若者は本当に『右傾化』したのか?
暑い。
もうこれを挨拶にしてやっていこうとすら思う。
前回書いたことの続きは思い出したが、何となく微妙なので気が向いたら書く。
というか、炎上というか人に嫌われる覚悟が出来たら書こうと思っている。
個人的には別にそういう話だとは思っていないが、結構過剰に反応する話だと思うので。
……ということは今回書くことは炎上しないと思っている?
半分はそうで半分はそうではない。
政治(特に右翼左翼問題)に関して書くと過敏に反応する人がいるのは分かっている。
正直、その反応する人のイデオロギーは何であれ、筆者はとても良いことだと思う。
議論でも殴り合いでもレスバでも何でも良い。
醜くて良いから対立が無ければ話は進まない。
法律を犯さない程度でやって欲しいと思う。
それが本当は愛国だろうから。
筆者はそんなことをする元気がない。
対立するのは本当に元気がいることだ。基本的に馬耳東風であることの方が楽なのだ。
ただ、それがいけないことだと分かっているからこそ、今回、ジッポオイルレベルかもしれないが、
燃料を投下してみようと思う。
さて、ここからが本題だが、若者は本当に『右傾化』したのか?
これはまたこの表現になるが、半分は本当で半分は嘘だ。
そう考えるポイントは『権力の所在』になる。
以下は「権力に追従的=右翼」「権力に反抗的=左翼」というかなり簡略化したモデルと共に話を進める。
確かに「政府・国家=権力」という思考の元では若者は『右傾化』しているように見えるだろう。
しかし、「マスコミ・メディア=権力」という風にことを捉えた時、若者はかなり『左傾化』しているのだ。
もちろん、「マスコミ・メディア」に立法権はないし、官僚的影響力もないだろう。
本来、「マスコミ・メディア」が持つ力はそういった権力を持つ人たちを報道し、論じ、大衆に情報を届ける機関であり、まさに媒体であった。
ならば、なぜ「マスコミ・メディア=権力」という図式が成立しうるのか?
この時、注意して欲しいのは「マスコミ・メディア=権力」だということが実際に起きているかどうかは問題ではないことであり、それを証明することはとても難しいということだ。
それは反対の「政府・国家=権力」という図式でも同じであり、それが本当かどうかを検証するのは難しいし、そして、この議論においてそれはどうでもよいことなのだ。
この議論において一番重要なことは「なぜ若者には『マスコミ・メディア=権力』に見えるのか?」である。
その若者たちの思考の根底にあるモノは「みぞゆう事件」と「ゲーム脳とネット」だろう。
一見、何の関係もない話の様に見えるが、その二つは「マスコミ・メディア」の一つの成果だと言って良いのではないだろうか?
20歳、つまり選挙権を持たない若者たちはニュースやワイドショウで「みぞゆう」と誤読しただけでつるし上げられる麻生総理大臣(当時)を頻繁に目にした。
事実はどうであれ、そのメディアの喧々諤々の非難の前に麻生内閣(当時)が倒れてしまったのを若者たちは目にしているのだ。
しかも、それは一度や二度ではなく安倍、福田、麻生と三つの内閣を倒してしまったばかりでなく、自民党という若者には到底想像できないような巨大組織を政治の表舞台から引き下ろしたのだ。
若者から見てこれを『権力』だと言わずして何を権力だと言うのだろう?
