回り以上体格がいい。
息が苦しい。視界がぼやけてくる。はくはくと空気を求めて口を動かすが、男は力を緩めるどころか更に力を込めてくる。このままでは本当に殺されてしまうと頭ではわかっているが、あと一歩のところで理性が邪魔をする。
『殺されるくらいなら殺してしまえばいい』
『このまま生きていてもいいことなんてない』
『規則は絶対だ。破ってはならない』
『殺せ、今までこいつらにどんな目に遭わされた』
『我慢すればいい。あと少しの辛抱だ』
様々な感情がぐるぐると頭を巡り、消えてはまた駆け巡る。
「─ッ!」
追い打ちをかけるように両手で力を込められる。
視界が霞み、思考が鈍くなる。なぜこんな状況に陥っているのかさえももうわからない。
意識が落ちる─その直前で男は両手を離した。力の入らぬ体がそのまま地面に叩きつけられる。
「俺は今、結論を出した」
照りつける太陽の下、ついこの間の季節を感じさせる酷く冷たい声音が響く。それはまるで死刑宣告のように。
「お前が重宝される理由はお前が女だからではないか、と。女にはできて男にはできないこと、それは神に身を捧げることだ」
辛うじて言葉を聞き取れたが、その意味を考える余裕はなかった。胸いっぱいに息を吸い込みなんとか呼吸を整えていると、男の合図で取り巻きたちが近づいてきた。たくさんの手が伸びてきて、まだ力の入らぬ体を押さえつけられる。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!
触れる手が、息遣いが、視線が。向けられる全てを全身が拒絶している。いくら疎いとはいえ、男たちが何をしようとしているのかくらい安易に想像できた。
神に身を捧げる者─つまり巫女からその神秘性を奪うに一番手っ取り早い方法は穢れを与えれば良い。
「こんな事をしてっ、何になるというのです!」
「何になるかなど知ったことか。ただ、お前が上級術師殿たちに贔屓にされることはなくなるのではないか?」
「贔屓など!」
「では、何故見習いである身のお前が下級術師である我等すら禁じられし場所に許可されているのだ?」
「それ、はっ」
言葉を紡ぎかけ、すぐに口を閉ざす。
本当のことなど言えるわけがなかった。こればかりは言ってはならぬと口酸っぱく言われている。だが、何か言わなければ。沈黙はすなわち肯定とみなされてしまう。うまい言い訳を探すが何も出てこず、口をはくはくと動かすことしかできない。
その様子に、男が大きくこれ見よがしにため息を漏らした。
「お前から直接聞かずとも、結果が教えてくれよう・・・やれ」
男の言葉を皮切りに、それまで『待て』をしていた男たちが一斉に動き始めた。一人が馬乗りになり、襟に手をかける。先ほどまでのじっとりとした汗とは異なる汗がぶわっと背中から吹き出す。
ふと、視線を感じた。そちらに顔を向けると、二、三人の中級術師の姿を確認できる。しかもそのうちの一人とばっちり視線が噛み合う。
助かった。
この状況から脱出できると安堵したのも束の間、綻びかけた顔はすぐに表情を失うことになる。
中級術師は何事もなかったかのように通り過ぎて行った。彼らの行動を理解した時、ここまで辛うじて保っていた心が音を立てて折れたのがわかった。いや、折れたというよりも失ったと言ったほうが正しい。
何故、こんな奴らを自分は守らなければならないのだろう。どうして、自分がこんな目に遭わなければならないのか。
怒りを通り越して、気力が失せてしまった。残ったのは─ 寂寥感だけだ。
力なく落とした瞼を開くと同時にごうっと風が吹き上げた。周りを取り囲んでいた男たちが宙に舞う。自由になった体を起こし、乱れた衣服と髪を手櫛で整える。
「詠唱、なし、だと・・・!?」
声がした方を見遣ると、先ほどまで指示を出していた男が理解できないといった様子で目を見開き、戦慄いていた。
詠唱なしが今更なんだと言うのだ。そんなこと当たり前なのに。
すっと小さく指を動かせば、男は尻餅をつき顔を引きつらせながら後退る。まだ何もしていないのに、そんな化け物を見たかのような目を向けられるのは心外だ。
「何事だ!」
騒ぎを聞きつけて人が集まってきた。
普段だったら、ここで大人しく事情を説明して事なきを得るのだろう。しかし、今日は違った。はっきり言おう。誰も助けてくれないのに、何故自分が頑張らなければならないのか。小さな種はいつのまにか大きくなっており、つい先ほど芽吹いてしまった。心の中で疑問が生じた。たちの悪いことに、それは一度生じてしまえば、易々と封じ込められるものではない。
自由になりたい。あの喜鵲のように。
護るべきものは、もうわからなくなっていた。生憎不信感と不満を抱いたままわからないものを護り続けるほどお人好しではない。だから、もう、自由になろう。
それは本当に一瞬の出来事だったと、後に厳しい事情聴取を受けた男たちは口を揃えて言った。
札をつかうことも、陣を書くことも、詠唱することもなく、彼女は姿を忽然と消したのだと。
話を聞いた上級術師は頭を抱えた。
消えた『彼女』とは春明藍。見習い術師の身でありながら王都の結界を一身に背負う稀代の天才術師である。