接吻
イール…
あの子何を考えてるのかしら?
ヒルダを友人と呼んでいたけど、本当はもっと深い関係を望んでるのは私にも分かる…
イールの視線が彼女を追っているのも、柔らかい眼差しで見守ってるのも気付いてる。
話をしてる時だって…あんなに楽しそう…
あなたが恋してるのに気付いてないと思ってるの?
「ペトラ?どうしたの?」
ミツル様の声にハッとした。
急に喋らなくなった私を心配するように顔を覗き込んでいた。
「何か嫌なことあった?」
「なんでもないです」と微笑んで答えた。
ミツル様は見てないようでちゃんと私の様子を見てる。
感情に人一倍敏感な優しい人だ…
「辛そうな顔してたよ。
どうしたの?」
「…イールが…」
「うん?イールが…どうかした?」
「もし、ここを出ていったらどうしようって…」
私の言葉にミツル様は目を丸くしていた。
急な話で理解できないのは分かる。
でもそれ以上の事を言うわけにはいかない…
ヒルダがイールを連れて行ってしまうなんて私の妄想だと笑われてしまう。
そんなこと無いって…私の杞憂だって…
涙が零れた。
不安だ…弟を失うかもしれない…
「ペトラ、聞いてあげるから泣かないで。
僕で良かったら聞くから、絶対に笑ったりしないからちゃんと話してよ」
オロオロと心配するばかりのミツル様は私の手を握った。
暖かい手に気が緩んで、気が付くと不安を口にしていた。
「イールが…あの子きっとヒルダの事が好きなんです…私はあの子の姉弟ですもの、分かります」
「は?え?ヒルダ?」
私の言葉を飲み込めずに、ミツル様はまた狼狽えた様子だ。
その姿に裏切られたような気がしてガッカリした…
「ほら…ミツル様も信じないでしょう?」
「あ、いや…何か意外で…」
「ヒルダがフィーアに帰ったら…諦めてくれるなら良いけど…もし、自分も行くと言い出したら…」
自分で言ってて辛い…
もしものことでこんなに苦しいなんて…
「…ペトラ…一人で悩んでいたの?」
ミツル様の声に頷く。
陛下にも誰にも言ってない。
私だけの胸の中に留めておこうの思っていたけど限界だ…
「君達は本当に仲良しだもんね。
そうか、辛かったね」
そう言ってミツル様は優しく肩を抱いてくれた。
ボロボロと涙が溢れる。
ミツル様は手を引っ込めた袖で私の涙を拭った。
この人は本当に優しい…
「でもさ、イールは君がこんなに苦しんでるのを見たら悲しむよ。
僕もついて行くから、ちゃんと彼に確認しよう?
はっきりするまで君は不安なままだろ?
それじゃ良くないよ」
「…でも、怖くて…」
違うならそれでいい。
でも私の考えてる通りなら弟はアーケイイックから遠く離れて行ってしまう…
「ペトラ、イールだって僕らの事を心配したはずだ。
僕は人間で、君達の敵になるはずだった《勇者》なんだよ」
「…分かってます」
イールは仕方ないと私の気持ちを尊重してくれた。
それなのに私は…
「私は弟の幸せを喜べない…酷い…最低な姉です…」
「違うよ、ペトラはいいお姉さんだ。
イールも君の気持ちはよく分かってるはずだ」
そう言ってミツル様はまた私の涙を拭った。
「ハンカチじゃなくてごめんね」と苦笑いしながら袖を濡らした。
「僕は兄弟も居ないし、恋愛だって初心者だけど、ペトラの気持ちを聞くことくらいは出来るよ。
だからまだ思ってることがあったら聞くからさ、泣くほど辛いなら全部話しちゃいなよ」
優しくそう告げてミツル様は私を安心させるように笑った。
人懐っこい感じの騙されそうな笑顔に涙腺が緩む。
我慢できずにわっと泣き出した私に、ミツル様は困ったような顔で、私の肩を抱き寄せて、子供をあやす様に背中を軽く叩いて慰めてくれた。
「あーあー…僕が泣かせたみたいじゃないか…」
そんなことを冗談みたいに言って、彼は苦笑いしながら私が泣き止むのを待っていた。
頼りなかった肩幅は少し広くなって、筋肉のある男らしい身体になっていた。
私一人が縋ることができるくらいの居場所がそこにはあった…
「男ならハンカチくらい持ってなきゃダメだね」と彼は言った。
誰にも吹き込まれたのだろう?
