その1姫様はゾンビ(上)
「痛くないよ、もう死んでるからね。」
姫のその言葉に彼女はもう死んでしまっていることを痛感した。
町にゾンビウイルスが蔓延した、らしい。らしいというのはあまりにもその話が眉唾物に聞こえるから。
なんだよ、ゾンビになる生物兵器って。外国の映画じゃあるまいし。
でも笑うことは出来なかった。作り物の僕達を騙すにしては大人たちが真剣だったから。
テレビのアナウンサーはこの前天災が起きたときと同じ顔をしているし、目の前の担任は切羽詰まっている。第一、ふつう学校で民放を流すなんてあり得ない。それこそこんな非常地帯じゃない限りは。
学校は一斉下校になった。と言うよりは親の迎え待機といった方が正しいのかもしれない。
でもこんなすぐに迎えにこられる親はこのご時世あんまりいなくて、学校に残る人の方が多かった。
「現実身がねぇよな」
ぽつりとこぼした友達に頷きで返す。今は忙しくて彼らに構っている暇はない。
「先生たち、焦りすぎでしょ」
確かに一理ある。でも人を守る側からすれば当然だと思うよ。やりすぎて恥かくのと、遅れをとってしまうのだったらやり過ぎる方がよっぽどいい。そう思って、リュックを背負う。
「じゃあ、また明日」
「おい!内藤、おまえまだ、親来てねぇだろ」
友達の制止を振り切って俺は教室を飛び出した。目指すのは勿論病院、姫のいるところ。
姫、というと本物のお姫様を想像するかもしれないけど、僕の言う姫はそうじゃない。確かに大切で守りたくて可愛い存在なのはあってるけどね。
僕の姫、本名姫木真白。
同い年の女の子だ。
肩より少しだけ伸ばした黒髪と美味しいものを食べたときの笑顔が素敵な人で俺の幼なじみ。
幼い頃からのあだ名がそのまま残っていて姫、ナイト、と呼びあう仲。あ、騎士のナイトじゃないよ、内藤だからナイト。僕が騎士なのは似合わないけど、彼女が姫なのはものすごくぴったりなんだ。昔彼女が絵本のなかから出てきたんだって言われて危うく信じかけたぐらいには。
そんな姫は体が弱い。とても弱い。
僕が彼女と知り合ってから一度も姫は病院を出たことがない。最近はベッドから体を起こすのでさえも大変そうだった。
だから彼女は一人ではきっと逃げられない。僕が助けにいかなくちゃ。
電車を使って病院まで行こうと思っていたけれど電車は止まっていた。学校の最寄り駅は田舎でバスも来なければタクシーも止まっていない。仕方ない徒歩でいこう。一駅分だけ歩けば良いんだからなんとかなるでしょう。僕は駆け足で隣町に向かうことにした。
町の様子がおかしい。親しんだ町に違和感を感じる。その違和感が妙に気持ち悪くて気にさわる。
この違和感の正体は一体なんだろう。不気味すぎてついついその原因を探すように目をキョロキョロとさせてしまう。それでもわからないのに時間が立てばたつほどに背筋がゾッとするそうな気配がして鞄をぎゅっと抱き締めた。
不意にその違和感の正体に気がつく。そっか、やけに静かなんだ。人々が行き交う足音やその他生活音はするのに声だけが、人の声が聞こえないんだ。
音に気をとられていた僕はうっかりすれ違った女性とぶつかってしまった。
「すいま」
せん、と言おうとして顔を上げた瞬間後ろに下がった。ぶつかった相手の女性の顔を見てしまったからだ。やばい。最初に思ったのはそれだだった。体が考えるより先に逃げようと動き出す。
ぐんぐんとその場から離れる。景色はどんどん移り変わっていくのに頭にあるのはさっき焼き付いた女性の顔だけだ。
何あれ。率直な感想を上げるならそれだ。その後に怖さとか恐怖とか嫌悪感とかそういったものが出てくる。
