大きいほうを、あなたに
夜明け前の厨房は、まだ火の気がなくて冷たい。
ナディアは二人分として用意されたパンを受け取り、屋根裏への階段を上った。二つのパンは硬くて小さい。屋根裏の二人に出る朝の食事は、これだけだ。
「お嬢様」
小窓のそばで、リーナが待っていた。十五になったばかりの下働きの少女で、ナディアと同じく、屋敷でいちばん寒いこの部屋で寝起きしている。
「その呼び方はだめだって言ったでしょう。奥様に聞かれたら、あなたが叱られるわ」
そう言いながら、ナディアはリーナにパンを一個渡す。
「でも、お嬢様はお嬢様です」
リーナは頑固だ。ナディアは諦めて、自分のパンまで両手で割った。
きれいに半分とはいかない。どうしても、大きいほうと小さいほうができる。
ナディアは大きいほうを、リーナに差し出した。
「……そんな、お嬢様の分までいただけません」
「あなたは育ち盛りでしょう」
「お嬢様だって、二つしか違いません」
「二つも違えば、十分よ。それに、昨日ふらついていたでしょう。食べなきゃダメよ」
リーナは唇を尖らせたが、最後には受け取った。
ナディアは手に残った小さいほうをかじる。それで空腹が満たされるはずもない。それでも二人で食べる朝は、一人で食べる朝よりずっとましだった。
屋根裏の寝台は二つ。けれど毛布は、二枚ともリーナの寝台に掛かっている。冬にリーナが熱を出した夜から、ナディアは自分の毛布もリーナに使わせていた。返そうとするたびに、首を横に振って。
ナディアは、無意識に胸元へ手をやった。
服の下に、細い銀の鎖がある。三年前に亡くなった父の、たった一つ残った形見だった。
階下で鐘が鳴った。奥様のお呼びだ。
「行ってくるわ。今日は大広間の床磨きだから、リーナは洗濯場をお願いね」
「お嬢様、手が……」
リーナの視線が、ナディアの手に落ちた。指の節はあかぎれで割れ、ところどころに血がにじんでいる。
「平気よ。春になれば治るわ」
ナディアが笑ってみせると、リーナは何か言いたげに黙り込んだ。
階段を降りる途中、ナディアの腹が小さく鳴った。
(リーナの前で鳴らなくて良かった……)
◇
ナディア・エヴァンスは、エヴァンス伯爵家のひとり娘だった。
三年前、父が病で亡くなったとき、ナディアは十四だった。母はもっと前に亡くなっていて、屋敷には父の後妻ドロテアと、その連れ子のジゼルが残った。
葬儀の翌日、ドロテアは父の書斎で、懐中時計を手に取った。
父が戦場から持ち帰り、毎朝ねじを巻いていた時計だ。幼いナディアは父の膝の上で、胸元で揺れる銀の鎖を指でつまんで遊んだものだった。
「これはな、大切な友人からもらったものなんだ」
父はいつも、そう言って笑っていた。
「それは……父の形見として、私がいただくはずのものです」
「あら。この家のものは、今はすべて私が管理しているのよ」
ドロテアは時計から鎖を外し、ナディアの足もとへ投げた。
「お前には、オマケで充分よ」
そう言ってドロテアは笑った。時計のオマケの鎖。この家のオマケの娘。どちらの意味なのかは、聞かなくてもわかった。
その日から、ナディアの部屋はジゼルのものになった。ドレスも、母の真珠の首飾りも消え、ナディアは屋根裏で寝起きする下働きになった。屋根裏には、その年に雇われたばかりのリーナがいた。
お前を養う余裕はないのよ、とドロテアは言った。けれど屋敷の暮らしは、少しも質素にはならなかった。
父の遺言で、伯爵家の財産はナディアが十八になるまで、後見人のドロテアが預かることになっていた。ナディアを追い出せば、親類や王国の目が屋敷に向く。屋根裏に置いておけば、誰の目にも触れない。
外には、父の死を悲しむあまり、部屋に閉じこもっていると説明されていた。
父の代から仕えていた使用人たちは、一人、また一人と屋敷を去っていった。
それから、三年が過ぎた。
◇
洗濯場から、悲鳴が聞こえた。
ナディアが駆けつけると、ジゼルの前でリーナがうずくまっていた。床には、染みの残った絹のリボンが落ちている。
「明日のお茶会で着けるのよ。それをこんなにして。今夜は食事抜きね」
「ジゼル様。そのリボンは、私も一緒に洗いました。叱るなら私を」
