世界一短い恋人関係
高校生になって、味気ない日々が続いた。まるで味が薄くなったガムをずっと噛み続けているかのようなつまらない日々。
その原因は、愛実の喪失にあると思う。高校にかわいい子がいないわけではないが、どうしても、俺は彼女たちを好きになれなかった。
愛実と会えなくなって、初めて彼女が俺にとって大切な人だということを理解した。俺の心の一部がぽっかりと空いてしまっている。そこを埋めてくれるのは、愛実しかいない。
ぼくは意を決して、愛実に会う約束をしようと思った。
ちょうど、週末の日曜日に河川敷で花火大会があるので、いっしょに行こうとLINEで誘った。返事が来るまで、俺の心臓は狂ったように早鐘を打っていた。
『うん。ちょうど予定も空いているし、いいよ!』
その返事をもらったときは昇天するくらい嬉しかった。
花火大会当日、愛実は浴衣姿で来た。鮮やかな赤い菊の花を張った浅葱色の浴衣を纏った彼女は、中学の卒業式のときに比べて、かなり大人びた雰囲気を醸し出していた。
「どう?」
「すごく似合ってるよ」
どうせなら、俺も浴衣で来ればよかったと後悔した。黒いバンドTシャツにジーパンという簡素な服装の俺といっしょに歩く愛実が可哀そうに思えた。
「ごめんな」と謝るが、彼女は「何が?」と言うきりだった。
屋台でかき氷を食べたり、じゃがバターを食べてみたりして、また、そこそこ名の知れる芸人が漫才をしていたのでそれを見て行き、それから、俺たちは花火がよく見える場所に行った。
胸の底を揺るがすほどの轟音とともに、夜空を彩る幻想的な花火が開く。
まるで夢のように美しく、はかない花火だった。
隣で花火に見入っている愛実を一瞥した。
俺はキスをしようと思った。しかし、できなかった。してはいけない気がした。俺と愛実はただの幼馴染で、これから別々の道を歩いていくのだ。愛実は俺ではないほかの誰かと付き合うことになって、俺は愛実ではない誰かと付き合うことになる。愛実がこんなに近くにいるのに、なぜかとても遠くにいるように感じているのが、なによりも証拠だ。
「佳太。せっかくだから、あれ言おうよ」
「あれ?」
「たまやだよ」
「ああ」
星がひゅるひゅると夜空に打ちあがる。
そして――
「「たーまーやー!!」」
ちょうど、その花火のかたちがハートマークで、何だか俺は気恥ずかしさを感じた。愛実の方を見てみると、彼女も同じように思っているのだろうか、顔が紅潮していた。いや、顔が花火の赤い光に照らされただけかもしれない。
「ねえ、佳太」
「うん?」
「これから、暇?」
「まあ」
「だったらさ、このあと、ゆっくりしていかない?」
そう言われて、俺はドキッとした。
馬鹿な俺の頭の中には、回転式のベッドが部屋の真ん中に鎮座するホテルの部屋を思い浮かべていた。
愛実が「ゆっくりしていかない?」と言ったのは、「ゆっくりと話をしながら帰らない?」といった意味だった。
花火大会が終え、たくさんの人たちが帰路についている。その中で、俺と愛実は人混みから避けるように、狭路に進み、そして、当てもなくぶらぶらと歩いていた。その途中で、年季の入った神社を見つけ、鳥居の近くにベンチがあったので、そこに座ることにした。
「私さ、佳太に言わなきゃいけないことがあるんだ」
重々しく、愛実はそう言った。
「え?」
彼氏ができたとか? と茶化そうと思ったが、そんな心の余裕はなかった。
「私、アイドルになりたいの」
想定もしていなかった言葉に俺は何と声をかけたらいいかわからなかった。
「私ね、昔からアイドルに憧れてての。A〇Bとか乃×坂とか、星みたいにキラキラしながら歌って、踊って……」
「……愛実がアイドルが好きだったなんて初めて知った」
「まあね。何て言うか、私ってそういうキャラじゃないじゃん」
「確かに」
そう言うと、愛実はドングリを口に含んだリスみたいに頬を膨らませていた。じゃあ、どう言えと。
「オーディションがね、もうすぐあるの。『EVER MORE』っていうグループ名でね、定員は十人。それに対して、応募者数は10万人……すごい数だよね」
