国庫が金貨3枚になりますがよろしいですか? 〜婚約破棄で破産する王太子、国ごと求婚してくる皇太子〜
王立学院の卒業を祝う記念夜会。
天井の巨大なシャンデリアが、集まった貴族たちの華やかなドレスや宝石を照らし出す中、会場の中心にだけ、場違いな影が落ちていた。
筆頭財務官であり、王太子エドワードの婚約者である伯爵令嬢、エレノア。
彼女は首元まで固く閉ざした厚手の地味なケープを羽織り、表情を覆い隠すような分厚い眼鏡をかけていた。周囲の煌びやかな装いから完全に浮いたその姿は、この王宮で「地味で無能な王太子妃候補」として嘲笑の的となってきたものだ。
王太子のプライドを守るため、周囲から強いられた偽りの姿とも知らずに。
「エレノア・ウォード! 貴様との婚約は、本日この場をもって破棄させてもらう!」
豪奢な衣装を纏った王太子エドワードが、壇上から高らかに宣言した。彼の腕の中には、大粒の涙を浮かべて怯えたふりをする、華奢で愛らしい男爵令嬢が収まっている。
音楽が止み、会場中の視線がエレノアに突き刺さった。
「未来の王妃たる者に求められるのは、民を導く華やかさと慈愛だ。だが貴様にはその欠片もない。あろうことか、私の愛する彼女に嫉妬し、ドレスを汚すような陰湿な嫌がらせまで働くとは! 貴様のような陰気な女は、王室には不要だ!」
エドワードの得意げな断罪の言葉に、周囲の貴族たちも同調するようにヒソヒソと嘲笑を漏らす。
しかし、非難の嵐の中心に立つエレノアは、微動だにしなかった。彼女は分厚いレンズの奥で、感情の読み取れない瞳を静かにエドワードに向けた。
「……私との婚約破棄、間違いございませんね?」
それは理不尽に耐え、国を支え続けてきた彼女が投げかけた、本当に最後の確認だった。しかし――
「強がっても無駄だ! 自らの非を認め、直ちにこの同意書にサインするがいい!」
愚かな王太子は、自らその手を払い除けた。
エドワードの側近が、冷笑と共に書類と羽ペンを差し出す。エレノアはそれに一瞥をくれると、一切の躊躇なく、滑らかな筆致でサインを書き入れた。あまりにもあっさりとした対応に、エドワードは鼻で笑った。
「ふん、自分の無価値さを理解して潔く身を引くか。哀れな女だ」
だが、書類を受け取った側近が踵を返そうとしたその瞬間。
「――それでは」
エレノアの凛とした、しかし氷のように冷たい声が会場に響いた。
「あなた方の求める『地味で無能な女』を演じる義務は、たった今、終わりました」
エレノアは無機質な眼鏡を外し、ことり、と手近なテーブルに置いた。そして、分厚いケープの首元の留め金に手をかける。
バサリ、と。重苦しい灰色の布地が床に脱ぎ捨てられた瞬間、会場は水を打ったように静まり返った。
みすぼらしいケープの中から現れたのは、夜空を溶かし込んだような漆黒のドレスだった。無駄な装飾を削ぎ落としたそのドレスは、彼女の抜けるような白肌と、解き放たれた艶やかな黒髪を、これ以上ないほどに際立たせている。
隠されていた圧倒的な美貌と、周囲を睥睨するような気高いオーラ。先程までの「地味な女」とは似ても似つかない、美しくも冷酷な絶対者の顔がそこにはあった。
「なっ……お前、……エレノア、なのか……?」
エドワードが目を見開いて狼狽する中、エレノアは完璧なカーテシーを披露し、艶やかに微笑んだ。
「ええ。さて、これで私と王家の繋がりは絶たれました」
エレノアはスッと表情を消し、かつての婚約者を静かに見据える。
「私はどれほど理不尽に搾取されようとも、将来の王太子妃として、王家を支え続ける覚悟でした。ですが――殿下が自ら、最後の一線を踏み越えられた」
その声から微かな情も抜け落ち、薄氷のように冷たく澄み渡る。
「ゆえに、事務的な『清算』をいたしましょう。先ほどのサインを以て、私を都合よく縛り付けていた実家からも除籍されました。王家との間で結ばれていた『私財貸付契約』は、白紙解除となります」
「は……? 何を言っている。貸付だと?」
「ええ。帳簿をお持ちする私を煙たがり、男爵令嬢とのロマンスに夢中な殿下には、初耳でしたか?」
