(3)
行きはあれほど重かった荷台がとても軽い。
けれど、両足はまるで地面に縫い付けられたかのように重く感じられた。
見送りをしてくれるメイジーを前にして、エリックは重石を背負ったような思いでいた。
「帰りも気をつけてください」
メイジーはエリックが来た時と同じように柔らかい笑みを浮かべている。
そんな彼女とは反対に、エリックの表情は固い。
「騎士様?」
立ち止まったままのエリックに、メイジーが首を傾げる。
心配そうに見上げる視線に、エリックは静かに唇を動かした。
「……俺は、最低な男です」
メイジーはますます不思議そうな顔をした。
エリックは奥歯を噛みしめ、まるで懺悔のように言葉を紡ぐ。
「あなたにあんな真似をしておきながら、その責任も取り切れない……」
他の男がメイジーに触れることを想像して許せないと思ったが、自分も結局は一夜限り手に入れてこうして去る。
彼女の願いを叶えたなどと言って、己の欲望を果たしただけだ。
「私が頼んだことです」
けれど、メイジーの声は感情を荒げることなく、穏やかな表情で首を横に振った。
「騎士様の子を授かっていれば、きっと騎士様に似て優しい子でしょう」
メイジーはほんの微かに自分の腹部に手を当てる。
微笑むメイジーに、エリックの胸がますます締め付けられた。
馬に乗って山を離れていくエリックを、メイジーはいつまでも手を振って見送ってくれた。
王都へ向かうにつれて小さくなっていく北の山を何度も振り返りながら、エリックは来た道を戻った――。
***
鮮やかに色づく木々を見上げて、メイジーは溜息を零した。
冷たい秋の風がそれを高い空に運んでいく。
山の夏は短い。
季節はあっという間に秋へと移り替わった。
もうすぐ山が閉ざされる季節を迎える。
「そろそろ冬ね……」
メイジーは冬が嫌いなわけではない。
どの季節も山にとって必要だ。
祖母から教えられた、冬の山を守る魔女の使命は重要だと思っている。
それでも、寒いと人恋しくなるのは魔女も人も同じなんだろうか。
エリックが王都へ戻ってから、もうすぐひと月がたとうとしている。
彼が去ってから少しして、月のものが来て子は授かっていなかったことが分かった。
メイジーもたった一度で子を身ごもれるとは考えていなかった。
仕方がないことだ。
子を授かっていないことが分かって、メイジーは少し冷静になった。
寂しくて子供を望んだが、一人で産み育てるのは大変だったと先代の魔女は時折り零していた。
もしも先代の魔女が生きていれば、無謀なメイジーを叱りつけていただろう。
もっとも、一人だからあんなことを願ったのだが。
いずれメイジーの後継も必要になるだろうから、その内に王都から打診もあるだろう。
その時まで待てばいい。
それまでは、一人で過ごすことになるけれど。
メイジーは綺麗に直された柵に目を向けた。
ひと月前に、そこで黙々と直していた姿を思い出す。
エリックがいたのはたった三日間だったが、そのわずかな時間はとても楽しかった。
去年までは馴染みの老騎士が毎年来てくれて懐かしいと感じたが、今年エリックが初めて来たときには少し緊張した。
けれど、礼儀正しいエリックは親しみやすく、すぐに打ち解けることができた。
馴染みの老騎士とは違う話をするエリックとの会話は興味深く、ハーブティーやお菓子を振る舞うと丁寧にお礼を言ってひとかけらも残さず食べる姿が印象に残っている。
一緒に眠ってくれたエリックの体温は温かかった。
人の温もりに抱かれて眠ったからだろうか、あれ以来寒さに震えて夜に目を覚ますことがある。
寒い冬はまだなのに。
これでは、冬の寒さに耐えられないかもしれない。
そんな風にさえ思える。
それほどエリックの存在はメイジーの胸に焼き付いた。
心に残るこの感情を、何というのかメイジーには分からなかった。
ただ、一緒にいたのはわずかだというのに、家の中で彼の残像を探してしまう。
「風が……」
音を立てて風が木々の間を通り抜けた。
木の葉が落ちて、かさかさと音を立てて足元を揺れている。
冬ごもりをする山の動物たちも多く、冬は寂しい。
いつもの、冬が訪れる。
去年と同じ冬だ。
メイジーは静かに瞳を閉じた。
何も変わらない、いつも通りの冬を越すだけだと自分に言い聞かせながら。
ふと、草を踏む微かな音が聞こえた。
動物の蹄の音とは違う。
