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大きいほうを、あなたに

掲載日:2026/10/30

 夜明け前の厨房は、まだ火の気がなくて冷たい。


 ナディアは二人分として用意されたパンを受け取り、屋根裏への階段を上った。二つのパンは硬くて小さい。屋根裏の二人に出る朝の食事は、これだけだ。


「お嬢様」


 小窓のそばで、リーナが待っていた。十五になったばかりの下働きの少女で、ナディアと同じく、屋敷でいちばん寒いこの部屋で寝起きしている。


「その呼び方はだめだって言ったでしょう。奥様に聞かれたら、あなたが叱られるわ」


 そう言いながら、ナディアはリーナにパンを一個渡す。


「でも、お嬢様はお嬢様です」


 リーナは頑固だ。ナディアは諦めて、自分のパンまで両手で割った。


 きれいに半分とはいかない。どうしても、大きいほうと小さいほうができる。


 ナディアは大きいほうを、リーナに差し出した。


「……そんな、お嬢様の分までいただけません」


「あなたは育ち盛りでしょう」


「お嬢様だって、二つしか違いません」


「二つも違えば、十分よ。それに、昨日ふらついていたでしょう。食べなきゃダメよ」


 リーナは唇を尖らせたが、最後には受け取った。


 ナディアは手に残った小さいほうをかじる。それで空腹が満たされるはずもない。それでも二人で食べる朝は、一人で食べる朝よりずっとましだった。


 屋根裏の寝台は二つ。けれど毛布は、二枚ともリーナの寝台に掛かっている。冬にリーナが熱を出した夜から、ナディアは自分の毛布もリーナに使わせていた。返そうとするたびに、首を横に振って。


 ナディアは、無意識に胸元へ手をやった。


 服の下に、細い銀の鎖がある。三年前に亡くなった父の、たった一つ残った形見だった。


 階下で鐘が鳴った。奥様のお呼びだ。


「行ってくるわ。今日は大広間の床磨きだから、リーナは洗濯場をお願いね」


「お嬢様、手が……」


 リーナの視線が、ナディアの手に落ちた。指の節はあかぎれで割れ、ところどころに血がにじんでいる。


「平気よ。春になれば治るわ」


 ナディアが笑ってみせると、リーナは何か言いたげに黙り込んだ。


 階段を降りる途中、ナディアの腹が小さく鳴った。


(リーナの前で鳴らなくて良かった……)


◇


 ナディア・エヴァンスは、エヴァンス伯爵家のひとり娘だった。


 三年前、父が病で亡くなったとき、ナディアは十四だった。母はもっと前に亡くなっていて、屋敷には父の後妻ドロテアと、その連れ子のジゼルが残った。


 葬儀の翌日、ドロテアは父の書斎で、懐中時計を手に取った。


 父が戦場から持ち帰り、毎朝ねじを巻いていた時計だ。幼いナディアは父の膝の上で、胸元で揺れる銀の鎖を指でつまんで遊んだものだった。


「これはな、大切な友人からもらったものなんだ」


 父はいつも、そう言って笑っていた。


「それは……父の形見として、私がいただくはずのものです」


「あら。この家のものは、今はすべて私が管理しているのよ」


 ドロテアは時計から鎖を外し、ナディアの足もとへ投げた。


「お前には、オマケで充分よ」


 そう言ってドロテアは笑った。時計のオマケの鎖。この家のオマケの娘。どちらの意味なのかは、聞かなくてもわかった。


 その日から、ナディアの部屋はジゼルのものになった。ドレスも、母の真珠の首飾りも消え、ナディアは屋根裏で寝起きする下働きになった。屋根裏には、その年に雇われたばかりのリーナがいた。


 お前を養う余裕はないのよ、とドロテアは言った。けれど屋敷の暮らしは、少しも質素にはならなかった。


 父の遺言で、伯爵家の財産はナディアが十八になるまで、後見人のドロテアが預かることになっていた。ナディアを追い出せば、親類や王国の目が屋敷に向く。屋根裏に置いておけば、誰の目にも触れない。