エレノアの薄い唇から紡がれる言葉は、どこまでも容赦がなかった。
「頭上で輝くシャンデリアから、足元に敷かれた最高級の絨毯、外を警護する近衛兵の給与、果てはそちらの令嬢が纏うドレスの糸一本に至るまで。すべては、私個人が運営するファンドの運用益によって維持されてきたものです」
「ば、馬鹿な! 王家の財政は豊かだ!」
「豊か? とうの昔に破綻していますよ。国中の税収数年分を超える莫大な赤字を、殿下の『見栄』を守るために、私が私財で補填し続けてきたのです。『地味で無能な王太子妃候補』の私が⋯⋯、ね?」
エドワードの顔から血の気が引いていく。男爵令嬢も事態が飲み込めず、オロオロと周囲を見回している。
「嘘だ! そんな途方もない金が、いち伯爵令嬢にあるはずがない!」
「嘘かどうかは、すぐにお分かりになります。契約解除に伴い、王宮からの資金引き揚げは既に完了いたしました」
エレノアは冷徹な眼差しで、かつての婚約者を真っ向から見据えた。
「魔法は解けました。本日24時をもちまして、王室口座の残高は【金貨3枚】となります」
その具体的な、あまりにも残酷な数字が突きつけられた瞬間。
バンッ! とホールの巨大な扉が乱暴に開かれた。
「で、殿下ァァッ!!」
転がり込んできたのは、顔面を蒼白にさせた財務大臣だった。彼は床に這いつくばるようにしてエドワードにすがりついた。
「こ、国庫が! 国庫の資金が、突如としてすべて引き揚げられました!! このままでは明日の朝には王宮の機能が停止し、国家が破産いたします!!」
大臣の絶叫に、会場は阿鼻叫喚のパニックに陥った。
貴族たちが悲鳴を上げ、エドワードは信じられないものを見る目でエレノアと大臣を交互に指差して震えている。
その極限の混乱の中、ゆっくりとした、しかし確かな拍手の音が響き渡った。
「――相変わらず、鮮やかで見事な手腕だ」
来賓席から静かに進み出たのは、大陸の覇権を握る超大国・ガルシア帝国の皇太子、アルディスだった。
「氷の皇太子」と恐れられ、他国に対して一切の情を見せない冷徹な男。しかし今、彼の端正な顔には、エレノアへ向けた甘く熱烈な微笑みが浮かんでいた。
「ア、アルディス殿下……!? なぜ、殿下がそのような女に……」
「黙れ、愚か者」
アルディスが鋭い一瞥を向けると、エドワードはカエルが蛇に睨まれたように口を閉ざした。
アルディスはまっすぐにエレノアの前へと歩み寄る。漆黒のドレスに身を包んだ彼女を見つめるその瞳には、深い敬愛と、隠しきれない独占欲が燻っていた。
「無能な小国からの独立、心から祝福しよう。それにしても……今夜の君は、息を呑むほど美しい。見惚れてしまいそうだ」
「お世辞がお上手ですこと、アルディス様。帝国への送金手続きは……殿下がご立派にサインをなさいましたので、残念ですが、既に完了しておりますわ」
エレノアが元婚約者へ皮肉めいた視線を流して微笑むと、アルディスは恭しく彼女の手を取った。
「ああ、確認した。君のその卓越した才覚、まさに我が帝国にこそ相応しい。――エレノア」
圧倒的な権力を持つ帝国の皇太子が、一人の令嬢の前に傅き、その白い手の甲に熱い口づけを落とす。
「俺と結婚してほしい。帝国の財政と、俺のすべてを君にベットしよう。共に覇道を歩んでくれるか?」
それは庇護を申し出るだけでなく、彼女の知性を誰よりも深く愛し、対等なパートナーとして求める、究極のプロポーズだった。
エレノアは、自らの手で呪縛を脱ぎ捨てた清々しさと共に、心からの笑みを咲かせた。
「ええ、喜んで。極上の運用益を、生涯お約束いたしますわ」
見つめ合う二人の間には、誰にも踏み込めない強固な信頼と愛情の絆が結ばれていた。
「待っ、待ってくれエレノア! 私が悪かった! 金を、金を返してくれェェッ!!」
背後では、国家破産という現実に気づき発狂した大臣たちが、「国を滅ぼす気か!」「すべて殿下の責任だ!」とエドワードを取り囲み、凄まじい怒号を上げている。
しかし、エレノアはもう二度と振り返らなかった。
阿鼻叫喚の地獄絵図と化した夜会を背に、
二人は静かに視線を交わして手を取り合い、悠然と未来へ歩き出した。