この山に入ってくる人なんてめったにいない。
けれど、足音がこちらへ近づいてくる。
瞼を上げたメイジーは、木々の奥からやってくる人影を見て目を見開いた。
「騎士様……?」
ひと月前の騎士の制服は着ていなかった。
けれど、確かにエリックだった。
メイジーのすぐ前まで来て立ち止まる。
「騎士は辞めました」
「どうしてっ……?」
思いがけない言葉に、メイジーは驚いて声を上げる。
騎士は民の憧れで頼られる立場だ。
名誉あるその職をどうして辞めたのか、そう尋ねたメイジーにエリックが告げる。
「あなたとここで家族になりたいのです」
真っ直ぐに視線を向けるエリックに、メイジーは茫然として立ち尽くした。
驚きすぎて何を言っているのか一瞬理解できなかったが、自分があんな願いをしたからだと分かって焦った。
きっとエリックはあの一夜に責任を抱いているのだ。
「あ、あの……もしも責任を感じているのなら大丈夫です。子供は授かっていませんでしたので……。その……月のものが、きたので……」
異性に伝えることは恥ずかしかったのか、メイジーの語尾が小さくなっていく。
それを聞いたエリックは、驚いたような表情の後に、少しだけ眉を下げ、そして強張っていた表情を崩して肩の力を抜いた。
「……残念な気持ちと、安心が少しあります。もし、あの時に子ができていれば、このひと月近く身重のあなたを一人っきりにしていたのだと、気が気ではなかったので……」
エリックがそんなことを気にかけていたとは思わなかった。
たとえ子を授かっていたとしても、ひと月ではまだ体の変化もほとんどないだろう。
けれど、エリックはそこまで真剣に考えていたのだ。
「俺は王都の騎士だったので、一度は王城へ戻らなければなりませんでした。けれど戻る道中、ずっとあなたのことが頭から離れませんでした。急いで王都へ戻り、すぐ騎士を辞める旨を伝えました」
王都に戻ったエリックは、すぐに辞表を出し住んでいた部屋を引き払い荷をまとめ、再び山に向かうために王都を出た。
城を出る直前、前任の老騎士が訪ねてきたので聞いてみた。
なぜ、魔女が少女だと言うことを隠していたのか。
エリックの疑問に、老騎士は静かに答えた。
若い少女が一人で山に住んでいると知られては、邪まな考えをした男がやってくるかもしれないと。
恐れられている山にそう簡単に入る者はいないだろうが。
それでも、親心のようなものだったのだろうか。
エリックは老騎士に、彼女を大事にすると約束して、王都を出た。
山に冬が訪れる前にと、急いで馬を走らせた。
「どうして、そこまで……」
エリックがこの山にいたのは三日間だ。
たった三日間しか一緒にいなかった相手のために、王都の騎士の職まで辞めてきたエリックに、メイジーは戸惑いを隠せなかった。
声を震わすメイジーに、エリックは真っ直ぐに向き合う。
「あなたを一人にしたくないんです」
エリックは、一緒にいる相手が欲しいと願ったときの、メイジーの寂しそうな表情が忘れられなかった。
あんな顔をさせたくないと、守りたいと思ったのだ。
エリックの言葉を聞いたメイジーは見開いた目を揺らし、どこか泣きだしそうな表情で首を横に振った。
「冬の山は厳しいです……。きっと、後悔します……」
エリックの言葉は嬉しかった。
けれど、メイジーは現実を分かっている。
冬の山は暗く寒さも厳しい。
簡単な気持ちで越せる場所ではない。
一時の同情で、エリックに苦労をさせたくなかった。
「その厳しい冬を、あなたはこれまで一人で過ごしてきたのでしょう。あなたを一人にする方が、俺はきっと後悔します」
エリックの言葉にメイジーの表情がますます泣きそうになる。
そんなメイジーを、エリックは腕の中に引き寄せた。
「これからは俺も一緒にいます。共に生きていきましょう――」
腕の中の温かさに、メイジーは夢にまで見た温もりを思い出す。
もう夢ではない。
寒い冬でも消えない温もりをメイジーは感じた。
そうして、冬になると山は閉ざされた。
長い長い冬の間、何者の侵入も許さない。
国を守る孤高の山。
ようやく長い冬を越すと、雪解けの山には寄り添う二人の姿があった。
魔女のお腹はふっくらとしており、山に賑やかな声が増えたのは、それからしばらくしてからのことだった――。
本編はこれで完結です。
補足的な番外編に続きます。