高学歴だと思っている人の学力は『スマホがあれば済む』ぐらいのことか?
今日はなんだかあまり暑くないね。
素晴らしいことだ。
さて、今日の話題に入る前に少し筆者の話をしよう。
それは今日の話題がかなり主観的だから少しでも筆者の論に読者諸兄が共感してもらえる為だ。
筆者は現在、高卒ニートである。
一応、先月まで仕事をしていたことにはなっているが、色々あって辞めた。
学歴に関しては高校までは一応、それなりの偏差値の中高一貫校。
偏差値に関してはそこそこらしい。
(具体的な数字は一応、身バレ防止の為に伏せる。聞かれたら答えるぐらいの情報でしかないけど……)
大学受験をしなかったのは先月までしていた職に早く就きたかったから。
その目論見は成功して他の連中より二年早く就業したが、上手くいかなかった。
上手くいかなかった原因は明白だが、今回は話が逸れるからまたいずれ。
……と、こんな筆者である。
学歴自慢や異端自慢だ、と思う読者諸兄もおられるかもしれないが、
ここから先を読んで頂ければ、筆者が自分を相当低く見積もっているのは分かって頂けると思う。
では、本題に入る。
「高学歴だと思っている人の学力は『スマホがあれば済む』ぐらいのことか?」
一つ、留意してもらいたいのはこの記事でひろゆき氏は
「頭の良さ≠学歴(テストで良い点を取る)」という文脈でこう発言していることだ。
果たしてそうだろうか?
筆者はそう考えていない。
まず、「頭が良い」とは何か?
残念なことにこれを客観的かつ絶対的に指し示す価値観、尺度、指標は存在しない。
誰しもが、曖昧な思考と判断で特定の個人を「頭が良い」と言っている。
それ自体の良し悪しは置いておいて、
では、その「曖昧な思考と判断」の根拠とは何だろうか?
これは簡単で「誰かの頭が良い(または良さそうな)行動を見た」のだ。
一番、分かり易い例で言えば、もちろん「テストで高得点をとった」などになるだろう。
つまり、「頭が良い」という評価は「個人の知性の高さ」そのものへの評価ではなく、
「個人の行動」への評価なのだ。
世の中の「天才」と呼ばれる人間はその実績を以て「天才」と呼ばれていることから目を背けてはならない。
アインシュタインが「E=MC2(二乗ってどう打つのだろう?)」を発見しなかったら?
ヘミングウェイが「老人と海」を書かなかったら?
ジミヘンが「All along the watchtower(筆者が好きなだけ。彼の曲ではないのは知っている)」を弾かなかったら?
良い大学にいった「学歴」は「頭が良い」という評価に値する。
それは国が規定した相対的な尺度の中で実績をしっかり勝ち得たということだからだ。
つまり、「頭が良い≠学歴」はある意味正しいが、「頭が良い⊃学歴」であり、
「学歴」は「頭の良い」に属するものであるということだ。
もし仮に読者諸兄の中で
「自分は頭が良い。良い大学にいけなかったのではなく、いかなかっただけだ」
と思っている方がおられるのであれば、
「良い大学にいかなかっただけの実績」を証明しなければ、
「頭が良い」という評価は与えられないのである。
これは無論、筆者にも当てはまる。
だから、筆者は自分が「頭の良い」とは思っていない。
ただし、これに納得できない読者諸兄もいるだろう。
それは「学歴」というシステムがいくつかの欠陥を抱えているからだ。
まず、「学歴」は大きく親に依存する。
何かで見たが(確か東大生の女子学生への支援の資料だった気がする?)、
東大在学生の60%強が親の年収が1000万を超えていた。
確かに筆者の高校時代を思い出すと何だかんだ裕福な家庭のヤツしかいなかった。
年間ウン百万の学費を出すのだ。そうでなければ、立ち行かないだろう。
では、自分が親だとして
「いずれ子供が年間ウン百万の金を10年間使い続けることを分かっていて中学受験させるか?」
ということを考えてみよう。
(無論、そうさせるための塾の費用も年間ウン十万は下らないことも忘れずに)
無理だ。手取り20万前後で暮らしてみた今だといっそう実感を持ってそう言い切れる。
つまり、「頭が良い」という評価があたかも個人に与えられているような表現のくせに
環境に依存する部分があり、「学歴」となるとそのウエイトがかなりの比重を占めているのだ。
「貴様は苦学生というものの存在を否定するのか!」と怒られる方もいるかもしれないが、
これは大部分がそうであるということが言いたいだけである。
それと少し話は逸れるが、なぜ偏差値の高い中学、および高校の方が進学先が良いかを考えたことがあるだろうか?
この問いの明確な答えは「親の影響」である。
果たして、進学塾に通う子供のどれくらいが「良い大学にいく」ことを本気で考え、
そして、望んでいるだろうか?
