その3
職員室から顔を覗かせた先生が、早く帰れと僕らを促した。僕らは足早にその場を去った。
「三木くんと知り合えたのは運が良かった。多田くんと仲いいよね」
とんとん、とつま先を地面につけて靴を履く。彼女の屈託のない笑みは、それだけで僕を幸福な気分にした。
最寄り駅までの一本道を歩く。話題が多田でなければ完璧だったのに。
「僕は何すればいいんだ」
「情報提供とリサーチ」
僕を振り返った拍子に、肩にかけた鞄が揺れる。冒険者を思わせる挑戦的な目が僕を向く。
「多田くんの好きなものって何」
「複雑な構造物」
彼女は何度も頷いた。
「多田くんは、エジソンの伝記を何度も読み返した人なのかな」
その通りだ。多田の家にはエジソンの伝記はあった。擦り切れてぼろぼろだった。
「面白かったよ。学校を放り出されるところとか、電車で火事を起こすところとか面白いよね」
「僕は読んだことないけど」
多田の話題になった鳥羽さんは饒舌だった。たくさん話してくれるのは僕としては嬉しい限りだけれど、多田の話題は一方で僕の希望をひとかけらずつ奪っていくようだ。
「それだけ?」
鳥羽さんは熱心だ。ノートを取り出してメモの準備でも始めそうだ。僕が頷くと、鳥羽さんは明らかに落胆していた。が、すぐに顔を上げた。
「後、もうひとつお願い。多田くんにハンカチのことを思い出させてほしい」
僕は首を傾げた。説明しようとした鳥羽さんはちょっとだけ口をつぐんだ。が、その理由もすぐわかった。
話はこうだ。
ある日鳥羽さんは市の図書館に行った。その帰りに自転車のチェーンが外れてしまったという。困っていたところを、通りかかりの男が助けてくれたらしい。男は手早くチェーンを直した。その時、男の手は黒い油で汚れてしまった。
鳥羽さんはハンカチを差し出した。無地で灰色のハンカチ。
「今後返すよ」
男はそういったけれど、以来男と会う機会は訪れていない。。
ハンカチは高いものではないから、返してもらわなくても構わない。けれど、彼が自転車をいじる熱心な表情と、困っているところを助けてくれた優しさは鳥羽さんの脳裏に焼き付いて離れてくれなかったらしい。男の年齢のは鳥羽さんと同じくらいに見えたという。
後になってその男が、同級生だと気づいた。
「びっくりしたよ。自転車直してくれた人が購買でパン買っててさ」
しかし、多田のほうはというと鳥羽さんに気づいていないらしい。
「自分でお礼を言えばいいんじゃないか」
「だって、その、忘れられてたら、その後どうしていいかわからないし……」
僕の任務は、多田に鳥羽さんと自転車とハンカチのことを、自然に(と鳥羽さんは強調した)思い出させることだった。
浅はかな謀略だったけど、ちょっと面白そうと僕は思っていた。