 外には、父の死を悲しむあまり、部屋に閉じこもっていると説明されていた。


 父の代から仕えていた使用人たちは、一人、また一人と屋敷を去っていった。


 それから、三年が過ぎた。


◇


 洗濯場から、悲鳴が聞こえた。


 ナディアが駆けつけると、ジゼルの前でリーナがうずくまっていた。床には、染みの残った絹のリボンが落ちている。


「明日のお茶会で着けるのよ。それをこんなにして。今夜は食事抜きね」


「ジゼル様。そのリボンは、私も一緒に洗いました。叱るなら私を」


「ふうん。じゃあ、二人とも――」


「それから」


 ナディアはジゼルをまっすぐに見た。


「リーナはまだ十五です。食事を抜けば倒れます。下働きが倒れたと街で噂になれば、ジゼル様の縁談に影響するのではありませんか」


 ジゼルの顔がひきつった。良い縁談を探すのに、彼女は今、必死なのだ。


「……っ、もういいわ! そのかわり、あなたは今夜、食事なしよ!」


 ジゼルが去ると、リーナが震える声で言った。


「お嬢様、どうして……」


「嘘はついていないわ。昨日、少し手伝ったもの」


 その夜、夕食として配られるはずだったナディアのパンは出なかった。


 屋根裏に戻ると、リーナが自分のパンを割っていた。


 そして大きいほうを、ナディアに差し出した。


「これは、お嬢様の分です」


「リーナ、それはあなたの……」


 リーナは、泣きそうな顔で笑った。


「私だって、お嬢様に何かあげたいんです」


 ナディアは、受け取った。冷えたパンなのに、不思議と温かかった。


 小窓の外に、星が出ている。ナディアは服の上から鎖を握った。


(お父様。私、まだ大丈夫です)


◇


 侯爵家から客人が来る――その知らせに屋敷が沸いたのは、それから間もない、春の始めだった。


 グレンフォード侯爵家。王国でも指折りの名門で、その嫡男セドリックが、縁談の件で自ら訪れるという。


「亡き伯爵の娘との縁談、ですって」


 ドロテアは手紙を握りしめ、目を細めた。


「ジゼル。あなたが縁談の席に出るのよ」


「えっ? でも、お相手が望んでいるのはナディアでしょう?」


「だから何だというの。あの子は病で臥せっていることにすればいいわ」


 ドロテアは、手紙を卓に置いた。


「あなたも亡き伯爵が慈しんだ娘だと申し上げればいい。侯爵家だって、病の娘より、健康で社交のできる娘を迎えるほうが喜ばれるに決まっているわ」


「でも、断られたら?」


「あの子が十八になれば、財産はすべてあの子のものになる。そうなれば、私たちはこの屋敷から追い出されるわ。その前に侯爵家と縁を結んでおけば、誰も私たちに手出しできなくなる」


