龍神の伝説
時刻は日が傾き始め、空が赤く染まりだす少し前だ。湯浴みを終え、少女は鏡の前に立った。同じ年頃であるはずの世話係の少女たちと比べてまだまだ幼い自分の容姿に、少女は思わずため息をつく。
(うぅ……どうせ見られるなら、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいるメリハリのきいた体型でありたかった……)
青年に見られてしまったことと奉納する舞を踊る際に多くの人に見られることになってしまうのを思い出してしょんぼりとしながら、袖を通す。
祭りが始まってからはずっと神殿に籠って舞の練習に勤しんでいるため、肌を晒している時間が長い。湯浴みのあとと食事のとき以外に服を着ていないことに気付いて、再びため息をついた。
(なんで大勢の人間の前で裸同然の格好で踊らなきゃならないのよ……。巫女の仕事だっていっても、やらされる側のことも考慮して欲しいもんだわ……)
衣服を身につけ、鏡の前に椅子を置くと髪を梳る。空よりも深い青い色の長髪は、まだ水気を多く含んでいて重たい。それでも櫛が途中で引っかかることなくするりと抜ける。
(……今日を入れてあと三日――それがあたしの生きられる時間。明後日の夕刻には、あたしは龍神様の糧になるのか……)
鏡を見るたびに、あと何日生きられるのかを考えてしまう。少女の瞳に宿る青い光、腰まで伸びる青い髪はこの町を守護する青の龍に選ばれし者のみが持つものだからだ。
年頃を迎えて発現するその色に町の人々が歓喜し、選ばれた少年少女はいつだって最初は絶望し、そして運命を受けいれる。
ザフィリで十七年に一度の周期で盛大に行われる青龍祭は、青の龍に選ばれた印を持つ少年少女が主役だ。ひと月に渡る祭りの最終日にその主役が舞を披露し、その命を捧げることで終えるのだった。エラザ共和国がその名を使うようになるはるか昔から、この土地で行われてきた風習である。
――神は人間を喰うなんて真似はしない。どうか俺を信じてくれ。
不意に日中に出会った青年の言葉を思い出す。
(どういう意味だったのかなぁ、あれは……)
自分を励ますために出任せで告げた台詞ではないとは思えた。しかしその真意を少女は測りかねる。
(もしも、あたしが死ななくてもいいっていう意味だったら、嬉しいんだけどな……)
そんなことを考えて口元を綻ばせ、すぐに悲しい表情を作る。その願いが叶わないことを知っているからだ。たとえ、命を賭す必要がなかったとしても、この町の人間がどう思うかはわからない。今までの仕来りが、結果的に少女を殺す。
(――話を聞きに行ってみようかな……)
揺れていた心が静けさを取り戻す。少女は櫛を置くと手早く髪をまとめて結った。
「よしっ」
決めてしまえば早いものだ。青年が捕まっているだろう場所の見当はついている。少女は誰にも見られていないことを確認すると、抜け道に向かって駆けたのだった。
神殿の地下から行くことのできる狭い部屋の並ぶ場所。そこは龍神様に捧げる供物を保存しておくための倉庫のような役割を果たしており、今は牢屋の代わりに使用されることもあると少女は知っていた。町の中心部から離れた辺鄙な場所で、繁華街に行くにも険しい山道が一本あるだけ、他の道は断崖絶壁というこの立地の都合上、空を飛ぶことができなければ外部に行く手段がないに等しい。この神殿に連れてこられたときに退屈しのぎに散策し、この場所への道を少女は知ったのだった。
「――やっぱりここに閉じ込められていたのね」
狭い部屋の一つ、鉄格子がはめられたその場所に黒髪の青年はいた。少女が一人で現れたことに驚いているらしく、目を丸くしている顔が角灯に照らし出された。
「さっきは説得することができなくてごめんなさい」
「それを言いにわざわざ来てくれたのか?」
「違います」
青年は魔術錠をつけられた状態だった。逃げ出すことができないようにするためだろう、装飾品の一切が没収され、黒っぽい長袖の肌着と身体の線がわかるズボンのみ着用していた。少女が最初に見かけたときの格好とはだいぶ印象が違う。ここまでやるものなのかと思いながら、少女は格子に寄りかかるように腰を下ろす。
「その様子だと、逃がしてくれるつもりもないようだな」
「えぇ。青龍祭が無事に終えられるよう、この町の人々があなたを閉じ込めておくと決めたのなら、あたしはそれを破ろうとは思いません」
「なるほどね。それはある意味、賢明だ」
ここから出してくれと懇願してくるだろうと思っていたのにあっさりと引かれ、少女は目を瞬かせると青年を見やる。
「……もう少し粘るんじゃないかと思っていたのに、意外だわ」
「君が困るのはわかるからね。無理に頼んだりしないよ」
とても落ち着いた声だ。牢に閉じ込められている人間のものとは思えない。侵入を行ったことは事実であり覆すことができないだろうが、少女に乱暴をしたかといえばそうではない。完全な濡れ衣であるのに、青年は憤りを覚えたりしないのだろうか。
