美術鑑賞と悪友達との小旅行
卒業式が終わると、長い春休みが始まる。当然僕らは楽しみにしていた。ところで小学校から春休み中の課題が出された。小学校最後の課題だ。けれどもその課題というのが変わっていて、現在美術館でやっている展覧会を観賞しようというものだった。中学生になるんだから本物の芸術作品を鑑賞しなさい、というのが理由だった。でもお父ちゃんは『市の美術館でやるからだろう。客の入りが少なかったらまずいんで、集客のためなんじゃないか?』なんて意地悪なことを言っていた。これはサルバドール・ダリという人の展覧会で、ちょっと変わった絵を描く人らしい。僕の家族で美術に詳しい人はいない。お母ちゃんとお姉ちゃんがある分野ではかなり得意らしいけど、それは葛飾北斎とかの浮世絵関係で西洋ものはさっぱりだ。お兄ちゃんも、本人曰く、自分の知識は一般常識程度、らしいけどお兄ちゃんの言う一般常識のレベルがどの程度なのかということについては不明だ。ただその興味はほぼほぼ音楽専門だろう。それに昔美術関係でやった悪戯もいかさまだった。そんなわけで家ではそんな西洋近代絵画のことは話題にもならない。(当たり前だけど学校の友達の間でもそんな方面話題になったこともないし、図画工作の授業はあるけどこれは授業だし関心が持てない)だから僕も全くの門外漢だ。そんな、パンフレットしか見ていない僕が言うのも何なんだけど、この画家さん、あまり万人受けはしなさそうな気がする。だからお父ちゃんの言う事にも一理あるかも知れない。
結局、悪友連中で美術館へ行くことになった。そしてそのあと科学館に寄ったり、伏見か栄で昼ご飯を食べたりすることにした。小学生だけでこんな小旅行をするなんて初めてのことだ。僕らは当日遠足気分で出かけて行った。美術館には案外お客さんが沢山で驚いた。それに展示してあるのが、とても変てこりんな薄気味の悪い雰囲気の絵ばかりで、あらためてたまげてしまった。でも見方によっては滑稽だ、いや面白い。折角だから僕らは面白がって観ることにした。とは言え、僕らはもうすぐ中学生だ、げらげらと笑うなんて無作法なことはしない。密かに目くばせしたり、ひそひそささやき合ったりしながらくすくすと笑って楽しんだ。こうやって十分に芸術作品を堪能した後、科学館に行った。そこでいろいろな実験器具や各種歯車装置で遊んだり、鉄道ジオラマに見とれたり、プラネタリウムを鑑賞したりして大いに楽しんだ。少し遅めのお昼にはベトコンラーメンを食べに行った。やっぱり来月から中学生なんだし大人っぽいものを、ということで。どうやら他の友達は食べたことがないらしい。僕はお兄ちゃんと一緒に何度も食べに来ていてよく知っていたんだけど、それは皆には黙っていた。家に帰ってお姉ちゃんから嫌な顔をされるだろうけど、友達を優先せねばならない、これは致し方のないことだ。
そんなこんなで楽しく過ごしたので、このまま帰るのはもったいないと、僕らはちょっと回り道をして大須に寄ることにした。そこでいろんなお店を冷やかして回った。ただ、冷やかしと言っても人によって実はいろんな趣味、というか特技があるようで、ある友達はパソコン屋さんで店員さんとかなり詳しい話をしていたり、別の友達は電気関係の部品をごちゃごちゃと売っているお店の店主とえらく専門的なことについて話し込んだりしていた(後で聞いたら家でラジオとかを組み立てているらしい)。またアニメグッズのお店で目を輝かせている友達がいて、こちらは漫画を描く勉強をしているとか、古着屋さんであれこれ手に取って実際に買っている、こちらはファッションに興味があって将来はそちらの方へなんていう友達までいた。僕は感心してしまった。こんなにいろいろなことに興味を持って、おまけに実際に本気で取り組んでいるなんて。しかも将来は、と来ている。何にも考えていない僕としては感嘆以外何も出てこない。けれど、まあいいだろう。人それぞれが色んな事を考えている、つまりは人それぞれなんだ。中学生になったら、こういう連中とちょっと立ち入った話をしてみるのもいいかも知れない。
ということで、僕は早速たこ焼きや唐揚げやらの買い食いを始めた。すると他の友達もそれを見て、我も我もとみたらしやらスウィーツやらの買い食いを始めた。こういうことは皆一緒なんだ、と僕はちょっと安心した。