 ナディアは廊下の拭き掃除をしながら、それを聞いていた。


 その夜、ドロテアはナディアを呼びつけた。


「お客様の前では、ただの下働きとして振る舞いなさい。もし名乗ったりしたら――あのリーナという子、紹介状なしで追い出すわよ」


 紹介状のない下働きを雇う家は、どこにもない。ナディアは、黙って頭を下げた。


 縁談に興味はなかった。ただ、侯爵家という名が、なぜか胸に引っかかった。


 当日。


 ナディアはリーナの昼食を布に包んで、裏庭へ続く廊下を急いでいた。洗濯場は今日、客人用のシーツで手が離せない。


 曲がり角で、一人の青年と鉢合わせた。


 上等な外套に、飾り気のない身なり。供の者だろうか。


「失礼。厩舎はどちらでしょう。馬の様子を見ておきたくて」


「厩舎でしたら、この先です。途中までご案内いたします」


 先に立って歩き出すと、青年がナディアの腕の中に目をやった。


「それは?」


「友人の昼食です。今日は洗濯場を離れられないので」


 青年の視線が、包みからナディアの手へ移った。ナディアは、あかぎれだらけの手を、そっと包みの陰に隠した。


 洗濯場の前を通りかかったとき、中から怒声が聞こえた。


「客室のシーツが二枚足りん! お前がなくしたんだろう!」


 執事が、リーナを怒鳴りつけている。


 ナディアは、扉を開けた。


「足りない二枚は、今朝ジゼル様がお部屋へ持っていかれました。ご確認いただければわかります。リーナのせいではありません」


 執事は舌打ちして出ていった。ナディアはリーナに包みを渡し、振り返った。


 青年が、黙ってこちらを見ていた。


「申し訳ありません。お見苦しいところを」


「いえ。あなたは、友人を守っただけでしょう」


 思いがけない言葉だった。


「……大切な友人ですから」


「そうですか」


 青年は、少しだけ微笑んだ。


「あなたは、ご自分のことより、友人のことを先に考えるのですね」


「そんなことは……」


 ナディアは、言葉に詰まった。


 誰かにそんなふうに言われたのは、初めてだった。


「ただ、リーナには元気でいてほしいんです」


「では、あなたに元気でいてほしいと思う人も、きっといるのでしょうね」


 ナディアは、青年を見上げた。


 穏やかな目だった。あかぎれだらけの手も、古びた下働きの服も、少しも気にしていないようだった。


 青年は何かを言いかけて、それからナディアの胸元に目を留めた。


「その鎖。ずいぶん古いものですね」


 いつの間にか、服の外にこぼれていた。ナディアは慌てて仕舞った。


「父の形見です。……厩舎は、あちらの扉を出て右です」


「ありがとう。――お名前を、伺っても?」


 ナディアの指先が、包みのなくなった胸の前で、きゅっと握られた。


「……申し訳ありません。仕事に戻らなくては」


 ナディアは頭を下げ、小走りに立ち去った。


 青年は、その背中をしばらく見送っていた。


◇


 侯爵家の客人を迎えるため、屋敷は朝から慌ただしかった。人手が足りず、ナディアも応接室の給仕に駆り出された。


 お茶を運び入れて、ナディアは息を呑んだ。


 ソファに座っていたのは、さっきの青年だった。


「グレンフォード侯爵家のセドリックです」


 セドリックは一瞬だけナディアを見た。けれど、何も言わなかった。


「……ジゼルでございます」


 ジゼルの首元で、母の真珠が光っていた。


「……伯爵には、ナディアというお嬢様がいらしたと、父から伺っておりますが」


 ナディアの手の中で、茶器がかすかに鳴った。


「ええ。ですが、あの子は病で臥せっておりまして、とても縁談のお話など。ジゼルも、亡き夫が娘として慈しんだ子ですのよ」


 セドリックは、何も答えなかった。


 ただ、その視線が一瞬だけ、茶器を持つナディアの手に落ちた。


「セドリック様?」


 ジゼルに呼ばれ、セドリックは顔を上げた。


「私、刺繍が得意ですの。最近は王都で流行の図案を取り寄せておりますのよ」


「そうですか」


「侯爵家のお庭は、とても広いのでしょう? ぜひ一度、拝見したいですわ」


「ええ。父が大切にしております」


 ジゼルは嬉しそうに笑った。


 けれどセドリックは、それ以上話を広げなかった。


 ドロテアが、恭しく小箱を差し出す。


「こちらは亡き伯爵が大切にしていた懐中時計ですの。侯爵様から賜ったものと伺っております。ジゼルが、肌身離さず持っておりまして」


 父の時計だった。


 三年ぶりに見るそれは磨き上げられ、鎖のかわりに、安っぽいリボンが結ばれていた。


 セドリックは時計を手に取り、蓋の内側を見た。


「父から聞いていたとおりの時計です。蓋の内側に、我が家の紋がある。確かに、父が伯爵に贈ったものです。……ジゼル嬢。伯爵はこの時計について、何かおっしゃっていましたか」


