涅槃、周りの人達は
未希と通話をしながらリビングに入ると、お袋がソファで寝ながらテレビを見ていた。
毎日変わらぬ光景だが、ワイドショーばかり見て飽きないのだろうか?
『ゆう、あんた伊倉先生と話してたけど、英語得意だったっけ?』
「やれるだけの事はやった、察してくれ」
『ま、でしょうね』
スマホから聞こえる声に応対しながら、冷蔵庫を開ける。お茶を取ると、
「あたしのもいれといて~」
涅槃像スタイルのお袋に頼まれる。
へーい、と返事をして、コップを二つ、棚から取り出した。棚にあるコップの数は無駄に多く、使っているのを見たことがないティーポットにティーセットが場所を取っている。
処分すれば、と聞けば、いつか使うからとテンプレ返答が帰ってくるのがみえているので、俺と親父は触れない事にしている。
お茶が注がれたコップを、涅槃像スタイルのお袋の前に置くと、ありがと、と目も合わさずに言われる。その間の目線はずっとテレビに向いていた。
この状態のお袋は晩飯の用意をするまで動かない。最悪、晩飯はデリバリーだ。
まぁ、いつもの事なのだが。
お茶を飲もうと、コップに口を付けると電話口の向こうで未希が話を始めた。
『ねぇ、今日何か変わったことってあった?』
「んー、別に何もなかったと思うぞ」
別に今日もいつもと変わらぬ日常だったはずだ。購買争いはもういつもの事だしな。
『嘘、里奈が言ってたわよ。昼休みにあんたと凸凹二人組、私の事話してたらしいじゃない』
「あー」
確かに話していたが、別に変ったことでもないだろう。未希の話題を教室で聞かない日はないと言ってもいい程、こいつは話題に上がる。
クラスの中にアイドルがいるのだから、当たり前だと思うが。
「いやいや、あれは別に変ったことじゃない」
『ふーん。あんた、私のライブ見たい?』
「ん? あぁ、里奈から聞いたのか」
『そーよ。で、どうなの』
見に行きたくないと言えば、嘘になる。
仮にも幼馴染だし、人気アイドルとして活躍する姿は、きっと魅力的だろう。ただ、こう、なんて言っていいのか、俺の貧弱なボキャブラリーでは表現できない。
「今は、いいかな」
『そう。なら、あたしが来なさいっていたら、来る?』
「多分、行くと思うぞ」
電話口から、そう、と答える声が聞こえる。変な奴だな、と思いながらお茶を一口含む。
多分幼馴染からの嬉しい正体を断る事はない。きっと俺も彼女たちを見上げるファンの一人として、未希を応援するだろう。
『ならいいわ。そう言えば、今日面白い事があったのよ』
「ほう」
未希が話始める。楽しそうな声色はどれだけ充実しているかを伝えてきて、こちらまで楽しくなってくる。毎日毎日が忙しく楽しい事ばかりではないはずなのに、電話口では明るい声色で、何が楽しかった、こんな面白い事があったと伝えてくる。
未希と電話をするのは楽しい。そして、俺はいつも思うのだ。
未希は、アイドルが天職なのだろうな、と。
人を笑顔にする事は、才能だ。その才能は人が歩む人生で養われることもあるが、未希は違う。未希は、小学校の時からずっと誰かを笑顔にする事が得意で、好きだった。
小学校からの友人は、未だ未希と連絡を取っているのだろうか? 取ってないのなら、取ってみろと進めよう。こいつは、あの時から何も変わっていないから。
未希が一度話し終えると、向こうの会話が聞こえる。どうやら、未希は誰かと話している様だ。
『え、はい、わかりました。ゆう、今からマネージャーさんに代わるわ』
「え、日比野さんに!?」
胸がドキドキする。まるで、憧れの人を思う乙女の様、そう、俺は乙女! ときめきを原動力にして生きる、乙女小宮山!
『……なんで、嬉しそうなのよ』
「別に何でもねーよ! 早く代われよ!」
もうこっちの胸は鼓動で毎秒圧迫されてるんだよ。早く代わってくれなきゃ、おかしくなっちゃう……!