あれは生きている人の顔じゃなかった。生きている人がしていい顔ではなかった。あれは、あれは一体。
「ひっ」
目に飛び込んできた光景に思わず声がひきつる。道行く人、人全てがだらりと全身から力が抜けたような本来歩けなさそうな歩き方で歩いていたからだ。
ゾンビ。テレビで言っていたことを今さら思い出す。目の前に広がるそれは確かにそれっぽい動きをしている。というよりも明らかに生きている人がしていい動きじゃない。
ゾンビウイルス、そうテレビでは言われていた。ウイルスってことは彼らは生きていたのだろうか。もしかしたら生きているのかもしれない。けど話しかけたくないな。
正直この先に進むのがとても怖い。進むにつれて悪化している人が増えているのは明らかだ。さらに先に進めばどうなっているのか考えたくもない。だけど姫のいる病院はこの先にある。進まないという選択肢は僕にはなかった。
病院はゾンビで溢れていた。
しかも今までで一番僕が知っているゾンビらしいゾンビだ。見た目の話じゃなくて行動が。何せ僕を襲ってくる。
「いよっと」
勢いづけて手すりに捕まって反対側についている手すりに飛び乗る。床に正体不明の液体とかその他もろもろが散乱していてちょっと足場にしたくない場所だったから。ついね。
そのあいだにもゾンビ達は追い掛けてくるけど、彼らはそんなに足が早くないからそこまで大変じゃない。
良かった!陸上部で!朝練ガッツリ放課後練はそこそこって文句につられて入っただけだけど入って良かった。お陰で体力だけはある。
姫の部屋は三階にあるから早く上に上がりたいんだけどなかなかそうもいかない。ゾンビは上の階にもいるからだ。
とりあえず今は上にいるゾンビを釣りだして今いる二階にまでつれてくる、をひたすら繰り返してる。帰りは帰るときに考えるつもりだ。
それよりかなりの時間病院のなかにいるはずなのに生きている人を見かけない。なんだかとても嫌な予感がする、急いで姫のところに行かなくちゃ。
階段をかけ上がる。かけ上がるといってもそこまでの速度じゃない。大切なのは早さよりも音を出来るだけ出さないこと。
ゾンビは五感が弱いのか大きい音をたてなければばれたりはしないがさすがに大きな音は気がつく。そしてやつらは数がいる。何人も音を聴いてやって来ることになるから大変なことになる。てかなった。あのときは流石に生きている気がしなかったよ。ダッシュで事なきを得たけど。
上がったところのすぐでゾンビがこちらのことに気がついてた。すぐさま元来た道を戻っていく。もう音をたてずに階段を上り下りするのは慣れた。伊達にここを往復していない。
そんな油断がいけなかったのか。
階段を下りるとそこにはゾンビが。しかもパッとみで数えられないぐらいの数。何あれ。
前にはゾンビ(複数)後ろにもゾンビ(一体)。因みに両サイドは壁。これはまずい。
しまった、囲まれた。背中の汗がつーと下に落ちていく。
逃げ場がない。今まではよく知った病院という地の利もあって袋小路になっている場所は避けてきた。
考えておくべきだったな、と後悔する。こうなるのは最初から念頭に入れておくべきだった。思い付かなかったのだからどうしようもない。後悔するのはあとで良い。今はどうやったらここから抜け出せるか、それを考えよう。
前にいる、階段下のゾンビも、後ろにいるゾンビも僕のことに気がついて近づいてきている。
逃げ場は、やっぱりない。
ナイト。
姫が僕を呼ぶ声がした気がした。
ナイト。日本語で騎士。僕はそんなに強くないけれどそうなりたかった。ずっとずっとそう思ってたじゃないか。
