走る先には
お袋が修行からその身を解き放ったのは、一時間ほど後の事。
制服から着替えた俺がひもじさに耐えるためにアップルパイを食べていると、お袋は急に立ち上がった。
テレビの音を少し大きくして、今は風呂の用意と飯の準備を始めている。
これもまた、いつもの事だった。
親父が帰ってくる少し前から急いで支度を始める。てきぱきと動くその様は、先ほどまでの姿は力を溜める為の仮の姿だったんじゃないか、と思わせる程だ。
アップルパイを齧りながらテレビを見ていると、お袋に買い物を頼まれる。
「あっ、卵がない。祐樹、ちょっと行ってきてー」
「へーい」
手に持っていたアップルパイを食べ終え、机の上に置かれていた財布を手に取り、玄関まで歩く。
ここからスーパーまでは歩いて十分ほどなので、すぐに帰ってくることが出来るだろう。
外に出ると暖かな陽気を感じ、夕焼けの光に目が眩んだ。
春と夏の境目のこの時期は、個人的にとても好きで、無性に昼寝がしたくなってくる。
と言っても、もう夕方なので今から寝るのはさすがに躊躇われるし、何より買い物に行かなければ今日の晩飯がどんなものになるか想像がつかない。
スーパーに向かう途中、小学生が遊んでいる姿を見掛け、カラスの鳴き声を聞いた。
秀成が田舎を思わせるものを見かけたり聞いたりするとノスタルジックな気持ちに浸って落ち込んでしまう、と言ったことがあった。
年をとればとるほど生きづらい世になっていくのを実感してしまうな。
スーパーに着くと人がごった返し。とても帰りたい。
窓にでかでかと張られているチラシには、夕方! 超お得セール! と書かれている。
……図ったなぁ、お袋ぉ! 安いけどめんどくさかったから俺に行かせようとたくらんでいやがったなぁ!
おばちゃんたちが我先に商品にたどり着こうと必死の形相で進んでいる姿を見ると、顔が引きつってくる。
えぇ、俺今からあれに突っ込んでいくの? 嘘でしょ?
とりあえずかごを手に取り、極めて紳士的におばちゃんたちに混じろうと気配を消して歩みを進めていく。
集団の隙間を塗っていこうと思い様子を見るが、だめだ、隙が見つからねぇ。おばちゃんたちの密度がすさまじい……!
どうしようか躊躇っていると、肩に手を置かれる。振り向くと、
「祐樹じゃん、お前もお使い頼まれたの?」
「ゆ、優奈ちゃん」
少し小さな背丈の女の子が立っていた。茶色の髪に少し鋭い目つき、両耳にはピアスが光っている。
彼女の名前は逢沢優奈。現在中学三年生の逢沢家次女、未希の妹だ。
優奈ちゃんは俺たちの前に立ちはだかっているおばちゃんの壁を見ると、不敵に笑った。
指を鳴らし、手首の準備運動をしながら歩く姿に頼もしさを感じてしまう。この子、中学生の女の子だよね?
せめて、応援だけでも送ろうかと手を振ろうとした時、小さな手が俺の手首を掴んだ。
え、何この手?
優奈ちゃんがこちらに振り向き、片目を閉じながら歯を見せて笑う。流石、未希の妹なだけあって素敵な笑顔だ。じゃなくてこの手は何なの、ねぇ、答え て!
「行くぜ、祐樹!」
「いやああああああああああ!」
俺は引きずられるようにしておばちゃんたちの中に入って行った。
せまい、せっまい! おばちゃんたちもっと寄って! じゃないと体が捻じ曲がる!
後悔、先に立たず。かごを置いてきたらよかったと思うが、そんなタイミングはなかった。
ていうか、俺は来るつもりはなかったし。
優奈ちゃんは未だ俺を離さず握っている。そのおかげで俺も進めているのだが、そろそろ手の伸び具合も限界に近づいてきている。指をバタバタさせて異常を知らせようと試みる。
届け、この願い!
祈りが通じたのか、速度がさらに増し、俺の体が悲鳴を上げた。
なんでだぁー! 優奈ちゃん、止まってくれぇー!
おばちゃんのひじ打ちをかごでブロックし、足先を踏みに来たのをステップで回避。
この環境に適応してきている、俺の体が進化している……! ぐえっ、ちょ、調子乗ってました!
三分後、俺は何とか卵を確保することに成功していた。
幾度となく、守ってくれたスーパーのかごが愛おしく感じる。ああ、もう離さない!
