ユダヤ人が“米国ではなく日本を目指す”と認識を変えていく過程
1933年:最初の兆し ― ヒトラー政権成立
• 1月:ヒトラー首相就任
• 4月:ユダヤ人公職追放、ボイコット開始
反応
• 多くのドイツ系ユダヤ人:
「一時的なものだろう」
• 亡命先:
• 仏
• 英
• チェコ
• 米国(まだ“第一候補”)
日本
• 在独日本公使館が:
• ユダヤ人迫害を本国に詳細報告
• 日本財界・満鉄関係者が:
• 「満州・上海に技術者を呼べるのでは」と打診開始
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この時点では日本はまだ**“補助的選択肢”**
。
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1934–35年:排除の制度化 ― ニュルンベルク法
• 1935年:
• 市民権剥奪
• 結婚禁止
• 職業制限
欧州ユダヤ社会の空気
「これは長期戦になる」
米国
• 移民割当法は維持
• 入国審査は厳格化
• 世論:孤立主義
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**“米国は思ったほど受け入れない”**という不安が広がる。
日本
• 東京で:
• 亡命学者・技術者の小規模受け入れ開始
• 神戸・横浜に:
• ユダヤ商社・銀行支店が増加
• 上海・満州:
• 「日本勢力圏は安全」という評判が徐々に立つ
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**“極東に現実的な逃げ道がある”**という認識が一部に生まれる。
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1936–37年:行き詰まる欧州、広がる極東ルート
• ドイツの再軍備進行
• ゲシュタポによる監視強化
• オーストリアの圧力増大
亡命の現実
• 英仏:受け入れ枠が目に見えて縮小
• 米国:ビザ待ちが数年単位に
ここで
• リトアニア・ポーランド経由で:
シベリア鉄道 → ウラジオ → 日本
•イタリア・フランス経由で:
船 → 上海 → 日本
という**“極東ルート”**が商人・難民ネットワークで共有され始める。
日本政府
• 外務省が非公式に:
「ユダヤ人の通過・滞在を黙認」
• 満鉄・商社が:
• 技術者に職と住居を用意
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1937年頃:
“日本は通過地ではなく、定住可能な避難先”という評価が生まれる。
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1938年:決定的転換 ― 水晶の夜と米独協商
11月:水晶の夜
• シナゴーグ焼き討ち
• 大量逮捕・財産没収
• もはや「迫害」ではなく公然たる暴力
同年:米独協商成立
• 表向き:経済協力・相互不干渉
• 実質:
• 米国は対独強硬姿勢を取らない
• 移民問題でナチを刺激しない配慮
ユダヤ社会の受け止め
「米国は我々のために
ドイツと対立しない」
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心理的に“米国という希望”が崩れる年。
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日本の動き(1938年)
• 政府声明(非公式):
「人道的見地から迫害民の入国を妨げない」
• 神戸・横浜・大連に:
• 難民支援委員会設立
• 英国ユダヤ団体と連携:
• 渡航費・保証人制度を整備
噂として欧州に広がる言葉
「極東の日本は、
我々を拒まない」
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1938年末:
“日本が最大の避難先”という認識が一気に広がる転換点。
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1939年:流れが変わる ― 極東へ向かう大波
• ドイツ:ユダヤ人出国を事実上強制
• オーストリア併合後:
• ウィーンからの脱出ラッシュ
亡命希望者の選択
行き先 状況
米国 枠は埋まり、政治的にも冷淡
英国 パレスチナ以外は制限
仏国 戦雲で不安
日本 ビザが出る/船と鉄道ルートがある
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「まず日本へ行け」
が現実的な助言になる。
規模
• 年間数万単位で:
• 上海
• 神戸
• 大連
• 横浜
へ到着。
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1940年:極東亡命圏の成立
• 日本勢力圏に:
• 10万〜15万規模のユダヤ人コミュニティ
• 学者・医師・技術者が:
• 帝大
• 満鉄研究所
• 企業
に吸収。
欧州のユダヤ社会の認識
「生き延びたいなら日本へ。」
これがほぼ共通理解に。
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総括:意識の転換の流れ
1933–35
→ 欧米がまだ希望、日本は補助的
1936–37
→ 欧米の枠が詰まり、日本が現実的選択肢に
1938(水晶の夜+米独協商)
→ 米国への期待崩壊、日本が“希望の地”へ転換
1939–40
→ 実際の大移動、日本亡命圏の成立
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この世界の象徴的言葉
1939年、ウィーンのユダヤ新聞に載ったとされる言葉:
「自由の女神は大西洋の向こうではなく、
太平洋の向こうに立っている。」
――それが、
この世界線における歴史的転換点になるでしょう。