「え、ええ。とても……大切なものだと」


「どなたから贈られたものだと?」


「それは……侯爵様から、ですわよね? お母様」


 セドリックは何かを確かめるように、もう一度時計の蓋の内側を見た。けれど、それ以上は尋ねず、時計をそっと小箱に戻した。


「この時計のことは、父のほうがよく存じております。父は王都での公務を済ませてから、今日の夕刻、こちらへ到着する予定です。ナディア嬢に、どうしても直接お会いしたいと申しておりました」


 ドロテアの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。


「まあ……あの子の具合次第ではございますけれど。どうぞ、ごゆっくりお待ちくださいませ」


 ナディアはお茶を注ぎながら、指先の震えを隠した。


 父と侯爵がどういう間柄だったのか、ナディアは知らない。ただ、父にはいつも「大切な友人」と呼ぶ人がいた。


(もしかしたら)


 けれど、ナディアはそれ以上考えるのをやめた。


 セドリックの視線が、再びナディアに向けられた。


 ジゼルは、唇を噛んだ。


「……お茶のおかわりをいただけるかしら」


「かしこまりました」


 ナディアはポットを手に、ジゼルの隣へ進んだ。


 カップに紅茶を注ごうとした、そのとき。


 ジゼルの手が、ナディアの手首にぶつかった。


 ポットが傾き、熱い紅茶がジゼルのドレスの裾にこぼれた。


「きゃっ!」


 ジゼルは椅子から立ち上がり、ナディアを睨みつけた。


「何をするの! わざとこぼしたでしょう!」


「いいえ。ジゼル様の手が、私の手首に……」


「口答えをするものではありません」


 ドロテアの声が、冷たく落ちた。


「下働きの言い訳など、聞くに値しません」


 ナディアは口を閉じた。


 そのとき、茶菓子の皿を持ったリーナが応接室に入ってきた。


「お嬢様……!」


 ナディアの濡れた手を見て、リーナが駆け寄ろうとする。


「誰がお嬢様よ!」


 ジゼルが声を荒らげた。


「主人の許しもなく勝手に動いて! そんな下働きばかりだから、こんなことになるのよ! 二人とも、今夜は食事抜きね!」


「リーナは関係ありません」


 ナディアは、リーナの前に一歩出た。


「お叱りになるなら、私だけにしてください」


「いいえ」


 静かな声だった。


 セドリックが、手にしていたカップを受け皿に戻す。


「そもそも、どちらも叱られる理由がありません。今のは、私も見ていました」


 応接室が、しんと静まり返った。


 ジゼルの頰が赤く染まり、ドロテアの扇が、ぱちりと閉じられる。


「……まあ。私の見間違いでしたかしら。失礼いたしましたわ」


 ドロテアは笑った。けれどその目は、少しも笑っていなかった。


 この屋敷でナディアの言葉が信じられたのは、三年ぶりのことだった。


 ナディアが茶器を片付け、応接室を出ようとしたとき、セドリックが声をかけた。


「お茶をありがとう。……その手は、手当てをしたほうがいい」


 ナディアは、返事ができなかった。


 セドリックは、彼女にだけ聞こえるように声を落とした。


「あなたに元気でいてほしいと願う人の中に、私も加えていただけませんか」


 ナディアは思わず、顔を上げた。


 けれどセドリックは、それ以上何も言わず、穏やかに微笑んだ。


 胸の奥が、なぜか温かくなった。


◇


 夕刻、侯爵が到着した。


 白髪まじりの大柄な男で、左足をわずかに引きずっていた。