「何やってんの、早く行くよ」
かごを抱きしめて感謝をしていると、優奈ちゃんが話しかけてきた。その手にあるかごには大量の商品が入っていて、幾多の戦場を渡り歩いてきたことが見て取れる。
すげぇ、戦闘力が俺とは違う。エリート戦士だ……!
すれ違うおばちゃんたちが、優奈ちゃんと互いをたたえ合っている。笑いながら互いの手の甲を合わせるなんて、女子中学生は普通やらない。
俺たちは商品をレジに通し、スーパーから出た。
自転車に乗ったおばちゃんが人差し指と中指でじゃあな、ってやってきた。優奈ちゃんも同じように返した。か、かっこいい……!
二人で並んで帰り道を歩く。荷物を持とうと言ったら、ありがとうと託され、俺の両の手はもう満杯。
「なんで優奈ちゃんが買い物に?」
「お母さん、セール苦手なんだよ。いつも、あら~って言って買いたいもの逃がしてんの。で、さっき家で夜ご飯の材料が足りないって言ってたから、私が行くって言ったの」
なるほど、確かに寧音さんは苦手そうだ。あの優しそうな人から、どうして未希と優奈ちゃんが生まれてきたのだろう。
優奈ちゃんが一歩先に行き、振り返って俺を見た。
「そういやさ、アップルパイもう食べた?」
「ああ、美味しかったよ。寧音さんに伝えといてくれる?」
「おっけーおっけー。でもさ、あれ私と姉ちゃんも一緒に作ったんだよね」
「え、そうなの?」
ふふん、と鼻を鳴らして得意げに少し胸を張った優奈ちゃんが、こちらに詰め寄る。へへーと笑って肩をバシバシ叩く顔は嬉しそうだ。ちょっと痛い。
でも、前にもらったアップルパイと変わらない美味しさだったから、全然わからなかった。
未希の作った飯なんか、小学校の時の飯ごう炊飯以来じゃないか?
「後でさ、姉ちゃんにメールしといてやってよ。きっと喜ぶからさ」
「そうしとくよ。そういや優奈ちゃん、最近勉強はどんな感じ?」
「あ~、もうやめてよ。お父さんにいっつも言われてんだから」
嫌な話題を聞いたと、優奈ちゃんは手を振る。
話す事がないからと言って、この話題はまずかったか。ただ、優奈ちゃんの成績は悪くなかったはずだ。
父親の誠治さんがピアスを付ける交換条件として成績の向上を出した時から、彼女の成績は目を見張る程良くなった。ちなみに寧音さんは今も反対の立場を取っているらしい。
「お父さんがさ、どこの学校に行くか考えなさいって言うんだけど。あんまりやる気もなくてさ~」
「まぁ、なるようになるさ」
「おっ、いいこと言うじゃん。そうそう、なるようになるんだよ」
俺はあまり説教臭い事はいえない。塾に通ってもいたがあまり自主的な勉強というのはしなかった。本格的に勉強をしたといえるのは秋も終わりになったぐらいから。
「お姉ちゃんが優秀だからさ、私もやればできるって。そんな事がないのは、私が一番知ってる。お姉ちゃんはすごいよ、勉強も、アイドルも凄い頑張ってる」
「ん、そうだな。未希はすごい。俺も幼馴染として応援してるよ」
だよなー、と優奈ちゃんは俺の肩をバシバシと叩き、そして先を行くように少し足を速めた。
後を追う様に足を速めて数分、俺たちはそれぞれの家の前に着いた。
優奈ちゃんに荷物を渡し、じゃあなと分かれる。
「祐樹、メールしとけよー! 後な、一回お姉ちゃんがアイドルやってるの、見に行ってあげてー!」
「お、おう」
優奈ちゃんは家に入って行く。扉の閉まり際にこちらに手を振り、その姿は消えた。
俺も自分の家に帰ってお袋に卵を渡し、自分の部屋に向かう。シンプルなベッドに座り、忘れないうちに、未希へアップルパイの感謝をメールで伝える。
メールを打ち終えると、同時、画面に知らない電話番号が表示された。
誰だ、と思いつつ電話に出ると、
「はい?」
『もしもし、私日比野と申しますが、そちら小宮山祐樹君の電話番号で間違いないでしょうか』
「えっ!? は、はい、小宮山祐樹です!」
『ああ、祐樹君。良かった、間違ってなくて』
えっ、何で日比野さんが俺の番号知ってるの!?
日比野さんからの連絡なんて初めてだからドキドキする。
だれか、この通話を録音してくれ! 盗聴してくれてもいいから!
日比野さんは俺のトキメキに気づかずに、次の言葉を発する。
『これから、会いませんか?』
「はい――!」
気づいたら、走り出していた。