「ふうん。じゃあ、二人とも――」
「それから」
ナディアはジゼルをまっすぐに見た。
「リーナはまだ十五です。食事を抜けば倒れます。下働きが倒れたと街で噂になれば、ジゼル様の縁談に影響するのではありませんか」
ジゼルの顔がひきつった。良い縁談を探すのに、彼女は今、必死なのだ。
「……っ、もういいわ! そのかわり、あなたは今夜、食事なしよ!」
ジゼルが去ると、リーナが震える声で言った。
「お嬢様、どうして……」
「嘘はついていないわ。昨日、少し手伝ったもの」
その夜、夕食として配られるはずだったナディアのパンは出なかった。
屋根裏に戻ると、リーナが自分のパンを割っていた。
そして大きいほうを、ナディアに差し出した。
「これは、お嬢様の分です」
「リーナ、それはあなたの……」
リーナは、泣きそうな顔で笑った。
「私だって、お嬢様に何かあげたいんです」
ナディアは、受け取った。冷えたパンなのに、不思議と温かかった。
小窓の外に、星が出ている。ナディアは服の上から鎖を握った。
(お父様。私、まだ大丈夫です)
◇
侯爵家から客人が来る――その知らせに屋敷が沸いたのは、それから間もない、春の始めだった。
グレンフォード侯爵家。王国でも指折りの名門で、その嫡男セドリックが、縁談の件で自ら訪れるという。
「亡き伯爵の娘との縁談、ですって」
ドロテアは手紙を握りしめ、目を細めた。
「ジゼル。あなたが縁談の席に出るのよ」
「えっ? でも、お相手が望んでいるのはナディアでしょう?」
「だから何だというの。あの子は病で臥せっていることにすればいいわ」
ドロテアは、手紙を卓に置いた。
「あなたも亡き伯爵が慈しんだ娘だと申し上げればいい。侯爵家だって、病の娘より、健康で社交のできる娘を迎えるほうが喜ばれるに決まっているわ」
「でも、断られたら?」
「あの子が十八になれば、財産はすべてあの子のものになる。そうなれば、私たちはこの屋敷から追い出されるわ。その前に侯爵家と縁を結んでおけば、誰も私たちに手出しできなくなる」
ナディアは廊下の拭き掃除をしながら、それを聞いていた。
その夜、ドロテアはナディアを呼びつけた。
「お客様の前では、ただの下働きとして振る舞いなさい。もし名乗ったりしたら――あのリーナという子、紹介状なしで追い出すわよ」
紹介状のない下働きを雇う家は、どこにもない。ナディアは、黙って頭を下げた。
縁談に興味はなかった。ただ、侯爵家という名が、なぜか胸に引っかかった。
当日。
ナディアはリーナの昼食を布に包んで、裏庭へ続く廊下を急いでいた。洗濯場は今日、客人用のシーツで手が離せない。
曲がり角で、一人の青年と鉢合わせた。
上等な外套に、飾り気のない身なり。供の者だろうか。
「失礼。厩舎はどちらでしょう。馬の様子を見ておきたくて」
「厩舎でしたら、この先です。途中までご案内いたします」
先に立って歩き出すと、青年がナディアの腕の中に目をやった。
「それは?」
「友人の昼食です。今日は洗濯場を離れられないので」
青年の視線が、包みからナディアの手へ移った。ナディアは、あかぎれだらけの手を、そっと包みの陰に隠した。
洗濯場の前を通りかかったとき、中から怒声が聞こえた。
「客室のシーツが二枚足りん! お前がなくしたんだろう!」
執事が、リーナを怒鳴りつけている。
ナディアは、扉を開けた。
「足りない二枚は、今朝ジゼル様がお部屋へ持っていかれました。ご確認いただければわかります。リーナのせいではありません」
執事は舌打ちして出ていった。ナディアはリーナに包みを渡し、振り返った。
青年が、黙ってこちらを見ていた。
「申し訳ありません。お見苦しいところを」
「いえ。あなたは、友人を守っただけでしょう」
思いがけない言葉だった。
「……大切な友人ですから」
「そうですか」
青年は、少しだけ微笑んだ。
「あなたは、ご自分のことより、友人のことを先に考えるのですね」
「そんなことは……」
ナディアは、言葉に詰まった。
誰かにそんなふうに言われたのは、初めてだった。
「ただ、リーナには元気でいてほしいんです」
「では、あなたに元気でいてほしいと思う人も、きっといるのでしょうね」
