英雄
「伯父上!」
よく通る声が初老の紳士を呼び止めた。
声の主は、彼が王都の屋敷に呼び出した妹の息子・アドニスだった。
よく鍛えられた身体に、白銀の翼をあしらった意匠の鎧を纏い、小脇に兜を抱えている姿はまさに騎士そのものだ。
腰に帯びたロングソードは見るからに業物で、精悍な顔つきの彼によく似合っていた。
「立派になったな。見違えたぞアドニス」
「伯父上、いえ、アトラス侯もご健勝で何よりです」
「止せ、昔のように伯父上と呼んでくれ。お前は私の可愛い甥っ子なのだ」
嬉しそうに笑顔で顔をクシャクシャにして、甥の手を取ったアトラス侯爵は優しくそう告げた。
しかし、その笑顔とは裏腹に、彼の心は揺れていた。
これから可愛い甥っ子に大変な荷を負わせることになるからだ…
笑顔で昔話に花を咲かせ、アトラス邸の中を案内した。
「ところで、今お前は王国の騎士団長を拝命していたな」
「はっ!」伯父の問に、頼もしく弾むような声でアドニスが応える。
「誠に身に余る光栄な役職を拝命致しました!聖王騎士団 《聖剣の団》団長として日々励んでおります!」
そう言って彼の手は腰に帯びた剣を握った。
「おお、それが話に聞く聖剣・断魂の剣か…いやはや頼もしい」
アトラス侯は、嬉しそうに目を細めて、精悍な姿の甥っ子に賞賛の声を上げた。
誉められたアドニスは誇らしげな顔で鼻息を荒くしている。
剣技に自信があり、生まれも育ちも良い彼だったが、伯父の前ではただの甥っ子の顔になっていた。
噴水の脇にあるテラスで腰を下ろし、従者が用意した薔薇水を飲みながら侯爵は深いため息を吐いた。
「伯父上。先程から何か悩んでおいでですか?」
ため息を聞き漏らさなかったアドニスが踏み込んだ質問をした。
彼から話を振ったのだ。
侯爵が意を決して話を切り出した。
「お前も知っているだろう。
150年に一人、勇者がこの世界に召喚されるということを…」
「存じております。神官長から、先だっての勇者の死から少なくとも150年過ぎねば神々の異界の門を開くことは出来ない、と伺っています」
「これは極秘なのだが…実は先日、異界の門が開かれたのだ…」
「まさか!」目を丸くして大声を上げる青年を片手で遮って侯爵は言葉を続けた。
「お前の耳に入っていないのも無理はない。副宰相の私だって驚いた。
勇者を召喚するには命懸けで、しかも祭司長級の神官が少なくとも8人必要なのだから…」
「勝手なことを!一体どこの国で召喚されたのでしょうか?
勇者の召喚は国際問題ですぞ!」
甥の言葉に侯爵は苦い顔をした。
そして彼の思いもしなかった言葉を呟いた。
「恐らく…アーケイイック・フォレスト連邦王国だ」
アドニスが絶句する。
それもそうだ。なぜならその国は…
「魔王が…勇者を召喚したと言うことですか?」
青ざめながら精一杯紡ぎ出した言葉はそれだけだった。
アーケイイック・フォレスト連邦王国と彼らは名乗っていた。
エルフ、ドワーフ、竜人などの人外の者が住む魔性の国だ。
広大な森が広がり、鋭い山脈や渓谷が来るものを拒む。
最奥には魔王の居城があり、常に日の照らすことの無い湿地や巨大な迷宮があると言われる。
実際に足を踏み入れるものは少ない。
それゆえに、冒険者と呼ばれる調査や収集を生業にしている者たちの細い糸のような情報だけが国内に持ち込まれるのみである。
得体の知れない、関わり合うことさえ厭う魔物の土地なのだ。
「何故に…」先程までの元気は嘘のように、アドニスの顔が青ざめている。
「勇者は異界から来たばかりは脆弱だ。
恐らくだが…力のない勇者を倒し、次の勇者の召喚まで時を稼ぐつもりか…はたまた、勇者不在の期間に人間の王国を崩すつもりやも知れぬ」
「そんな!勇者を人の手に渡さぬために!?なんと卑劣な!!」
伯父の話に、若い騎士は正義感ゆえの義憤に心を焦がした。