「ずいぶんと余裕ですね。怖くはないの?」
「あいにく、拘束されることには慣れているんで」
「えっと……犯罪者さんなの?」
拘束されることに慣れていると聞いて思い浮かんだのはそんなことくらいだった。少女の問いに、青年は肩をすくめる。
「誤解されやすい性格ってだけ。俺は自分に非はないと思っているからさ、相手を信じて静かに待つようにしてる。動けば動くほど、自分が不利になるのを理解しているからね」
(それはずいぶんとツキに見放された人間であること……)
果たしてそれは賢い人間のすべき行動だろうか。少女は疑問に感じながらも、青年を憐れに思った。
「――そういえば、自己紹介がまだだったな。俺はヘイゼル=ドラッへ=バルト。ユライヒト帝国第一都市モルゲンロートの使節団に所属している。ここへは青龍祭の視察で来たんだ」
「モルゲンロート? モルゲンロートって、裏切りの黒の龍を封印した場所ですよね?」
問いながら、少女は自身の親たちから聞かされてきたこの世界の創造と龍神たちの話を思い出す。
この世界を創造した精神の塊――それはやがて九体の龍となって各地に散らばり、守護するようになった。しかし、平和な時代は続かない。あるとき、黒の龍が人間に愛想を尽かして他の龍達に刃向かった。残る八体の龍は黒の龍の心変わりを沈めようと手を尽くす。それでも完全に封じることはできなかった。力を貯め、破壊の力を司っている黒の龍は圧倒的な強さを持っていたのだ。黒の龍は、封じられずに残った自分の力を新たなる生物に分け与えて地上に放つことにした。それが黒の龍の血縁者と呼ばれる者たちであり、その者に付き従うのが魔物である。安定していた大地は異常を示し、混沌の時代へと移行した――そんな物語が言い伝えとして残っている。
その伝説の中でも、モルゲンロートは重要な地名だ。モルゲンロートは赤の龍の守護範囲であると同時に、完全ではないとはいえ、黒の龍を封印した場所とされている。言い伝えの関連としてモルゲンロート使節団があり、表向きは外交を目的とした国家機関であるが、その主な仕事が各地に散らばり守護する龍の祭りの状況を視察であるということを、少女は兄から聞いていた。
「よく知っているな。最近は祭りのことは知っていても、その背景にある伝説を知らない人も多いってのに」
「あたしの家、代々青の龍の生け贄を送り出している家柄なんです。――って、あたしも自己紹介していませんでしたね。あたし、ルルディ=ドラコス=ロトスって言います。……知ってもらったところで、あたしの命、残り三日も無いですけどね」
名乗って、ルルディは自嘲気味に笑う。今知り合ったところで、その運命が変わることはないだろうという諦めの気持ちがにじみ出ていた。
対して、ヘイゼルの目には輝きが増す。
「やはり君が今期の青の龍の生け贄か。その青い目と髪を見て、もしやと思ったんだが」
「モルゲンロートの使節団にいるだけあって詳しいですね」
青の龍の生け贄を示す印のことを知っているのは地元の人間だけだと思っていたルルディは、素直に感心する。
「確かに使節団では勉強したが、この知識は赤の龍から直接もらったものだ」
さらりと告げられる台詞。ルルディはそのまま聞き流しそうになったが、違和感に気付いてヘイゼルの顔をまじまじと見つめた。
「……赤の龍から?」
その問いに、ヘイゼルはゆっくりと頷いて微笑む。
「え? ど、どういうことですか?!」
身を乗り出し、真剣に聞こうと耳をそば立てる。彼は真面目な顔をして告げた。
「俺は赤の龍の生け贄だったんだ」
「だった……? あ、そっか。生け贄って、二十歳を越えた人間は対象外になるんでしたっけ」
ルルディは自分の兄が二十歳になるのを待ってから町を出て行った理由を思い出す。生け贄の印が二十歳を迎える前の少年少女にのみ現れることは、ザフィリの青の龍では一般的に知られていることだが、どうやら他の町を守護している龍の祭りでも同じことらしい。
「その通り。俺は聖都市ルビーン出身で、ルビーンにもこのザフィリと同じように龍神に生け贄を捧げる風習が残っている。――ところで、君は知っているか? 二十歳を迎える前の子は龍の力になるが、それを越えるとその力はすべてその子のものとなる。その身を捧げんとするを拒む者は……神殺しとなる、という言い伝えを」
「えぇ。お祖父様から聞いてます」
だから、神様の言いなりになるしかない、ひとりの犠牲で大勢が助かるのだから、その犠牲を払う我が家系は誉れ高い一族なのだと祖父が言っていたことをルルディは思い出す。
「しかし、本当は違うんだ。伝説は人間たちに意図的に歪められたものなんだよ。真実はこうだ。――龍の手から二十歳になるまで逃れ続けた者は、龍を地上に降ろす力を得ることができる。つまり、龍神がこの世を偵察するための媒体になるということだったんだ」
「媒体に? えっと……じゃあ、あたしは青の龍神様がこの世界を見るための器になるってことなんですか?」