ナディアは、青年を見上げた。
穏やかな目だった。あかぎれだらけの手も、古びた下働きの服も、少しも気にしていないようだった。
青年は何かを言いかけて、それからナディアの胸元に目を留めた。
「その鎖。ずいぶん古いものですね」
いつの間にか、服の外にこぼれていた。ナディアは慌てて仕舞った。
「父の形見です。……厩舎は、あちらの扉を出て右です」
「ありがとう。――お名前を、伺っても?」
ナディアの指先が、包みのなくなった胸の前で、きゅっと握られた。
「……申し訳ありません。仕事に戻らなくては」
ナディアは頭を下げ、小走りに立ち去った。
青年は、その背中をしばらく見送っていた。
◇
侯爵家の客人を迎えるため、屋敷は朝から慌ただしかった。人手が足りず、ナディアも応接室の給仕に駆り出された。
お茶を運び入れて、ナディアは息を呑んだ。
ソファに座っていたのは、さっきの青年だった。
「グレンフォード侯爵家のセドリックです」
セドリックは一瞬だけナディアを見た。けれど、何も言わなかった。
「……ジゼルでございます」
ジゼルの首元で、母の真珠が光っていた。
「……伯爵には、ナディアというお嬢様がいらしたと、父から伺っておりますが」
ナディアの手の中で、茶器がかすかに鳴った。
「ええ。ですが、あの子は病で臥せっておりまして、とても縁談のお話など。ジゼルも、亡き夫が娘として慈しんだ子ですのよ」
セドリックは、何も答えなかった。
ただ、その視線が一瞬だけ、茶器を持つナディアの手に落ちた。
「セドリック様?」
ジゼルに呼ばれ、セドリックは顔を上げた。
「私、刺繍が得意ですの。最近は王都で流行の図案を取り寄せておりますのよ」
「そうですか」
「侯爵家のお庭は、とても広いのでしょう? ぜひ一度、拝見したいですわ」
「ええ。父が大切にしております」
ジゼルは嬉しそうに笑った。
けれどセドリックは、それ以上話を広げなかった。
ドロテアが、恭しく小箱を差し出す。
「こちらは亡き伯爵が大切にしていた懐中時計ですの。侯爵様から賜ったものと伺っております。ジゼルが、肌身離さず持っておりまして」
父の時計だった。
三年ぶりに見るそれは磨き上げられ、鎖のかわりに、安っぽいリボンが結ばれていた。
セドリックは時計を手に取り、蓋の内側を見た。
「父から聞いていたとおりの時計です。蓋の内側に、我が家の紋がある。確かに、父が伯爵に贈ったものです。……ジゼル嬢。伯爵はこの時計について、何かおっしゃっていましたか」
「え、ええ。とても……大切なものだと」
「どなたから贈られたものだと?」
「それは……侯爵様から、ですわよね? お母様」
セドリックは何かを確かめるように、もう一度時計の蓋の内側を見た。けれど、それ以上は尋ねず、時計をそっと小箱に戻した。
「この時計のことは、父のほうがよく存じております。父は王都での公務を済ませてから、今日の夕刻、こちらへ到着する予定です。ナディア嬢に、どうしても直接お会いしたいと申しておりました」
ドロテアの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
「まあ……あの子の具合次第ではございますけれど。どうぞ、ごゆっくりお待ちくださいませ」
ナディアはお茶を注ぎながら、指先の震えを隠した。
父と侯爵がどういう間柄だったのか、ナディアは知らない。ただ、父にはいつも「大切な友人」と呼ぶ人がいた。
(もしかしたら)
けれど、ナディアはそれ以上考えるのをやめた。
セドリックの視線が、再びナディアに向けられた。
ジゼルは、唇を噛んだ。
「……お茶のおかわりをいただけるかしら」
「かしこまりました」
ナディアはポットを手に、ジゼルの隣へ進んだ。
カップに紅茶を注ごうとした、そのとき。
ジゼルの手が、ナディアの手首にぶつかった。
ポットが傾き、熱い紅茶がジゼルのドレスの裾にこぼれた。
「きゃっ!」
ジゼルは椅子から立ち上がり、ナディアを睨みつけた。
「何をするの! わざとこぼしたでしょう!」
「いいえ。ジゼル様の手が、私の手首に……」
「口答えをするものではありません」
ドロテアの声が、冷たく落ちた。