『日比野です、お久しぶりですね、祐樹君』
「お久しぶりです! 元気です、祐樹です!」
なんか言葉がおかしくなったぞ、仕方ないな、胸が苦しいから。
未希が電話を替わったのは、あいつのマネージャーの日比野さんだ。
長髪の黒髪に切れ長の瞳が特徴的な人で、初めてあった時は本気で女優だと思い、あいさつで非常にどもってしまったのは、小宮山一生の後悔にランキングしている。
だが、あの時握手してもらったのは俺の大切な思い出だ。滅茶苦茶綺麗なんだよな、日比野さん。
未希に会わせてほしいって頼んでいるが、忙しいらしく予定が合わないのだ。俺はいつでもOKだというのに。
『いつもいつも未希と仲良くしてくれてありがとうございます』
「いえいえ、こちらこそ未希の事をいつも面倒見てくれて」
何で親みたいなことを親じゃない俺たちが言いあっているのだろう。
スマホの向こうで未希が騒いでいるのが聞こえ、少しの間の後、静かになった。
『祐樹君、未希はこれからボイストレーニングなので静かにしました』
「そ、そうすか。それで、日比野さんはどんな要件ですか?」
日比野さんとこうして電話口で話すのは初めてだ。あまり接点もないし、関係性としては幼馴染の仕事の関係者。
そりゃあ、会った回数も少ないのは当然だし、というか会った事あるのが可笑しいのではないかとも思う。
日比野さんは少しの間、何もしゃべらなかった。
俺は通話が切れたのか、と思い画面を見るが切れておらず、日比野さんの声が聞こえてきたので耳を当てた。
『いえ、久しぶりに貴方の声が聞きたくなって』
「へぇっ!?」
『冗談です』
ですよねー、と答える。
日比野さんが冗談を言うような人だとは知らなかった。覚えておかなければ。だが、本当になぜなのだろう?
『では、私はこれで。またいつか会いましょうね、祐樹君』
「あ、はい。さようなら」
『さようなら』
通話が切れる。
いったい何だったのだろうか、と思い、画面を見つめていると未希からメッセージが届いた。
『お母さんがアップルパイ作ったから、取りに来てだって』
「おっけー、ありがとう。と」
メッセージを送信し、階段を下りる。
玄関を開けて、隣の家の前まで行く。
この辺の家は皆似たような形をしているが、この家は他よりも少しだけ大きい。どのくらい大きいかというと、この家は三階建て、俺の家は二階建て。そんな程度。
そして、ここが未希の家だ。
インターホンを鳴らすと、間延びした声が聞こえてくる。
『あっ、ゆうく~ん。未希ちゃんから聞いたね~。今持っていくわ~』
返事をする間もなく、インターホンは切られた。
カメラが付いているので、俺の事が分かったのだろう。
玄関のドアが開けられ、未希の母親である寧音さんがタッパーを持ってこちらにやってきた。
ゆったりとした服を揺らめかせて歩く姿は美しく、未希の母親だという事も頷かされる。
ゆるふわの茶色い髪、優しい印象を与える垂れた目尻。背はどちらかというと低い方だが、ゆったりとした雰囲気が包容力を底上げしており、背の低さで子供に間違われることは少ないらしい。
「は~い、ゆうくんありがと~う」
「こちらこそ、いつもいつもありがとうございます」
タッパーを受け取ると、確かな重みを感じた。
蓋を少し開けると、もう切って分けられたアップルパイが何個か入っていた。鮮やかな色身のそれの味は保証されている。何度かもらったことがあるが、絶品だった。
寧音さんはにこにこと笑いながら、
「ゆうくん、今日は未希ちゃんと何お話ししたの~?」
「別になんてことない話でしたよ、なんてことのない」
ふ~ん、と寧音さんは人差し指を顎に当てながら目を上に向ける。
「最近ね、未希ちゃんにゆうくんと何話してるのか聞いても、教えてくれなくなっちゃって」
「俺ら、高校生ですからね」
小学校の時ならいざ知らず、高校生にもなって友達と何話したかを親に言うやつはいないだろう。
「でも、貴方たち幼馴染じゃない~」
いったい何の関係があるのだろう。幼馴染という言葉には、俺の知らない意味合いがあるの?
寧音さんと世間話を少しだけした後、俺は家に帰った。もうそろそろ晩飯だから、あまり長い時間話していても迷惑だろう。
家に帰り、タッパーを冷蔵庫に入れようとリビングに入ると、
「おかえり、何もらってきたの?」
未だ、涅槃像はその姿を解いていなかった。お袋、そろそろ起き上がってくれ。