彼らの全てが親の介入(その度合いは個人差がある)を経てそういう道に進んでいるのだ。
中学生にも満たない子供が自主的に進学塾や中高一貫校のパンフレットを手に親を説得するわけがない。
そして、そういう学校に入ってからはそういうことを考える環境に身を置き、
歳を重ねるにつれ、「良い大学にいく」ことに現実味が増してくる。
(あるいは実力を知り、別の現実を知ることにもなるが)
筆者はそういう環境から脱出し、色々あって親が変わったりして思ったのは
「おおよその人間は東大に入る方法を知らない」ということだった。
多くの人間が東大に入るということを夢物語だと思っていて、
自分には縁のない話だと思っている。
ひとえにこういうモノは親から与えられるものだ。
何も金銭的な話だけではない。
案外、苦学生と呼ばれる方の中で苦労したのは
そういう想像をしたことがない親や他人を説得することではないかと思う。
では、「学歴」の誤謬に話を戻そう。
先ほどまで「学歴」が「頭の良い」に内包されるとした時、それが純然な個人の結果のみへの評価でないことへの違和感が「学歴」の場合は顕著だと書いた。
一応、補足しておくと「頭の良い」とされる結果は本当の意味での個人ではなし得ない。
要するにジミヘンのギターを作ったのは誰だ?という話である。
ただ、「学歴」の場合はその割合がアンバランスだという話だ。
では、二つ目。
良い「学歴」の人間は常に「頭が良い」か?という問題だ。
まず、これは絶対にノーなのだ。
なぜならば、「頭の良い」人間は常に「頭が良い」わけではないからだ。
「頭が良い」というのが実績への評価だということは今回、ずっと書いてきた。
実績とはその一つの断片的な事象のことだ。
現在形的に持続されている状態ではない。
つまり、「○○した」ということが「頭が良い」であり、
「○○する」ということが「頭が良い」ではないのである。
このことと「頭が良い⊃学歴」を照らし合わせると
良い「学歴」の人間が常に「頭が良い」わけではないという結論が出てくる。
この事実の一つの側面として現れるのは「○○大なのに」などの言葉だろう。
「頭が良い」「学歴が良い」はその人の全ての行動に知性を求める根拠足りえない。
そして、ここにさらに「学歴」特有の誤謬もある。
「頭が良い⊃学歴」であるならば、大学の学部そのものも、
個人個人に合わせた定員一人のものでなければならない。
そうでないと個人の評価には本来、なりえないはずなのだ。
もちろん、東大に入るためには一定の学力が必要だし、それは称えられるべきことだ。
しかし、ただ単純に個人の実績の評価としては曖昧なものになってしまうのは否めない。
なぜなら、その年に東大に入ったのはその人だけではないからである。
そういう意味で良い「学歴」の人間は常に「頭が良い」とは言えないという部分もあるということだ。
ここまで色々書いてきた筆者だが、他にも書くべきことがあったような気がする。
しかし、忘れてしまった。(というか、正直、眠い……)
ここからすでに筆者が頭が良くないのがお分かりいただけると思う。
以下は今回、こういうことを書いてみた所感になる。
自分はこのひろゆき氏の発言を見たのはまとめサイトだったのだが、
そこで色々なコメントを読んだ。
まー、「学歴憎し!」と思う人が一定数いるのは何となく分かる。
システム的に完全なモノではないというのは同意するし。
しかし、完全なシステムそのものが望めない以上、そのシステムを活用するかしないかの選択肢しかないのだ。
活用しないことを選択した上で「憎し!」と言っているだけでは意味がない。
それを「憎し!」と思うのであれば、破壊する努力をするべきだろう。
筆者はしない。
なぜなら、大学に行かなくても希望する職に就くことはできたからである。
「学歴」が全てではないし、「頭の良さ」が全てでもない。
日本とはそういう国だと思う。
学歴社会への反論として「一般教養を教えている暇があるなら専門的なことを教えることをしろ!」というモノがある。
そういう人がもし学生なら学校教育を放り出して「専門的なこと」を勉強すれば良い。
筆者はそれで構わないと思う。別に全然生きていけるだろう。
「その『専門的なこと』で飯を食いたいんだ! だから、大学に行かなきゃいけなくて一般教養を放り出せないんだ!」という人もいるかもしれない。
はっきり言おう。そんなの当たり前である。
それができないなら「専門的なこと」をその大学で学ぶ資格はないし、それで食っていく資格もないと思う。
なぜか?
それは大学に行くということはつまり、社会的活動の参加であり、社会的活動は個人ではないからである。
社会的活動には他人がいる。
その他人と関わっていくのに自分がどうこうだけでは話にならない。
単純な話で他人と何かをしたいのであれば、自分が他人に必要とされる存在である必要があるのだ。
そういうことを分かった上で「学歴」が非効率だと言うのであれば、
対案を出した上でその対案が実現する努力をして欲しい。
まあ、だから何度も言うように別に「学歴」は必須ではない。
筆者の様に「学歴」があまり関係のない世界で生きようとすれば、「学歴」はいらない。
それに「学歴」も大変なのである。
東大に入ったからと言って人生バラ色でもないらしいし。
そこからまた競争なのだ。
特に東大は二年の課程が終わってから「進振り」なる儀式があるらしい。
そして、そのまま色々あって無事に卒業……で終わりではなく就活があり、そしてそこからさらに競争である。
結局、人生の目標をどこに置くかであり、
受験に文句を言う人生があったって良いように受験に邁進する人生があったって良い。
筆者は別にそれを否定しない。
どっちの言いたいことも分かる。
今回は(正しくは今回“も”)思うがままに筆を進めた結果、かなり読みづらくなってしまったことをお詫びしたいと思う。
それでは、次回更新でまた。