確かにリーマンショックや年金問題などで国全体が揺れていた時期だった。
そこで安定した内閣を運営するだけの手腕が彼らや自民党に無かったのかもしれない。
55年体制を終わらせ、民主党政権が成立した時、「マスコミ・メディア」はあたかも勝利したような報道を続けた。
本来、「マスコミ・メディア」とは媒体であり、システム的には水道局と自宅を繋ぐ水道管のような存在であるはずなのに、「水道管が水道局を倒し、そして、勝利宣言をした」。
そのチグハグな構造とその力の強さに若者は恐怖したのだ。
この時点で「マスコミ・メディア=権力」という図式が若者の中に芽生えてしまった。
しかし、これだけでは『左傾化』、つまり、「反権力」になる同期は不十分だ。
仮に「マスコミ・メディア=権力」であっても、直接不利益を被らなければ、特に反対する理由はない。
しかし、若者には「マスコミ・メディア」に不利益を被らされたことがあったのである。
それが「ゲーム脳」である。
「ゲーム脳」という単語で満足にゲームをさせてもらえなかった若者は多いと思う。
一体、「ゲーム脳」とは何かを親から満足に説明してもらえず、「ゲームをやっているとバカになる」と言われ、プレイ時間を制限されたり、そもそも、ゲームを買ってもらえなかったり。
そして、そんな若者はいずれネットに行きつく。
そこで調べる。「ゲーム脳」とはいったい何だったのか?と。
そこに書いてあるのは「一冊の本から始まったデマであり、マスメディアが大々的に報じたものだ」ということだった……。
これはキャッチーさや分かり易さを重視して「ゲーム脳」を例に挙げたが、
ネット発達以前がいかに「マスコミ・メディア」が支配的であったかを若者はネットにつながることで知ることができる。
筆者は別に「マスコミ・メディア」批判がしたいわけではない。
テレビ、新聞、ラジオ、雑誌……そういうモノと共に成長した「マスメディア」が支配的であることは当然のことなのだ。
この世にはラジオを聞いただけで近隣住民を虐殺したり、反セム主義的映画を見る大衆という存在がいるものまた事実なのだ。
それは何ら問題はない。厳然たる事実である。
(いや、問題ではあるのだが、筆者がそれを論じるほど啓蒙主義的活力を持ち合わせていないのだ)
若者たちは「マスコミ・メディア」によって不利益を被った。
「ゲーム脳」の例で行くのであれば、本来それは「教育」の領分であり、「親」や「学校」が不利益を被らせている直接の存在である。
しかし、若者はそうは思わない。
なぜなら、自分の親だけが「ゲーム脳」的思想を標榜しているだけではなく、
それが支配的な「世論」だった事実があるからだ。
また、それは「ゲーム」だけではない。
「アニメ」「マンガ」「ライトノベル」……。
そういったものを「マスコミ・メディア」が攻撃してきたのも事実であり、
そして、そのコンテンツらは今、市民権を得ているということもある。
そのコンテンツらを消費する人とインターネットの発達が密接に関係しあった結果、
若者の意識としての「マスコミ・メディア=権力」とそれに対する「反権力」が発生したのだ。
筆者はこれをある種の自然現象だと思うし、その是非は存在しないと考えている。
本来的な「媒体」としての「マスコミ・メディア」が存在しないからだ。
一切の混じり気の無い純然たる報道は無理なのである。
それは「現象=マスメディア=消費者」という関係の中で人間が介在しているからだ。
何も「マスコミ・メディア」が人間であり、何かしらの色がついてしまうということだけでなく、
同じく「消費者」もまた人間であり、「現象」を過不足なく理解することはできないのだ。
だから、そういった関係の中で生まれた歪みがまた別の所で歪みを起こしているだけに過ぎない。
そして、そういった関係の中でイデオロギーは関係なく国の為を思って「意見する」ことこそが、
本質的な愛国であり、実はそこに「右翼」も「左翼」も存在しない。
それをはき違えて自己のアイデンティティーをイデオロギーと同化させ、
虚構的に肥大化したアイデンティティーに溺れている人間こそが非愛国者である。
そうした人間の虚しさは議論する相手がいないことである。
肥大化したアイデンティティーを抱えた彼らが議論するのは
彼らと同じくらい肥大化した彼らの仮想敵なのだ。
自身の「イデオロギー=アイデンティティー」に相反する思想に
「右翼」「左翼」「ファシスト」「在日」とレッテルを貼り、
彼らの中の妄想と日々論議をし、アイデンティティーを守っている気になっている。
それは全く愛国ではないし、一切の生産性を持たない。
だから、そういう観点で「若者が本当に『右傾化』したのか?」という話は止めた方が良い。
イデオロギーとアイデンティティーを同化させた人間にこれを問うと
単純に「若者は敵か、味方か」というただのレッテル貼り競争になる。
筆者は一応その観点で「権力」の所在を考えてみたし、
そういう意味で若者は既存の視点で見ると「右傾化」、
若者視点で見ると「左傾化」していると論じた。
これを読んでいる読者諸兄は筆者の言っていることが正しいかどうかを論ずる前に
アイデンティティーとイデオロギーをしっかり切り離せているか自問してみて欲しい。
そして、もう一度この問題を考えてみて欲しい。
「若者は本当に『右傾化』したのか?」




