(1)
この国には、豊かな土地を狙う北の侵略者たちから、国を守る山がある。
高くそびえる険しい北の山が、国の平穏を守っている。
その山には、魔女が住んでいる。
魔女と言っても、大きな鍋をかき回したり、不思議な魔術を使うわけではない。
ただ山を守り、侵略者が恐れて立ち入れない存在だから、魔女なのだ。
北に位置するその山は一年の大半を冬で占め、冬の間は雪で閉ざされ一切の侵入を許さず、夏でさえ山を熟知した者でなければ無事に通り抜けることができないため、めったに立ち入る者はいない。
常に山に暮らし、国を守る――孤高の魔女。
***
年に一度、山を守る魔女のために、王都から献上品が届けられる。
運ぶのは選ばれた王都の騎士だ。
王都から北の山までの道のりは約二週間かかる。
騎士はたくさんの献上品を持って山へ向かう。
そして山に三日間滞在して魔女の住処の修繕などをし、また約二週間かけて王都へ戻るというひと月近くかかる任務だ。
今年その役目を担ったのは、騎士のエリックだった。
昨年までは老騎士が長年担っていたのだが、年だということでエリックが代替わりをした。
出発した時の王都は暑かったが、北に近づくにつれ涼しくなってきた気がする。
北の山の冬は早い。
そして冬を迎えれば誰も山には立ち入れない。
そのために、王都から騎士が冬ごもりに必要なものを届けるのだ。
エリックは馬上から視線を上げて、近づいてきた険しい山を見つめ、あと僅かな道のりを急いだ。
「――あら。今年は若い騎士様なのですね」
聞こえた声音は、鈴を転がすような声だった。
エリックは唖然とした表情で立ち尽くす。
もしこれが戦場ならば、とっくに斬り殺されていただろう。
だが、ここは戦場ではなく山の中で、魔女の家の前だった。
エリックは周囲を見回すが、他に家などなく確かにここが山の魔女の住処で間違いなかった。
目の前の少女と呼べる年頃の人物を何度も見て、長い間の後にようやく言葉を紡いだ。
「魔女様はご高齢の女性では……」
「それはおそらく先代のことです。私は二年前に引き継ぎました」
あっさりと告げる目の前の少女に、エリックはますます言葉を失った。
そんな話は聞いていなかった。
ここ十数年は老齢の騎士が毎年担当していたはずだが、エリックに引き継ぐ時にそんなことは言っていなかったし、王都でも高齢の魔女という認識だった。
魔女は山から出ることがないので、近くの町でも魔女を見たことのある者には出会わなかった。
最も、一番近い町とは言っても馬で一日はかかる。
誰も魔女の姿を知らなかった。
エリックはもう一度、目の前の魔女を見た。
柔らかそうに波打った蜂蜜色の髪は腰まで長く、大きな瞳と薔薇色の頬をした、十七、八歳くらいの年頃だろうか。
柔らかな面立ちの落ち着いた少女だ。
魔女という言葉が全く当てはまらなかった。
「あの、騎士様?」
高い声に呼ばれ、エリックは我に返った。
この目の前の少女が魔女であることは間違いないのだ。
そうすれば、エリックは本来の役目を全うするだけだ。
「も、申し訳ありません。こちらがお持ちした品になります」
「毎年ありがとうございます」
エリックは荷台にかけていた布を外して、王都から運んできた献上品を差し出した。
様々なものが積まれている荷台に目を向けていた少女は、その中の一つを見て表情を輝かせた。
「まあ、バラの砂糖漬け」
「持っていくようにと前任者から託されたので……」
「私、これ好きなんです。今年も覚えていてくださったんですね」
エリックの前の老騎士のことだろう。
十数年この役目を担っていたというから、仲が良かったのだろうと想像できた。
少女が好きだと言ったバラの砂糖漬け以外は日用品的な物ばかりで、エリックはそれらを家の中へと運び込んだ。
それから、もう一つの任務である力作業を始めることにした。
山に滞在するのは今日と帰る日を含めて三日だけだ。
その間に、次の年に来る時までの一年分のことをしなければならない。
「それでは、何かお困りのことはありませんか? 力仕事でも修繕でも、何でもお申し付けください」
「長旅でお疲れでしょうから、まずはお茶でも飲んで休みませんか?」