 侯爵家の供の者たちの世話も重なり、ドロテアは今度も、ナディアを給仕から外すことができなかった。


 ナディアは、開いたままの応接室の扉の脇に控えていた。茶器を下げる盆を抱えたリーナも、その後ろの扉の陰にいる。


「オズワルド様。亡き夫が、生涯大切にしておりました時計でございます」


 侯爵は、長いこと時計を見つめていた。それから、静かに言った。


「鎖はどうした?」


「……鎖、でございますか?」


「この時計には、銀の鎖を付けて贈った。留め具に、私とローレンスの頭文字を刻ませてな。学院時代、二人でふざけて机に彫った字を、そのまま職人に写させたものだ」


 ドロテアの目が、わずかに泳いだ。そして、すぐに微笑んだ。


「まあ。きっとお思い違いでございますわ。この時計には、最初から鎖など付いておりませんでした」


 扉の脇で、ナディアは胸元に触れていた。


 ほんの、無意識の仕草だった。けれど、その仕草にセドリックが目を留めた。


「父上。あの鎖なら、昼間に見ました」


 部屋中の視線が、扉の脇のナディアに集まった。


 ドロテアの顔から、血の気が引いていく。


「あれはただの下働きで――」


「こちらへ来てくれないか」


 侯爵の声は、穏やかだった。


 ナディアは前に出て、首から鎖を外した。指が震えて、なかなか留め具が外れなかった。


 大きな手が、鎖を受け取る。


 留め具を裏返すと、すり減った小さな二つの文字があった。LとO。


 侯爵は、それをじっと見つめていた。


「ローレンスは、この鎖のことを、何と言っていた」


 ナディアの喉が、小さく鳴った。


「……これはな、大切な友人からもらったものなんだ、と。いつも、そう言って笑っていました」


 侯爵は、ゆっくりと顔を上げた。そして、ナディアの目を見た。遠い誰かを、そこに探すように。


「……君は、ローレンスの娘なのか」


 ナディアは一度だけ、ドロテアを見た。それから、セドリックに目を向けた。昼間、ナディアの言葉も、リーナのことも、信じてくれた人だった。


(もう、黙っていなくていい)


 ナディアは、まっすぐに侯爵を見上げた。


「はい。ナディア・エヴァンスです」


 侯爵が、目を閉じた。


「病で臥せっているはずの娘が、なぜ下働きの服を着て、廊下に立っている」


 誰も、答えなかった。


「……すべて、この子が勝手にしたことでございます!」


 ドロテアが、ジゼルを指さした。


「ジゼルが姉の物を欲しがって……私は何度も止めたのです!」


「お母様!?」


 ジゼルが立ち上がった。


「鎖を投げてやればいいって言ったのはお母様じゃない! 屋根裏に住まわせろって言ったのも! ナディアの代わりに縁談を受けろって言ったのも!」


「黙りなさい!」


「黙らないわよ! 私だけ悪者にする気でしょう!」


 侯爵は、二人の方を見もしなかった。


「この屋敷で、何があったのか。証言できる者はいるか」


 そのとき、扉の陰から、震える声がした。


「わ、私が……証言、します」


 リーナだった。


 エプロンを握りしめ、真っ青な顔で、それでも一歩ずつ前に出てくる。


「お嬢様は、三年間、屋根裏で暮らしていました。朝は小さなパンが一人一つだけで。お嬢様はご自分の分まで半分に割って、いつも大きいほうを私に……。冬に私が熱を出した夜は、ご自分の毛布まで私に掛けて、朝まで起きていてくださいました。その毛布、まだ返せていないんです……」