「下働きの言い訳など、聞くに値しません」
ナディアは口を閉じた。
そのとき、茶菓子の皿を持ったリーナが応接室に入ってきた。
「お嬢様……!」
ナディアの濡れた手を見て、リーナが駆け寄ろうとする。
「誰がお嬢様よ!」
ジゼルが声を荒らげた。
「主人の許しもなく勝手に動いて! そんな下働きばかりだから、こんなことになるのよ! 二人とも、今夜は食事抜きね!」
「リーナは関係ありません」
ナディアは、リーナの前に一歩出た。
「お叱りになるなら、私だけにしてください」
「いいえ」
静かな声だった。
セドリックが、手にしていたカップを受け皿に戻す。
「そもそも、どちらも叱られる理由がありません。今のは、私も見ていました」
応接室が、しんと静まり返った。
ジゼルの頰が赤く染まり、ドロテアの扇が、ぱちりと閉じられる。
「……まあ。私の見間違いでしたかしら。失礼いたしましたわ」
ドロテアは笑った。けれどその目は、少しも笑っていなかった。
この屋敷でナディアの言葉が信じられたのは、三年ぶりのことだった。
ナディアが茶器を片付け、応接室を出ようとしたとき、セドリックが声をかけた。
「お茶をありがとう。……その手は、手当てをしたほうがいい」
ナディアは、返事ができなかった。
セドリックは、彼女にだけ聞こえるように声を落とした。
「あなたに元気でいてほしいと願う人の中に、私も加えていただけませんか」
ナディアは思わず、顔を上げた。
けれどセドリックは、それ以上何も言わず、穏やかに微笑んだ。
胸の奥が、なぜか温かくなった。
◇
夕刻、侯爵が到着した。
白髪まじりの大柄な男で、左足をわずかに引きずっていた。
侯爵家の供の者たちの世話も重なり、ドロテアは今度も、ナディアを給仕から外すことができなかった。
ナディアは、開いたままの応接室の扉の脇に控えていた。茶器を下げる盆を抱えたリーナも、その後ろの扉の陰にいる。
「オズワルド様。亡き夫が、生涯大切にしておりました時計でございます」
侯爵は、長いこと時計を見つめていた。それから、静かに言った。
「鎖はどうした?」
「……鎖、でございますか?」
「この時計には、銀の鎖を付けて贈った。留め具に、私とローレンスの頭文字を刻ませてな。学院時代、二人でふざけて机に彫った字を、そのまま職人に写させたものだ」
ドロテアの目が、わずかに泳いだ。そして、すぐに微笑んだ。
「まあ。きっとお思い違いでございますわ。この時計には、最初から鎖など付いておりませんでした」
扉の脇で、ナディアは胸元に触れていた。
ほんの、無意識の仕草だった。けれど、その仕草にセドリックが目を留めた。
「父上。あの鎖なら、昼間に見ました」
部屋中の視線が、扉の脇のナディアに集まった。
ドロテアの顔から、血の気が引いていく。
「あれはただの下働きで――」
「こちらへ来てくれないか」
侯爵の声は、穏やかだった。
ナディアは前に出て、首から鎖を外した。指が震えて、なかなか留め具が外れなかった。
大きな手が、鎖を受け取る。
留め具を裏返すと、すり減った小さな二つの文字があった。LとO。
侯爵は、それをじっと見つめていた。
「ローレンスは、この鎖のことを、何と言っていた」
ナディアの喉が、小さく鳴った。
「……これはな、大切な友人からもらったものなんだ、と。いつも、そう言って笑っていました」
侯爵は、ゆっくりと顔を上げた。そして、ナディアの目を見た。遠い誰かを、そこに探すように。
「……君は、ローレンスの娘なのか」
ナディアは一度だけ、ドロテアを見た。それから、セドリックに目を向けた。昼間、ナディアの言葉も、リーナのことも、信じてくれた人だった。
(もう、黙っていなくていい)
ナディアは、まっすぐに侯爵を見上げた。
「はい。ナディア・エヴァンスです」
侯爵が、目を閉じた。
「病で臥せっているはずの娘が、なぜ下働きの服を着て、廊下に立っている」
誰も、答えなかった。
「……すべて、この子が勝手にしたことでございます!」
ドロテアが、ジゼルを指さした。
「ジゼルが姉の物を欲しがって……私は何度も止めたのです!」
「お母様!?」
ジゼルが立ち上がった。