さっそく取り掛かろうとしたエリックに、少女は柔らかく微笑んだ。
確かに王都を出発して約二週間の長旅だった。
馬に乗っているとはいえ、太陽が昇っている間はずっと移動をしてきたので疲労も溜まっている。
エリックを乗せて荷を引いてきた馬は、すでに水を飲んで休んでいた。
少し休憩してからの方がはかどるかもしれない。
「では、お言葉に甘えて……えっと、お名前をお聞きしても良いですか?」
「はい。メイジーと言います」
「私はエリックと申します。メイジー嬢、よろしくお願いします」
なんとなくこの魔女らしからぬ少女に魔女様とは呼びづらかった。
メイジーという名の少女は、家の中からティーセットを運んでくると、エリックにお茶を振る舞ってくれた。
独自のブレンドをしたというハーブティーは不思議と疲れが取れ、山の緑を眺めながら一息ついてから、エリックは力仕事に取りかかることにした。
春の嵐で傷んだという屋根の修繕を頼まれ、それを夢中で直してようやく終わろうとした頃、メイジーが夕食だと声をかけた。
エリックは顔を上げると、空がオレンジ色に染まってきていることにようやく気づいた。
下に降りて家の中に入れば、食卓にはたくさんの食事が用意されていて、エリックは恐縮しながら勧められるままに席に着いた。
「以前の騎士様も、いらっしゃった時にはこうして一緒に食卓を囲んだんです。いつもは一人なので、誰かと一緒に食べる食事は楽しいのでどうか付き合って下さい」
「ありがとうございます。頂きます」
そう言って、メイジーは具のたくさん入った温かいスープをエリックに差し出した。
夕食は他にも、山で採れたハーブとジャガイモを焼いたものやチキンも並んで、エリックはその美味しさに黙々と食べ続けた。
夕食を食べた後は、早めに休んで明日に備えないといけない。
家を囲む柵もところどころ壊れかけているので、明日は早く起きてその修繕に取り掛かろうとエリックは考えた。
休むのは家の隣にある小屋だ。
普段は貯蔵庫として使っているようだが、眠る広さも十分にあり綺麗に整頓されていたので快適に眠れそうだ。
「明日は家の周囲の柵を直します。他には何かありますか?」
エリックがそう尋ねると、メイジーは丸い瞳で一瞬見上げ、それから少し考えるように視線を下げた。
「あの、もう一つ頼みたいことがあるのですがよろしいですか?」
「何でもどうぞ」
そういえば外壁も少し傷んでいる気がしたから、そこのことだろうかとエリックは考えた。
メイジーはエリックに向き合うと、真剣な顔で告げた。
「私に子を授けてください」
メイジーの言葉に、エリックは危うく持っていた皿を床に落とすところだった。
「意味は知っています。方法もちゃんと分かっています」
あれから小一時間固まったエリックは、頭を抱えてメイジーにその真意を問いただした。
山の中で過ごしてきたから、何かと間違えていないかと思ったが、期待にも似た憶測はあっさりと否定された。
「なぜそんなことを……」
メイジーが意味を分かって頼んだとなれば、その方が大問題だ。
今日会ったばかりの騎士に頼むようなことではない。
「山の冬は長いです。家から出られないときもあります。そんな時、たまに思うのです。一緒にいる存在がいればと――」
視線を落として呟くメイジーの姿はとても切なげだった。
吹き荒れる雪山を家の中から一人で見つめる姿が、エリックには思わず想像できた。
「だから、前の騎士様に頼んだのですが……」
「ちょ、ちょっと待ってください……! 前任者にも同じことを言ったのですか!?」
「はい。良くしてくださっていたので叶えてくれるかと思ったのですが、断られてしまい……」
エリックは少しほっとした。
前任者は長く軍に仕え真面目で、エリックもとても尊敬していた人物だ。
若い少女のとんでもない頼み事を叶えていたとなれば、王都に戻った時まともに顔を見ることは出来なかっただろう。
「申し訳ありませんが、私も前任者と同じです」
生真面目なエリックはもともと遊びの付き合いなどはできない。
出会ったばかりの年下の少女の無茶な願いなど、叶えるわけにはいかなかった。
そう伝えると、メイジーは一瞬残念そうに瞳を揺らし、俯いて小さく頷いた。