 リーナの声が詰まった。


「その下働きを黙らせなさい!」


 ドロテアが叫んだ。けれど、もう誰も動かなかった。


 リーナは泣きながら、最後まで言い切った。奪われた部屋のこと。母の真珠のこと。ナディアが食事を抜かれた夜のこと。


 侯爵が、立ち上がった。


「私の命を救ってくれた友の娘を、三年間も使用人扱いか」


 低い声だった。怒鳴り声よりも、ずっと怖い声だった。


「父上。これは縁談の話では済みません。伯爵家の財産の扱いについても、王国に調査を申し立てるべきです」


「そうしよう」


 侯爵は従者を呼び、王都への早馬を命じた。後見人による財産の私的流用の疑いと、ナディアが置かれていた状況を、王国の担当官へ報告するためだった。


「調査官には、帳簿と証書の保全も求めよう。それまでは、誰にも処分させないよう、屋敷の者たちに協力を頼む」


 ドロテアが、すがるようにナディアを見た。


「ナディア! お願い、何とか言ってちょうだい! あなた、優しい子でしょう? 私たち、家族じゃない!」


 ナディアは、その顔を静かに見返した。


(三年間、一度も、そう呼んでくださらなかったのに)


「……私から申し上げることはありません」


 それだけ言って、ナディアはリーナの隣に立った。


 震えている小さな手を、そっと握る。その手はもう、守られるだけの女の子の手ではなかった。


◇


 その夜、侯爵はナディアを庭に呼んだ。


 月が出ていた。父が好きだった、薄紫の花が咲く庭だ。


「これは、君のものだ」


 差し出されたのは、父の懐中時計と、先ほど侯爵に預けた銀の鎖。そして、ジゼルの首から外させた、母の真珠の首飾りだった。


 ナディアは真珠を胸に抱いてから、自分の手で、鎖を時計に付け直した。かちり、と小さな音がした。


「……やっと、元に戻りました」


 侯爵は、小さく笑った。


「ローレンスとは、学院時代からの付き合いでね。若い頃は、ずいぶん無茶もしたものだ。戦場で私が脚を射抜かれたときも、あいつは自分も怪我をしているくせに、私を担いで敵の包囲を抜けてくれた」


 知らなかった。父は戦の話を、一度もしなかった。


「あとで、どうして私を置いて逃げなかったんだと聞いたんだ。そうしたら、あいつは笑ってね」


 侯爵は、懐かしそうに目を細めた。


「娘が誇れる父でいたいだろ、ってな」


 侯爵は、ナディアをまっすぐに見た。


「君の名前には、異国の言葉で『希望』という意味があるそうだね。ローレンスが教えてくれたよ。あいつは戦場でも、よく君の話をしていた」


 ナディアは、時計を両手で包んだ。


(お父様)


 何か言おうとして、声にならなかった。ただ、何度も頷いた。時計の蓋の上に、ぱた、と一つ、雫が落ちた。


 秒針の音が、小さく続いていた。父の心臓の音のように。


「迎えに来るのが遅くなって、すまなかった。北の国境で、長く任務に就いていてな。あちらでは王都の知らせも限られていた。ローレンスの死を知ったのは、先月戻ってからだった」


 侯爵は、続けた。


「娘が一人残されたと知って、まずは無事を確かめたかった。息子との縁談を申し込んだのは、君が望むなら、我が家で迎えられるようにと思ったからだ」


 侯爵は、少し苦い顔をした。


「だが、順序を間違えたな。君自身がどう暮らしているかも知らず、縁談などと」


 ナディアは首を横に振った。


「そんなことは……」


「いや。君の気持ちを聞くのが先だった」


 侯爵は、穏やかに続けた。


「我が家に来ないか。王国には私から申し立てる。後見のことが片付くまで、君は我が家で預かろう。縁談のことは考えなくていい。君がここに残りたいなら、そのために力を尽くそう」