「鎖を投げてやればいいって言ったのはお母様じゃない! 屋根裏に住まわせろって言ったのも! ナディアの代わりに縁談を受けろって言ったのも!」
「黙りなさい!」
「黙らないわよ! 私だけ悪者にする気でしょう!」
侯爵は、二人の方を見もしなかった。
「この屋敷で、何があったのか。証言できる者はいるか」
そのとき、扉の陰から、震える声がした。
「わ、私が……証言、します」
リーナだった。
エプロンを握りしめ、真っ青な顔で、それでも一歩ずつ前に出てくる。
「お嬢様は、三年間、屋根裏で暮らしていました。朝は小さなパンが一人一つだけで。お嬢様はご自分の分まで半分に割って、いつも大きいほうを私に……。冬に私が熱を出した夜は、ご自分の毛布まで私に掛けて、朝まで起きていてくださいました。その毛布、まだ返せていないんです……」
リーナの声が詰まった。
「その下働きを黙らせなさい!」
ドロテアが叫んだ。けれど、もう誰も動かなかった。
リーナは泣きながら、最後まで言い切った。奪われた部屋のこと。母の真珠のこと。ナディアが食事を抜かれた夜のこと。
侯爵が、立ち上がった。
「私の命を救ってくれた友の娘を、三年間も使用人扱いか」
低い声だった。怒鳴り声よりも、ずっと怖い声だった。
「父上。これは縁談の話では済みません。伯爵家の財産の扱いについても、王国に調査を申し立てるべきです」
「そうしよう」
侯爵は従者を呼び、王都への早馬を命じた。後見人による財産の私的流用の疑いと、ナディアが置かれていた状況を、王国の担当官へ報告するためだった。
「調査官には、帳簿と証書の保全も求めよう。それまでは、誰にも処分させないよう、屋敷の者たちに協力を頼む」
ドロテアが、すがるようにナディアを見た。
「ナディア! お願い、何とか言ってちょうだい! あなた、優しい子でしょう? 私たち、家族じゃない!」
ナディアは、その顔を静かに見返した。
(三年間、一度も、そう呼んでくださらなかったのに)
「……私から申し上げることはありません」
それだけ言って、ナディアはリーナの隣に立った。
震えている小さな手を、そっと握る。その手はもう、守られるだけの女の子の手ではなかった。
◇
その夜、侯爵はナディアを庭に呼んだ。
月が出ていた。父が好きだった、薄紫の花が咲く庭だ。
「これは、君のものだ」
差し出されたのは、父の懐中時計と、先ほど侯爵に預けた銀の鎖。そして、ジゼルの首から外させた、母の真珠の首飾りだった。
ナディアは真珠を胸に抱いてから、自分の手で、鎖を時計に付け直した。かちり、と小さな音がした。
「……やっと、元に戻りました」
侯爵は、小さく笑った。
「ローレンスとは、学院時代からの付き合いでね。若い頃は、ずいぶん無茶もしたものだ。戦場で私が脚を射抜かれたときも、あいつは自分も怪我をしているくせに、私を担いで敵の包囲を抜けてくれた」
知らなかった。父は戦の話を、一度もしなかった。
「あとで、どうして私を置いて逃げなかったんだと聞いたんだ。そうしたら、あいつは笑ってね」
侯爵は、懐かしそうに目を細めた。
「娘が誇れる父でいたいだろ、ってな」
侯爵は、ナディアをまっすぐに見た。
「君の名前には、異国の言葉で『希望』という意味があるそうだね。ローレンスが教えてくれたよ。あいつは戦場でも、よく君の話をしていた」
ナディアは、時計を両手で包んだ。
(お父様)
何か言おうとして、声にならなかった。ただ、何度も頷いた。時計の蓋の上に、ぱた、と一つ、雫が落ちた。
秒針の音が、小さく続いていた。父の心臓の音のように。
「迎えに来るのが遅くなって、すまなかった。北の国境で、長く任務に就いていてな。あちらでは王都の知らせも限られていた。ローレンスの死を知ったのは、先月戻ってからだった」
侯爵は、続けた。
「娘が一人残されたと知って、まずは無事を確かめたかった。息子との縁談を申し込んだのは、君が望むなら、我が家で迎えられるようにと思ったからだ」
侯爵は、少し苦い顔をした。
「だが、順序を間違えたな。君自身がどう暮らしているかも知らず、縁談などと」
ナディアは首を横に振った。
「そんなことは……」
「いや。君の気持ちを聞くのが先だった」