「愛実なら余裕だよ」
「え?」
「愛実なら必ず合格する」
愛実は俺の顔をじっと見つめていた。
「合格したいんだろ?」
俺は愛実の可憐な瞳で見つめられるのが何だか恥ずかしくなり、すっと視線をずらした。
「うん」
「じゃあ、合格するよ」
「意味わかんない」
愛実はそう言いながらも、笑っていた。
だが、彼女はすぐ弛緩した頬を引き締めた。
「ここからが問題なの。EVER MOREってさ、恋愛禁止なの。それはね、オーディション中も適応されて、もし彼氏がいることが発覚すると、不合格になっちゃうの」
「ふうん。愛実、今、彼氏いるの?」
「今はいない」
「今『は』?」
「うん。でも、もうすぐできる」
「え? 何言ってるんだよ。彼氏をつくったら、ダメなんだろ?」
愛実は俺の言を無視して、立ち上がった。そして、鳥居にもたれた。
「あのさ」
愛実の声は震えていた。
「大好き」
愛実は俺の目をはっきりと見ながら、そう呟いた。
「え?」
「佳太のことが大好きなんだよ!」
愛実は叫んだ。
「ずっとずっと、好きだった。小三くらいのときから、ずっと。でも、幼馴染の関係を壊したくなくて、ずっと『好き』だって言えなかった。中二のとき、突然、佳太は私を避けるようになった。嫌われたんだって思った。とても寂しかったし、つらかった……」
「違う、あのときは」
「わかってる。ほかの男子の目線を避けるためでしょ? 佳太は臆病だからさ」
「……」
「卒業式の日、久々に話したよね。そして、佳太は私に『す』とまで言いかけてたよね。今もはっきり覚えてるよ。その続きが聞きたい」
「おかしいよ……」
「え?」
「だったら、どうして、先に『大好き』なんて言うのさ!」
俺が、先に言うべきだった……。卒業式の日、愛実は期待していたじゃないか、俺が「好き」だと言うことを!
「そうだよね。私、おかしいよね。でもね、ずっと言いたかったからさ、『大好き』って」
この上ない笑顔で、愛実はそう言った。
「先走っちゃったね……」
「俺も」俺は立ち上がった。そして、愛実に近づく。
「俺も、好……大好きだ!」
愛実は笑った。
「ありがとう」
興奮していたため忘れかけていたが、愛実がアイドルを目指している以上、恋愛は禁止になってしまうことを思い出した。知らないうちに、はっとした顔をしたのだろう、愛実は俺の顔を見て、
「今日が終わるまで、佳太は私の恋人だよ。でも、今日が終われば、恋人じゃなくなる」
と言った。
「……」
「あと、三時間だけだね。ねえ、今から彼氏っぽいことやってみてよ」
「え?」
「ねえ、早く」
いたずらっこのような面持ちで、愛実は言った。
「じゃ、じゃあ」と、俺は愛実の手を繋ぐ。
「そんなんじゃだめ! もっと!」
「もっと?」
俺は当惑気味に、愛実の顔を見つめた。そして、彼女の薄桃色の唇に自分の唇を近づける。そして、キスをした。ほんのりと甘い味がした。
「愛実……」
俺は愛実を抱いた。それほど大きくもなく、たくましくもない身体で、彼女を包み込もうとした。体温が伝わってくる。彼女の優しい温もりが俺の中に入っていくようだった。
「佳太……」
夏の暑さなんて関係なかった。汗をかこうが、知ったことじゃない。
三時間……それが俺たちに与えられた恋人でいられる時間。その間に俺と愛実は愛を確かめ合う必要があった、愛を送ったり、受け取ったりする必要があった。そのために、俺たちは長い抱擁を交わしている。
それから、今日という日が終わるまで、俺と愛実は思い出話に花を咲かせた。
そうしているうちに、〇時になった。
「じゃあね、佳太」
「うん。愛実」
「私、頑張るね」
その顔には向日葵のような希望の色があった。
俺と愛実は別れた。
たった三時間だけの恋人関係……おそらく世界一短い恋人関係だったかもしれない。
愛実は小さく手を振った。俺は彼女をもう一度、抱こうとしたがやめた。
愛実の背中が小さくなっていく。闇に溶けていく。
「さよなら」
ぼくはそう呟いた。