目は閉じないで物語を思い出す。騎士様はいつだってかっこいい。こんなピンチのときだって。
階段を一直線にかけ上がる。
ゾンビが目の前に迫ってくる。
怖いけどまだだめだ、もっと近づかないと。
心臓がばくばくしてうるさい。
心音が大きくなればなるほどに相手の動きがスローになっていく。
ゾンビは相変わらずふざけた姿勢でこっちに向かってくる。目は濁りきっていて何をうつしているのかさっぱりだ。
あともう少しで相手のてを伸ばしたら届くような距離。ゾンビが勢いよく片手を振り上げた。今だ。
ダッシュ、走れ、全速力で加速しろ。
体を前に思い切り倒して無理矢理にでも足を前に出させる。
いきなりスピードを上げた僕についていけないゾンビ達を置き去りにして更にスピードをあげていく。あちこちに散乱した治療器具を避けて避けて避けていく。
後ろを気にする余裕はない。道は分かる。例え目を瞑っていたってたどり着ける行きなれた場所。ただ、ただ目指す場所は姫の病室だ。
扉を開ける。勢いのついたそれはただ開くだけに留まらず、大きな音を立てて戻ってきた。それを肩で止めながら病室に飛び込む。
少し殺風景な白いへや。清潔そうなシーツ。風に揺れるカーテン。昨日置いてった花。なにもかにも記憶通りの部屋なのに一番大切なものが記憶通りじゃない。
そこにいるはずの姫が、いない。
「ヒ、メ……?」
自分の出した声なのにやけに遠くに聞こえる。
あんなに五月蝿かった心音さえも聞こえずに、つーと伝う汗の冷たさだけがいやに伝わる。
目が離れない。姫がいない姫のベッドから。
柔らかそうな布団の端がベッドから落ちて床についてしまっている。自力では動けない彼女の車イスは、ベッド脇におかれたままだ。なのに、彼女だけがいない。どうしようもなく、いない。
ぱん、とガラスを踏み抜く音がして、一気に音が景色が時間が体に戻ってくる。再び心臓は躍動をはじめて、耳が音を集めて、目が景色から情報を抜き出す。
雑踏の中練り歩いて居たときのような騒がしさが向こう側からやって来て首をかしげる。ここは静寂を良しとする病院のはずなのに。
遅れて理解する。今は平時ではない。
姫が居ないことに気をとられてすっかり忘れてた。
やって来る音はだんだんと大きくなっていく。それはやつらが近づいてきていることを示していて。
開かれたままの扉からやつらが一体、また一体とやって来る。
ヤバイもう逃げ場がない。
唯一の逃げ場である入り口はやつらの侵入口になってしまっている。そして三階の窓から飛び降りるだけの度胸は、ない。
ゾンビ達が一歩僕に近づく度に心臓がドクリと跳ねる。
僕も一歩下がろうとして、しかし、それは叶わなかった。壁だ。行き止まりだ。
どんどんと近づいてくる彼らは勝ちを確信したのかいやにゆっくりだ。
どこを向いてもゾンビが目に入る。そんな近くまで近づいた彼らに、不思議と恐怖はなかった。ただ痛いのはやだなぁと思いながら目を瞑る。彼らがニタリと笑った気がした。
「ナイトッ」
鋭い声がしたのと同時にものがなぎ倒されるおとがした。
懐かしい暖かな声に薄く目を開ける。誰かが僕に襲いかかったもの達を棒であっという間に倒していく。
長い髪が光に照らされて緩やかに光っている。逆光でよく見えない上に近すぎて焦点がうまくあわない。
目が光になれてゆっくりと人物が形作られていく。
「姫っ」
その正体に気がつく前に口に出る。やった。姫だ、姫がいる。僕はとっさに駆け寄る。
「動いて大丈夫なの!?ていうか動けるの!」
姫が立っている。
今までは上半身持ち上げるのがやっとだったのに。
「大丈夫。もう死んでるからね!」
そういう彼女はとても明るい笑顔を見せた。