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池下駅で降りて、僕らはニンニクの臭いを少々漂わせながら、プラネタリウムは迫力があったし生解説も面白かった、ベトコンは大人の味だ、辛かった、そうしてやっぱり大須は最高だとか(肝心の展覧会以外の話で盛り上がりながら)がやがやと帰途に就いた。そして毎度のことながら、じゃあまたね、今日はさよなら、また今度、いつの間にか僕はまた一人になっていた。一人で家へと歩いて行く。勿論そんなに長い距離じゃない。近所の家々と電信柱に囲まれた一方通行の狭い道を歩いて行った。
そこでは、低いお日様の光で家や庭木や電柱なんかが薄い茜色の中、長い影を落としていた。それでちょっと不思議な雰囲気になっていたからだろう、僕は今日観た絵のことを思い出していた。展覧会場では皆と一緒に面白がっていたんだけど、気になるところがあったんだ。それは、あそこにあった絵を見ていると妙に懐かしい気持ちになったということ。
何だか懐かしい気がする、郷愁を誘うと言うか、何故かしら、分からない。けれど懐かしい、妙な色合いの空、曇っているのだか晴れているのだか分からないような、あの混沌とした空、しかし光が差し込んではいるらしい。それが証拠に、画面の人物や馬などに常にくっついている真黒なくっきりとした影、これだけの影を作り出すにはかなり強烈な光線が必要なんじゃないかと思う、けれどその情景は薄暗い、いや薄明るいと言った方がいいのか‥‥‥よく分からない。が、どちらにしてもこんな影は現れないだろう。そして地平線、いつもいつも遥か彼方で不愛想に横たわっている地平線、これがあのいかれた空とのっぺりした不自然な地面とを分断している、そんな世界―――こんな世界にいろいろなものが点在している。それぞれがそれぞれと全く関係を持たずに、ここが強調されなければならない。実際、お互いに全く関りを持っていないような、いろいろな“もの”がぽつんぽつんと放り出されている。これは一体何なのだろう。うぅむと唸っていると、さっき考えていた影も、どうやらそのものとして自立的に存在しているんじゃあるまいか、と思われてくる。影も独立したものとしてそこに置かれている、という事かな。ではその影の本体であるように見える人とか馬とか、あの“もの”は何だ?あの“もの”が実はあの“影”の影なのかな?それとも、ものも“影”もやっぱり何かの影なんじゃなくて本体なんだろうか、分からない。
こんないい加減な世界が郷愁を誘う、と感じてしまうのは僕がおかしいのか、それともこれが世界の奥底の本当の景色なんだろうか。そう考えると、どうしてもお兄ちゃんのことを思い浮かべてしまう。お兄ちゃんが思い出としてお姉ちゃんや僕の昔のことを話す時の様子だ。お兄ちゃんはそんな時どんな情景を頭に思い描いているんだろうか。主役はお姉ちゃんと僕だ、それは間違いない。問題はその背景なんだ。自分自身のことを考えてみてもそう思うんだけど、もしかしたらお兄ちゃんがその時思い浮かべるお姉ちゃんや僕の背景は、今日見たあの絵のような風景なんじゃないかしら。そう思えてならない。これは勿論ある程度時間が経過した記憶に限られる。自分自身のことから見てみると、例えば今日の悪友たちとの小旅行、これは何しろついさっきのことなんだから記憶も鮮明だ。今思い出しても各場面での連中の背景をはっきり思い出せる。けれどちょっと前の、恥ずかしながら、あのことの出来事を思い出したりすると、その心の中の風景は、焦点こそあのこの姿に合っていて鮮明なんだけど、背景は何だかもやっとしている。そしてあのこを包むその雰囲気が懐かしい想いを起こさせる、そんな気がするんだ。ただそのもやっとした背景があの絵のようないい加減な風景であるかどうかは、僕にはよく分からない。ただ今日見た絵の印象と、卒業式でのお兄ちゃんの静かな号泣から、そんな風に思われて仕方なかった―――
展覧会の絵と同じ様な変てこりんなことを考えてしまった。一人になったことと帰り道のレトロな雰囲気に飲まれたことから妄想してしまったんだろう。でもこんなことはさっさと忘れてしまった方がいいのかも知れない。そうしないと家に帰ってお兄ちゃんの顔を見た途端、噴き出してしまいそうだから。