サミュエルとシオファニア
メイジーの娘であるシオファニアと、ガドフリーの孫であるサミュエルの話です。
サミュエルには忘れられない思い出がある。
元騎士の祖父と共に北の山に住む魔女へ会いに行ったとき、そこで一人の少女と出会った。
魔女である母親によく似たふわふわとした柔らかな蜂蜜色の髪に、健康的に焼けた肌をした、快活そうな雰囲気の彼女は名をシオファニアと言った。
彼女はサミュエルの手を引いて山の中を案内してくれた。
王都で物静かな令嬢ばかりを見てきたサミュエルは、躊躇なく自分の手を握り、飾らない笑顔を向けてくれる彼女に胸が破裂しそうなほどドキドキした。
その彼女がいっそう明るい笑顔と共に――手のひらより大きなカエルを見せてきたときには、本当に破裂したかと思うくらい驚いて悲鳴を上げてドキドキすることとなった。
そのときのドキドキした感情は、なぜか恋心としてサミュエルに刻まれた。
遠く離れた山で出会った、初恋だった。
そんなドキドキしながら遊んだ日はあっという間に過ぎ、三日後には帰る日となってしまった。
王都までの帰り道は行きと同様に長く遠い。
北の山も冬支度で忙しくなる。
別れの日、サミュエルにシオファニアが小さな布袋を差し出した。
「お母さんに教えて貰って私が作った匂い袋。山に咲くお花が入ってるのよ」
「これ、俺に……?」
「うん」
サミュエルの手をぎゅっと握りながら渡された布袋からは、優しい花の香りがした。
「また遊びに来てね」
そんな言葉と共に向けられた笑顔に、サミュエルは大きく頷いた。
帰り道、遠ざかっていく山を何度も振り返りながら、サミュエルは寂しくてこみ上げそうになる涙を必死でこらえた。
側にいた祖父は孫の様子に気づきながらも、それを指摘することはなかった。
「北の山は離れがたいのう。あそこには不思議な力があるのじゃ」
祖父のその言葉をサミュエルは黙って聞いていた。
不思議な力。
それは魔女の力なのだろうか。
ポケットに手を入れると、貰った匂い袋から花の香りがした。
王都に戻ったサミュエルは、毎日匂い袋を眺めてはその頬を緩ませた。
匂い袋は次第に香りが薄くなってしまったが、次の年の夏にまた北の山へ行くのが楽しみだった。
しかし、そんなサミュエルの浮足立つ心はばっさりと崩されてしまう。
「何を言ってるの。おじいちゃんに旅はもう無理よ」
若い頃は猛将と名高かったサミュエルの祖父だったが、年齢と共に体が衰えることは避けきれず、去年北の山から帰ってきて以来、ベッドで寝て過ごすことが増えた。
サミュエルもそんな祖父に北の山へ行こうとは言えなかった。
貰った匂い袋はもうその香りがなくなってしまい、あの雄大で眩しい北の山の思い出も、この王都の目まぐるしい日々が積み重なって、記憶の中から遠ざかってしまっている。
けれど、別れの日に交わした約束だけは、サミュエルにとって決して忘れることはできなかった。
――また遊びに来てね。
あの笑顔にもう一度会いたかった。
一年前の帰り道には必死でこらえていた涙が、会えないのだと思うと止めることができず声を上げて泣いてしまった。
普段は口数も少なく聞き分けの良い息子が泣くほど行きたがったことに両親は驚いたが、往復で一か月もかかる行程なのでそんなに長く仕事を休めない。
そもそも、サミュエルの父は騎士にならなかったので北の山への行き方を知らなかった。
泣く息子にサミュエルの父は言った。
「そんなに行きたいのならば、北の山へ行く騎士に同行したいと頼んでみろ。ただし、迷惑にならないよう自分で自分のことをできて、騎士の了承を得られればの話だ」
その案を聞いたサミュエルは涙を止めた。
その日から、サミュエルは必死に体力をつけ、野宿の仕方から怪我の手当てまで一通りのことを身に着け、翌年に北の山へ行く騎士が感心するほどの成長を遂げて同行を許された。
そして出発が近くなったある日、祖父に呼ばれた。
「北の山の魔女へ、バラの砂糖漬けを持って行っておくれ。あの子との約束なんじゃ」
その頃には祖父は起きている時間が少なくなったが、常よりはっきりとした口調で孫に託した。
サミュエルから見て北の魔女は、母よりは若いが大人の女性という記憶だったが、祖父の語り口はまるで小さな子を思うようだった。
現役の頃は毎年、北の山へ行く役目を担っていたというから、祖父から見れば小さな孫娘のような存在なのかもしれない。
サミュエルは祖父の言葉を胸に刻み、二年ぶりに北の山へと向かった。
そうして、ようやく北の山を再訪することのできたサミュエルだったが、その高揚する思いは着くや否や早々に打ち砕かれた。
「――誰?」
シオファニアはすっかりサミュエルのことを忘れてしまっていた。
サミュエルはショックのあまりその場で固まってしまい、遠路を共にした屈強な騎士やシオファニアの両親から必死に励まされた。