「飲み込みが早いな」
嬉しそうに告げるヘイゼルに、ルルディは興奮気味に顔を寄せる。
「それが本当ならあたし、生き残らなきゃいけないじゃないですか」
「そういうことだ。――俺はこの事実を他の龍の生け贄に選ばれた人間に伝えるために旅をしている。この代ですべての龍を地上に呼び出し、黒の龍によって衰退しつつあるこの世界を救うのが目標だ。今の時点では俺の中に居るルビーンの赤の龍、モルゲンロートに封じられていた黒の龍、クリステリア王国聖都市エメロードで祭られている緑の龍の三体がこの世界に呼ばれている」
人間嫌いの黒の龍の力がこの世界に及んでいると知って、ルルディは身体をびくりと震わせる。そして不安な気持ちが言葉に変わる。
「すでに黒の龍がこちらにいるんですね……」
「あぁ、そうだ。厄介なことに黒の龍に俺の顔は覚えらちまっていてさ、何かと邪魔されているんだけど」
そこまで言って、ルルディの表情が強張っているのに気付いたらしい。補足するようにヘイゼルは続ける。
「――あ、今は心配ないぞ。緑の龍が協力してくれたおかげで、しばらくは直接手を出せないだろうからな」
その台詞に多少は安堵できたルルディだったが、別の問題が頭を過ぎる。
「はぁ……しかし、あたし、十六になったばかりなんで、あと四年はその黒の龍の脅威に晒されるってことなんですよね?」
そんな彼女の憂鬱そうな問いに、ヘイゼルは不思議そうな顔をした。
「……十六?」
「はい? あたし、十六歳ですけど、それが?」
「……て、てっきり十二歳やそこらかと……」
「なっ……!? ちょっ……失礼なっ! あたし、確かに背は低いですし、顔も幼いですし、発育も悪いっちゃあ悪いですけど、気にしているのにっ、ひどいっ! ひどいですっ!」
「しーっ! 静かに。悪かった、悪かったって! つーか、俺、そこまで言ってねーんだけど」
落ち着けと手をパタパタされて、ルルディは顔を真っ赤にしたまま深呼吸をする。何とか平常心を取り戻し、会話を続行させることにする。
「――は、話戻しますけど、あたし、黒の龍と対抗できる自信、ありませんよ? 武器で戦うことも、魔法を使うこともできない、ごく普通の町娘なんですから」
武術や剣術、魔術や呪術など、習う気になればちょっとしたたしなみ程度に学ぶことは可能だ。そのくらいの情報は首都であるこの町で生活する人間がその気になれば日常的に手に入る環境にある。
しかし、ルルディはそれらを学ぶことを望んでいても、叶うことはなかった。おそらく、生け贄が容易に脱走できないようにするためだろう。ゆえにルルディは他の人間たちが知っているだろうそういった知識に飢えており、二十歳になるまで生け贄に選ばれなかったら町で学び、いつか外の世界で自分の知らないものを見たり触れたりしたいとずっと願っていた。
彼女の意見に、ヘイゼルは返す。
「青の龍の力さえ手に入れば、大丈夫だろう。鎮魂と浄化を司るといわれる青の龍の力だ。身を守る手段くらいあるんじゃないか?」
(む、無責任な……あたし、舞を舞うくらいしか能がないのに……)
気落ちするルルディであったが、そこではたと気付く。
「あれ? 青の龍の力が手に入ればってことでしたけど、どうやって手に入れればいいんですか?」
身体に異変があったとすれば、瞳の色と髪の色が変わってしまったことくらいだ。そのほかの能力についてはなんら変わったようには思えない。ルルディは首をかしげた。
「とても良い質問だ」
ヘイゼルは言って、鉄格子に近づく。そして、真面目な顔で告げた。
「ルルディ、よく聞いて欲しい。――君はこの祭りで舞を踊らねばならない。生け贄の儀式まで全部やり通す必要がある」
(……なんですって?)
言っている意味がわからない。ルルディは血の気が引いていくのを感じる。
(生け贄の儀式をしたら、あたしはやっぱり死んで――)
嫌な光景が脳内に広がっていく。断崖絶壁にある祭壇。そこから身を投げる幼い少女の姿――。
「不安がることはない。俺が手助けしてやる。だから、俺を信じて協力して――」
「信じろって? 冗談じゃない」
ヘイゼルの台詞を遮り、ふんっと鼻で笑い飛ばして続ける。
「あたし、死ぬかもしれないのに、どうしてそんなことができるっていうのよ?!」
「ルルディ?」
ルルディは勢いよく立ち上がり、悲しみに満ちた瞳で彼を見下ろす。
「あたし、舞を踊るのも、生け贄になるのも本当は嫌なのっ! なによ……あなたに話せば避けることができると思ったのに……期待したあたしが馬鹿だったわっ!」
頭にすっかり血が上っている。身体は恐怖でひんやりとしているのに、思考は完全に沸騰していた。
「あなたには頼りません。――さようなら」
背を向けたまま冷たく言い捨て、ルルディは来た道を駆け出す。
話をするだけ無駄だと思い、一刻も早くここを去りたかった。引き止める声が聞こえたような気がしたが、ルルディは一度も振り向かなかった。