1990年代から始まる日英独デタント
前提:1980年代末の国際環境
ドイツ
• 中央アジア侵攻(1979〜)が泥沼化。
• 軍事費膨張・経済停滞・厭戦気分。
• ヒトラー後体制の軍官僚国家は、
• 「拡張なき現状維持」路線に転換を模索。
日本
• 太平洋・中南米に影響圏を持つ海洋大国。
• 対米緊張を抱えつつ、
• 欧州での不安定化=自国の通商路リスク。
英国
• 金融・海運・外交仲介の大国。
• 欧州混乱やドイツ崩壊は最大の悪夢。
• “調停者”役を担える唯一の存在。
米国
• すでに孤立化・内向化傾向。
• 三国共通の懸念:
「米国が次に何をするか分からない」
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“互いよりも、米国の方が怖い”
これがデタントの土台。
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第1段階:非公式接触の開始(1990–1992)
1990年
• 中央アジアでのドイツ軍苦戦が顕在化。
• ドイツ外務・国防高官が:
• スイス・スウェーデン経由で
• 日英に水面下の接触。
1991年:ベルン秘密会談
• 日本・英国・ドイツの高官級が初会合。
• 議題:
• 相互の脅威認識の共有
• 偶発衝突の回避
• 経済制裁の段階的緩和。
• 合意:
「我々はもはや互いの破滅を望まない」
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敵対から“管理”への発想転換。
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第2段階:実務的信頼醸成(1992–1995)
1992年
• 海軍間で:
• インド洋・地中海の遭遇規則を非公式合意。
• 空軍間:
• 接近時の通信手順を共有。
1993年
• 英国主導で:
• 日英独の経済フォーラム発足。
• ドイツに:
• 日本のインフラ投資、
• 英国の金融再建支援が入る。
1994年
• ドイツが:
• 中央アジアからの段階的撤兵を示唆。
• 見返りに:
• 日英が技術輸出・融資を拡大。
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“銃を置けば、金が来る”という現実的取引。
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第3段階:準公式化(1995–1997)
1995年:ウィーン覚書
三国の外相級が初めて公に署名。
主内容:
• 相互不可侵の原則確認
• 勢力圏の現状尊重
• 核・大量破壊兵器の先制不使用
• 偶発衝突防止のホットライン設置。
名目:
「戦後秩序の安定化に向けた覚書」
実態:
デタントの事実上の開始宣言。
国内の反応
•ドイツ:
• 「孤立脱却」「現実外交」と歓迎。
•日本:
• 軍部・保守は警戒、経済界は賛成。
•英国:
• 伝統的な勢力均衡外交の勝利と評価。
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まだ“友好”ではないが、“敵”ではなくなる。
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第4段階:管理された共存(1997–1999)
実態
• 軍事:
• 互いの大演習を事前通告。
• 接触時の武器管制ルール確立。
• 外交:
• 中東・アフリカで露骨な代理戦争回避。
• 経済:
• 日英資本がドイツの重工業・資源開発に参入。
1998年:ロッテルダム会合
• 国防・外務次官級の定期協議を制度化。
• 合言葉:
「競争は許される。戦争は許されない」
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“冷たい平和”が定着。
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デタントの性格(1990年代)
この時点での関係は:
• 同盟ではない
• 価値観の和解でもない
• 歴史的遺恨の清算でもない
しかし:
• 互いの崩壊を望まない
• 米国という共通の不確定要因
• 経済的相互依存の芽生え
• 軍事衝突のコストが高すぎる認識
による、
「管理された緊張緩和」=デタント。
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結論
この世界の1990年代は:
• 1990–92:秘密接触
• 1992–95:実務協力
• 1995:ウィーン覚書で準公式化
• 1997–99:管理された共存が定着
という段階を経て、
日英独は“再戦しない”という合意に到達。
だが、まだ“共に生きる”覚悟まではない。
そしてこの脆い均衡が、
2001年の米国内同時多発テロによって
「選択」から**「必要」**へと変わり、
デタントが本格加速していく――
という流れになります。