その間、シオファニアは彼女の弟のアレンと一緒に野兎を追いかけてどこかへ行ってしまっていた。
サミュエルは泣きそうになるのを何とか堪えて、旅のあいだ肌身離さず持っていた鞄を探り、中から取りだしたものを北の魔女へと渡した。
「あの。これ、じい……祖父から魔女様にです」
「まあ、バラの砂糖漬けね。ありがとう、これ大好きなの」
サミュエルが大事に持って来たバラの砂糖漬けの瓶を手渡すと、北の魔女は花が綻ぶように笑った。
その笑顔を見て、サミュエルは祖父の言っていた約束の大切さを分かった気がした。
「ああ、ガドフリー様からのバラの砂糖漬けか」
「ええ。特別なケーキを焼いて、みんなで分けましょうね」
「それは楽しみだ」
仲睦まじい魔女夫婦の語らいに、サミュエルは少しこそばゆくなってそっと離れた。
共に来た騎士は持って来た献上品を下ろし、それから家の修繕をするべく資材を用意している。
これは北の山へ行く騎士に託された重要な任なので、サミュエルは手伝えない。
手持ちぶさたとなってしまい、家の周りを歩いて回ってみた。
二年ぶりの再訪だったが、北の山は変わらず雄大で全てが眩く、五感があの日に戻るようだった。
新緑の木々を見上げれば、合間から見える空は青く澄んでいて、世界はこんなにも鮮やかだっただろうかと思えた。
爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだとき――。
「何してるの?」
横から聞こえてきた声に、サミュエルは思わず息が止まりそうになった。
驚いて隣を見れば、いつの間に戻ってきたのかシオファニアが覗き込んでいて、間近で目が合ってサミュエルは心臓まで止まりそうになった。
「きゅ、急に現れるなよ!」
「ぼーっと空を見上げているから気づかなかっただけじゃない」
まだ鼓動が落ち着かなくて思わず大声を上げるサミュエルに、シオファニアはけろりとしたままその手を取った。
「ねぇ、兎の赤ちゃん見せてあげる!」
「っ見ない! またそう言ってカエルを見せて驚かせるつもりだろう!」
「カエルに驚くの?」
「っ……!!」
シオファニアの純粋に疑問そうな言葉に、サミュエルは手を引かれながら顔を真っ赤にした。
その日はカエルを見せられることはなかったけれど、活発なシオファニアに山中連れ回されて、サミュエルはふらふらになった。
長い旅路のために鍛えて体力もつけたはずなのに、遊んだ後も家の手伝いをしているシオファニアには敵わない。
それでも、翌日はシオファニアに負けないとばかりに朝早くから起きて、昨日同様に山中を駆け回っては、珍しい草花や様々な動物昆虫たちを見つけ、王都では経験できない遊びに夢中になった。
山の中で見る夕焼けは、鮮やかで眩しく美しかった。
けれども、別れの日はすぐにやってくる。
三日目の朝、同行を許可してくれた騎士の「来年も来ような」という言葉を聞きながら、帰路の支度をした。
魔女の夫婦も別れを悲しみ、帰路で食べられるように果実の入った焼き菓子をお土産に持たせてくれて、幼い息子のアレンもこの三日間で懐いてくれた。
けれどシオファニアは平然としていて、それがやっぱり悔しくて、泣きそうになるのを必死に我慢した。
「じゃあな……」
俯いたまま小さな声で別れを告げる。
そんなサミュエルの目の前に、何かが差し出された。
「これ上げる」
シオファニアから渡されたのは、小さな布袋だった。
思わずサミュエルが顔を上げると、シオファニアの笑顔があった。
「匂い袋。山のことを思い出してね」
二年前に貰った匂い袋はもう香りがなくなってしまっていたから、サミュエルは新しい匂い袋を手にして、先ほどまでとは違う涙がこみ上げそうになった。
その涙を必死に堪えながらシオファニアの方を向いた。
「お、お礼に今度来るときは何か持ってきてやるよ! 何が欲しいんだっ?」
貰った匂い袋を大事に鞄へ仕舞いながら、シオファニアに尋ねる。
するとシオファニアはしばらく考えたあと無邪気に笑った。
「サミュエルが選んで」
「え?」
「楽しみにしてるね!」
サミュエルには次の年から重大な任務ができ、頭を抱えるほど悩んで、王都の少女たちに人気の可憐なお店を巡る姿が目撃されることとなった。
そうしてバラの砂糖漬けと個人的な贈り物を携えて、毎年北の山へと足を運んだ。
さらに成長して、将来有望な騎士となると、王都ではなく北の砦への移動を願い出て、北の魔女の娘の元へと一途に通い続けるのは――もっともっと先の話。
シオファニアが別れにあっさりしているのは、めったに来訪のない山の暮らしで早い別れに慣れているからです。
二年ぶりに会ったときは本気で忘れていましたが、その翌年からはきちんと覚えていたけれど、サミュエルは自由な性格に振り回される苦労少年です。
読んでいただきありがとうございました!