見る人が見れば、随分と芝居がかった反応だと思うだろうが、彼は大真面目に怒っているのだ。
「伯父上!何も知らぬ勇者を助けに向かわねば!」
「落ち着きなさい。その事をお前に頼みたくて今日お前を呼んだのだ」
義憤に燃える若者とは対照的に、初老の侯爵は穏やかな口調で若者を制した。
アドニスははっと我に返る。
伯父の落ち着いた態度とは真逆に、話を聞いただけで取り乱すとはまだまだ未熟者だと恥じた。
しかし、侯爵の皺の刻まれた手も僅かに震えていた。
「…お見苦しい所をお見せしてしまい、大変失礼致しました。騎士団長失格です…」
「良い良い。それよりも、心して聞いて欲しい」
老人の顔から笑みが消え、重々しく口を開いた。
「勇者はまだ死んではいないと言う。
神官長の話では、勇者の存在を知らせる鐘は鳴ったが、勇者が死んだ、もしくは世界を去った知らせの鐘はまだ鳴っていないのだ。
『来訪』は高らかに鳴ったのに対し、1週間経つ今も『退去』は鳴る気配もない。
これが何を意味するか分かるか?」
「…魔王が勇者を殺す意思がないと言うことでしょうか?そんな馬鹿な…」
「勇者の召喚条件は、先代の勇者が死んでから150年以上の時が経過して後だ…
つまり…」
その言葉を聞いてアドニスがはっと顔を上げた。
「できる限り勇者の生を伸ばし、次の勇者を召喚する時間を伸ばそうと画策しているというのですか?」
「そうだ。それしか勇者を生かしておく理由が見当たらぬ…」
「なんと卑怯な…自らの保身のために、なんということを…」
若者の拳が怒りに震える。
目の奥には義憤を湛えた怒りの炎が揺らめいていた。
「伯父上!憐れみは不要です!この若輩者をお使いください!
勇者は魔王を倒せる唯一の希望です。
先代の勇者は失敗したようですが、先々代のように新たな勇者も人々の希望になるに違いありません!」
侯爵は憤然と正義に燃える若者を見つめた。
彼のことは赤子の頃から知っている。
彼は特別な人間だ。
5歳の時に神殿で《祝福》が認められた。
8歳で聖騎士見習いとして神殿に仕え、18歳で聖騎士に、26歳の今ではこの国で6人しかいない聖騎士団長として名を連ねている。
「運命なのだろう…」
そう静かに呟く老人は覚悟を決めたようだった。
侯爵は懐から丸められた羊皮紙を取り出した。
羊皮紙は蝋で封をされている。
その紋章は盾に刻まれた二本足で立つ獅子の姿。
勅命に使用される王家の紋章だ。
「神聖オークランド王国の《英雄》である、アドニス・グラウス・ワイズマンに勅命である。
魔王に囚われし勇者の奪還を命ずる」
「ははっ!」
片膝をつき、頭を垂れる青年に、さらに侯爵は言葉を続けた。
「先代の勇者は転移魔法により妨害を受けた。
故にこの度は転移魔法の第一人者ガリウス・エッセ、大神ルフトゥの神官ウェントゥス・レーニスにも同行させる。
信頼出来る部下は数人必要だろう。その選別は任せる。
しかし、これは極秘任務ゆえに少数精鋭で臨んで欲しい」
「承知しております」
まさか騎士団を引き連れて勇者奪還に行くとなれば、自ら恥を世間に知らしめるようなものだ。
ここは極秘裏に勇者を奪還し、何食わぬ顔で勇者を祭り上げねばならない。
重責ではあるが、やり遂げた後には必ずや報われることだろう。
「それでは私はこれから出立の用意を致します」
「大神ルフトゥの加護があるように祈っている。
そなたの不在は療養のためとしておく。
騎士団は副団長のラウルスの委ねることになる」
「ラウルスは信頼に足る人物です。
帰ってきたら私の事など皆忘れているかもしれません。」
アドニスはそう言って爽やかに笑った。
深く一礼して立ち去る若者の背を、伯父は心に焼き付けた。
もう二度と彼には会えない。
そう知っているからだ。
「…すまない、アドニス…許してくれ」
二度と会えないのは任務の失敗だけでは無い。
たとえ成功しても、彼は秘密のために死ぬ定めなのだから…