侯爵は、穏やかに続けた。
「我が家に来ないか。王国には私から申し立てる。後見のことが片付くまで、君は我が家で預かろう。縁談のことは考えなくていい。君がここに残りたいなら、そのために力を尽くそう」
ナディアは、少し考えた。
この屋敷には、父との思い出がある。けれど父は、もうここにはいない。父がくれたものは、全部、この手の中にある。
「侯爵家に、参ります」
それから、付け加えた。
「ただ、一つだけお願いがあります。リーナを一緒に連れていきたいのです。――私の、友人です」
侯爵は、声を上げて笑った。
「ローレンスも、そういう頼み方をする男だったよ」
翌朝、侯爵家の家令と従者たちが、王国からの沙汰を待つために屋敷へ残ることになった。
王国から担当官が派遣されれば、伯爵家の帳簿と証書が調べられ、後見人の権限停止についても正式な審査が始まるという。
使用人たちも、帳簿の所在や日々の暮らしについて、知っていることを伝えると申し出た。
ドロテアは抗議したが、セドリックが静かに告げた。
「この件は、すでに王国へ使者を出しました。調査官が派遣されれば、その前で説明していただくことになります」
「そんな……私は、ただ後見人として……!」
ドロテアの言葉が途切れたところで、家令が静かに一礼した。
「過去の処分例では、後見人による財産の私的流用が認められ、流罪となった事例がございます。加担したご家族が修道院へ送られた例も」
「る、流罪!?」
ドロテアは青ざめ、その場に膝をついた。
「……修道院?」
ジゼルは、胸元の真珠を探すように手を動かした。けれど、そこにはもう何もなかった。
「もちろん、処分を決めるのは王国でございます。まずは調査の結果を待つことになります」
それきりジゼルは口を閉ざし、母親から一歩離れて立った。
ナディアは、もう二人を見なかった。
◇
出立の支度を終えて厩舎へ行くと、セドリックが待っていた。
「廊下でお会いしたときは、名乗らずに失礼しました」
「いいえ。私も名乗りませんでしたから」
セドリックは、少し言いにくそうに続けた。
「父は、あなたとの縁談を望んでいます」
「はい」
「ですが私は、それとは関係なく、あなた自身のことを知っていきたいのです」
ナディアの頬が、ほんのりと熱くなった。
あの廊下で、リーナを守った言葉を聞いてくれた人。
誰も信じてくれなかったときに、信じてくれた人。
そして、傷だらけの手を、気にかけてくれた人。
「……私も、セドリック様とお話ししたいです」
セドリックの表情が、ぱっと明るくなった。
「では、まずは厩舎の場所以外のことから」
ナディアは思わず、声を出して笑った。
笑い方を、まだ忘れていなかった。
「喜んで」
やがて、ナディアとリーナを乗せた馬車が、侯爵家へ向けて走り出した。
侯爵家に着くと、玄関では一人の婦人が待っていた。
「ナディアさんね。セドリックの母です。夫から、あなたのことは聞いています」
「お世話になります、奥様」
ナディアは深く頭を下げた。
「どうか顔を上げて」
夫人は、ナディアの手を取った。その指先に触れた瞬間、夫人の表情が変わった。
しばらく、夫人は何も言わなかった。
「……痛かったでしょう」
「いいえ。もう春ですから、すぐに治ります」
ナディアは、いつものように笑って答えた。
夫人は、そのままナディアを抱きしめた。
「そういうことではないのよ」
温かい腕だった。叱られるのでも、仕事を命じられるのでもない。ただ、抱きしめられている。ナディアは、どうしていいのかわからなかった。
夫人はナディアの背中をゆっくりと撫でてから、後ろに控えていたリーナに目を向けた。
「あなたがリーナね。この子のそばにいてくれて、ありがとう」
リーナが、わっと泣き出した。
ナディアの頬にも、いつの間にか涙が伝っていた。
◇
侯爵家での、最初の朝。
食卓には、焼きたてのパンが籠いっぱいに並んでいた。
リーナと並んで座り、ナディアはいつもの癖で、ひとつ手に取った。
リーナが、くすりと笑う。
「お嬢様。もう半分こにしなくてもいいんですよ」
ナディアも笑って、パンを割った。
大きいほうを、リーナに。




