第1話 悪役令嬢アリシア、ただいま中身おっさん
目が覚めたら、目の前にやたら綺麗な天井が広がっていた。重そうな天蓋付きのベッド。やわらかいシーツ。広すぎる部屋。そして――鏡に映るのは、金髪縦ロールの美少女だった。
「……どこだここ。ていうか誰だお前……って、えええ!? これ、俺か!?」
中身・三十五歳のおっさん、佐藤健二。ゲームもアニメもまったく興味のない、定時後のビールと競馬を愛するサラリーマンだ。昨夜、急な残業で遅くなった帰り道、横断歩道で車に撥ねられた記憶が最後だった。
――まさか死んだのか?
そしてなぜか転生している。どう見ても貴族のお姫様然とした外見。だが、部屋の本棚に並ぶ書籍や日記から分かったことがある。
この世界は、いわゆる乙女ゲームの世界。しかも自分が転生したのは、ヒロインの恋路を邪魔する典型的な「悪役令嬢」アリシア・フォン・グラディールだった。
「うっそだろ……追放エンド待ったなしってやつか?」
アリシアは原作では王子を横恋慕してヒロインをいびり、最後には婚約破棄されて国外追放されるという散々な結末を迎えるキャラらしい。だが健二、おっさんなりに考えた。
「追放されなきゃいいんだろ? いびらなきゃいいってことだよな?」
その日から、アリシアの奇行(?)が始まった。
「おい、アリシアが令嬢会でヒロインのリリィ様に頭を下げたらしいわよ」
「しかもスコーン焼いて渡したんですって! ……どういう風の吹き回し?」
これまで高慢ちきで嫌われていたアリシアが、急に庶民派ムーブをかまし始めたのだ。毎朝庭を掃除し、使用人たちにも丁寧語。家庭教師にも積極的に質問し、休み時間には下級貴族の令嬢たちと庶民グルメ談義。
「へへ……悪役ムーブなんてやってられるかよ。人間、丸くなるもんだなあ」
――中身おっさんですから。
だがそれが意外にも評判を呼んだ。学園内では「あれ、アリシア様って意外といい人?」という風潮がじわじわ広まり、敵視していたはずのヒロイン・リリィとも仲良くなってしまう。
「アリシア様って、まるでお父様みたいな安心感がありますわ」
「まさか十五歳令嬢に父性を見出されるとは思わなかった……」
ところが、物語はそんなに甘くなかった。
原作どおり、王子殿下がリリィに恋をし、婚約者であるアリシアに冷たくなっていく。
そして、あのイベントの日が来た。舞踏会での婚約破棄宣言。原作では、アリシアがヒロインを引っ叩いたあとに、王子が激昂して「お前とは婚約破棄だ!」と叫ぶシーン。
おっさんアリシアは、深呼吸して会場の中央に立った。
「リリィ嬢に謝罪します。以前は感情的になってしまいました。……でも、今日は言いたいことが一つだけあります」
王子とリリィが目を丸くする。貴族たちの視線が集中する中、アリシアは凛とした笑みを浮かべた。
「――王子。あんた、リリィさんのことが好きなんでしょ? だったら、ちゃんと自分で彼女を幸せにしなさいよ。お飾りみたいな婚約者より、恋した相手を選ぶべきでしょ」
「な……なんだと?」
動揺する王子をよそに、アリシアは軽く一礼した。
「婚約は、今日限りで結構。……こっちから願い下げよ。さよなら、バカ王子」
――中身、おっさんですから。年の功ってやつよ。
その夜、使用人のリサが涙目で言った。
「お嬢様、どうしてあんな……捨てられる前に、身を引いたんですか?」
「違うよ、リサ。俺は……いや、私は、自分の人生を自分で選びたかっただけ」
追放エンド? 上等だ。自由に生きられるなら悪くない。なにより、他人をいびって得る幸せなんて、クソ喰らえだと思っている。
そして――舞踏会の翌日。屋敷を出て旅に出る彼女の前に、一人の青年が立っていた。
「アリシア様、いや、あなたはもう"令嬢"じゃないかもしれませんが……。俺は、あなたの生き方に心を打たれました」
彼の名はユージン。侯爵家の三男坊。ちょっと地味だが、真面目でやさしい男だった。
「俺と一緒に、商会を立ち上げませんか? あなたのアイデアと俺の金を合わせれば、きっとすごいことができます!」
「……お前、良いビジネスパートナーになりそうだな」
こうして――元おっさん令嬢のアリシアは、商会の共同経営者として第二の人生を歩み始めた。
数年後。彼女の名は「紅き薔薇の女将」として知られるようになる。若き起業家アリシア=フォン=グラディール。パイ菓子ブランドや農産品物流網を確立し、帝都の経済を陰で支える存在になっていた。
……ただし、いまだに誰にもバレていない。
「――中身、おっさんですけど、何か?」
彼女は今日も、紅茶を片手に堂々と笑う。