 ナディアは、少し考えた。


 この屋敷には、父との思い出がある。けれど父は、もうここにはいない。父がくれたものは、全部、この手の中にある。


「侯爵家に、参ります」


 それから、付け加えた。


「ただ、一つだけお願いがあります。リーナを一緒に連れていきたいのです。――私の、友人です」


 侯爵は、声を上げて笑った。


「ローレンスも、そういう頼み方をする男だったよ」


 翌朝、侯爵家の家令と従者たちが、王国からの沙汰を待つために屋敷へ残ることになった。


 王国から担当官が派遣されれば、伯爵家の帳簿と証書が調べられ、後見人の権限停止についても正式な審査が始まるという。


 使用人たちも、帳簿の所在や日々の暮らしについて、知っていることを伝えると申し出た。


 ドロテアは抗議したが、セドリックが静かに告げた。


「この件は、すでに王国へ使者を出しました。調査官が派遣されれば、その前で説明していただくことになります」


「そんな……私は、ただ後見人として……!」


 ドロテアの言葉が途切れたところで、家令が静かに一礼した。


「過去の処分例では、後見人による財産の私的流用が認められ、流罪となった事例がございます。加担したご家族が修道院へ送られた例も」


「る、流罪!?」


 ドロテアは青ざめ、その場に膝をついた。


「……修道院?」


 ジゼルは、胸元の真珠を探すように手を動かした。けれど、そこにはもう何もなかった。


「もちろん、処分を決めるのは王国でございます。まずは調査の結果を待つことになります」


 それきりジゼルは口を閉ざし、母親から一歩離れて立った。


 ナディアは、もう二人を見なかった。


◇


 出立の支度を終えて厩舎へ行くと、セドリックが待っていた。


「廊下でお会いしたときは、名乗らずに失礼しました」


「いいえ。私も名乗りませんでしたから」


 セドリックは、少し言いにくそうに続けた。


「父は、あなたとの縁談を望んでいます」


「はい」


「ですが私は、それとは関係なく、あなた自身のことを知っていきたいのです」


 ナディアの頬が、ほんのりと熱くなった。


 あの廊下で、リーナを守った言葉を聞いてくれた人。


 誰も信じてくれなかったときに、信じてくれた人。


 そして、傷だらけの手を、気にかけてくれた人。


「……私も、セドリック様とお話ししたいです」


 セドリックの表情が、ぱっと明るくなった。


「では、まずは厩舎の場所以外のことから」


 ナディアは思わず、声を出して笑った。


 笑い方を、まだ忘れていなかった。


「喜んで」


 やがて、ナディアとリーナを乗せた馬車が、侯爵家へ向けて走り出した。


 侯爵家に着くと、玄関では一人の婦人が待っていた。


「ナディアさんね。セドリックの母です。夫から、あなたのことは聞いています」


「お世話になります、奥様」


 ナディアは深く頭を下げた。


「どうか顔を上げて」


 夫人は、ナディアの手を取った。その指先に触れた瞬間、夫人の表情が変わった。


 しばらく、夫人は何も言わなかった。


「……痛かったでしょう」


「いいえ。もう春ですから、すぐに治ります」


 ナディアは、いつものように笑って答えた。


 夫人は、そのままナディアを抱きしめた。


「そういうことではないのよ」


 温かい腕だった。叱られるのでも、仕事を命じられるのでもない。ただ、抱きしめられている。ナディアは、どうしていいのかわからなかった。


 夫人はナディアの背中をゆっくりと撫でてから、後ろに控えていたリーナに目を向けた。


「あなたがリーナね。この子のそばにいてくれて、ありがとう」


 リーナが、わっと泣き出した。


 ナディアの頬にも、いつの間にか涙が伝っていた。


◇


 侯爵家での、最初の朝。


 食卓には、焼きたてのパンが籠いっぱいに並んでいた。


 リーナと並んで座り、ナディアはいつもの癖で、ひとつ手に取った。


 リーナが、くすりと笑う。


「お嬢様。もう半分こにしなくてもいいんですよ」


 ナディアも笑って、パンを割った。


 大きいほうを、リーナに。

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横領と虐待と虚偽申告の罰が修道院での衣食住保障生活で横領した金の返済も継母からの実家からの取り立てもなしだったら加害者大勝利にしか見えないのは私だけでしょうか。
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