その5
翌日はちょうど雨が降っていた。都合がいい。決行はお昼休みにした。学校中から生徒が教室へ引き上げたのを見計らって、傘立てから多田の傘を取り出した。
中庭の植木の中に押し込む。
多田は、放課後も降り続く雨を前に途方に暮れるだろう。そこで僕が登場だ。
『職員室で傘を貸してもらえるんだ。頼んできてやるよ』
僕はできるだけ時間を稼ぎ、生徒が掃けるのを待つ。そこで鳥羽さんが下駄箱にやってきて、困っている多田を見つける流れだ。僕を待っているから、多田が他人から傘を借りることもない。
鳥羽さんにメールで報告する。
『準備は完了した』
仕事を終えた僕の前に誰かが立った。僕は植木の影から飛び上がりそうになった。がたいのいい色黒の先生が腕組をしている
授業開始のチャイムが鳴った。僕は一歩も動くことができない。
「傘を戻してこい」
僕は先生に監視されながら傘を戻した。
放課後に職員室に来るように命じられ、案内されたのは狭い部屋だった。窒息するような沈黙。
鳥羽さんにはすでに異常を知らせてあった。
『すまない、今日は中止しよう。失敗した』
『……何が起こっているの?』
担任の高山先生が部屋に入ってきた。きりりとした顔つきに銀縁の眼鏡。教職についてまだ数年らしく、堅苦しい年配の先生と違って話しやすい感じがする。
高山先生は、生徒指導の先生を見送ってドアを閉めた。
「なんでこんな馬鹿なことしたんだ」
「仕返しのつもりでした。前に多田に同じことされて、僕は雨の中走って帰ったことがあったんです」
僕は沈痛な気持ちで言った。
「いつの話だ」
「小学生のときですけど」
「時効だろそんなもん。笑ってんじゃないかお前」
高山先生苦々しい表情を浮かべた。
「俺もそういう馬鹿なことは何度もやったよ。お前らの遊びに介入したいわけじゃない。ただ、こういうのは見過ごせない時があるんだ。わかるだろ」
僕は頷いた。
「人の迷惑にならなければ何やってもいいが、せめて見つからないようにやりな」
「もうやらないと思います」
「関わってたのは、多田と三木だけで間違いないな」
「間違いありません」
「で、なんでこんなことしたんだ?」
「だから、仕返しだって……」
「お前、傘を隠した後誰かに連絡してただろ。三人目の存在に言及しないとは迂闊だな」
やられた、と思った。
「時間を、確認してたんです。昼休みぎりぎりだったので」
僕はそれきり黙った。理不尽な要求をしているのは明らかに僕だったけれど、先に折れたのは高山先生だった。
「まあいいさ。お前と多田がどんなやつは知ってる」
高山先生は立ち上がって扉を開けた。
「まあ、これは人生の教訓だが、話しにくいことほど早めに話せよ。そっちのほうが、傷は浅くて済むからな」
部屋から出る途中、職員室中からちくちくと痛い視線を受けた。自業自得だから文句も言えない。職員室を出た時の僕は自責の念でぐったりしていた。
たた、と階段を駆けおりる音。顔を上げる。僕の目線の高さに、鳥羽さんの顔があった。図書室に続く階段は職員室前にある。鳥羽さんは僕を待っていたようだ。
階段の三段目に立ったまま鳥羽さんは口を開いた。
「……何やったの」
「後で説明するよ」
鳥羽さんには下駄箱で待っていてくれるよう伝えた。
教室の鞄を回収する。誰かに取られることなんてあるわけない。昇降口へ向かう途中、廊下の窓から見える空は厚い雲に覆われ、ガラスには無数の雨粒が打ち付けて、大きな塊になって流れ落ちている。
絶好の相合傘日和だった。
昇降口に近づいたところで、話し声が聞こえた。
「ずっと返せなくて困ってたんだ」
多田だったの声だ。僕は下駄箱の後ろに身を隠しながら、そっと声の主に近づいた。
「傘は見つからないの?」
返事をしたのは鳥羽さんだ。それに続いて、ガサガサと傘立てを揺らす音。
「誰かが持って行ったのかもな。朝、雨降ってなかったしなあ」
「あのさ」
鳥羽さんの声が裏返っていた。この距離でも緊張が伝わってくる。僕まで変な汗をかきそうだ。
「よかったら、駅まで、一緒に行こうか。傘、一本しかないけど、三人くらいは入れる大きさだし」
「悪いだろ、そんなの」
「この前、助けてくれたお礼をしないといけないし」
多田ははっとした、のだと思う。下駄箱が邪魔で、二人の表情を見ることができない。あっ、と短い叫び声。
「自転車」
多田の声が昇降口に響く。
「同じ学校ってすぐわかったんだけど、なかなか声がかけられなくて」
「私服と制服じゃ別人に見えたよ」
沈黙。
「誰か待ってたんじゃないのか?」
「うん、教室に荷物を取りに行くって。なかなか来ないな」
僕が下駄箱から顔を出すと、多田と鳥羽さんは同時に僕を振り返った。
「待ったよ、遅かったね」
「図書委員の当番だったんだ」
僕の声は言い訳めいていた。多田はにっと笑った。
「傘をパクられたんだ」
多田は傘立てを手で示した。僕も探してみる。僕が中庭に隠し、もう一度傘立てに戻したあの傘はなくなっていた。
どこかの不届き物が、他人の傘をさして帰ったらしい。
「俺も誰かのを取っていこうか悩んでたところだ。駅まででいい。入れてくれよ。走って帰るにはキツい土砂降りだ」
「僕の傘は滅茶苦茶小さいんだ。二人は入れないぞ」
僕は鳥羽さんに合図を送ってみる。鳥羽さんは助けを求めるように左右を見回すけれど、何が出てくるわけもない。
鳥羽さんは一歩踏み出した。
「私の、かなり大きいから、交換しようよ」
鳥羽さんは僕の傘を奪って、自分のを押し付けてきた。
彼女はいざというときに意気地なしだった。
「三人は入れる大きさらしいぞ」
「駅で返してくれればいいから」
僕と多田は大きな傘に二人で入り、鳥羽さんは僕の小さな傘に一人で収まった。できの悪いコメディみたいな結末だ。
「最低な奴がいるもんだな。人の傘を取っていくなんて」
僕の代わりを務めた最低な野郎に、感謝したいようなしたくないような微妙な気分だった。