そんな女たらしみたいなこと言わないで欲しい…
ミツル様は不器用でモテない方が安心する。
私だけが貴方の良さを知ってるくらいがちょうどいい…
「一緒にイールに確認してくれますか?」と問いかけると、「いいよ」と軽い感じでミツル様は答えた。
「イールに睨まれるのは慣れっこだ。
お節介って言うだろうけど、僕はお節介で何でも首を突っ込むらしいから、もうそういうことで納得してもらおう」
「昔みたいにオドオドしないんですね」
「だって《勇者》だからさ、何でもありだろ?」
ミツル様はそう言って私の頭を撫でた。
手のひらは暖かく、硬い男の人のものだ。
「もう大丈夫?スッキリした?」
「はい」
「じゃあちょっと離れようか?
近すぎてキスしちゃいそうだ」とミツル様は恥ずかしそうにそう言った。
多分冗談で言ったのだろう。
私達はまだキスも交わしてない。
「…してください」
「え?」
「ミツル様が言ったんですよ!
それとも私とじゃお嫌なのですか?」
「いや、そんな事ないけど…
この流れで?いや、もっとなんかタイミングが…」
「《勇者》でしょう?何でもありなんでしょう?」
「そういう意味じゃ…」
しどろもどろになって目が泳いでる彼の顔を捕まえて、驚いた顔を逸らす前に強引に口付けた。
自分でもよくこんなに大胆なことしたと思うが、ミツル様からはしてくれない。
唇が離れると、彼の驚いた顔が目の前にあって恥ずかしくなった。
「ペトラ」とミツル様が私の名前を呼んだ。
「…申し訳ありません…はしたないですよね…ごめんなさい」
「…僕からもしていい?」と彼が訊ねた。
「アンバーには恥ずかしいから内緒だよ」と笑って私を抱き寄せると、彼は私に控えめのキスをくれた…
✩.*˚
キスしてしまった…
やばぁ…マジかぁ…
そっかァ…唇ってあんな感じなんだ、初めて知った…
やばぁ…恥ずかしくて死にそう…
それこそイールやルイ達に童貞ってバカにされるだろうけど、初めてなんだからキスで感動したって良いだろう?
ペトラ可愛かったなぁ…
「…ミツル様…なんか変なもの食べましたか?」
フワフワした様子の僕に、若干引き気味のベティが声をかけた。
「上の空でニヤニヤしてたら気持ち悪いですよ…」と容赦がない。
「え?いや、何でも…」
「本当ですか?絶対におかしいですよ?
ペトラ様も部屋を出てく時に顔を真っ赤にしてましたし、ちょっとベッド確認してきますね」
「そこまでしてない!」
「ほらやっぱり!そこまでってことはどこまでしたんですか?」
あぁ、僕のバカ…
「…キスしただけだぃ…」と白状するとベティはシラケた顔をした。
「あ、そうですか…」
「何?何その顔!」
「心配して損しただけです。
ご馳走様です」
何?ご馳走様ですって…
「ベティだってルイと、キ、キスくらいするらろ」
噛んだわ、ダサぁ…かっこ悪い…
ベティの視線が、出会った頃を思い出すくらい冷たい。
うう…気まずい…
「《勇者》の割にチキンですね」
「ひっどぉ…」
「《勇者》が頼りにならないもので、私もなかなかお嫁に行けないんですよね」
それルイにも言われた…
「イール様だって、ペトラ様に御遠慮してるんですよ」
「…イールってモテるの?」
「何言ってるんですか?
あの御姉弟を見たら分かるでしょう?
他の氏族から引く手数多ですよ」
そうでした…
そんな話がないから僕が知らなかっただけで、そりゃあ、あの姉弟ならモテモテだろうさ…
「イール様も他氏族からアプローチが沢山あったそうですが、誰にも贈り物をされていないそうですよ」
「何?贈り物って?」
「ペトラ様から花籠を頂戴したじゃないですか?
男性の場合は装飾品を贈るんですよ。
そういえば、ミツル様は何を贈られたんですか?」
「え?」
ベティに当たり前のように言われたが、そんなシステム知らない。
ベティが怪訝そうな顔をした。
「…もしかして…知らないんですか?」
「え?何か返さないといけないの?」
「ダメですよ!ちゃんと耳飾り贈らなきゃ!」
「え?こういう時って指輪買って渡すんじゃないの?」
給料3月分だろ?
ドラマとかでよくあるやつ…
「何馬鹿なこと言ってるんですか!
早くイール様の所に行きますよ!」
そう言ってベティは僕の腕を掴んだ。
すごい力で引きずって行かれる。
えぇ…また異世界ルール発動?
「何渡すのさ?」
「何って!手作りの耳飾りですよ!」
当たり前のようにベティが答えるが、それには一つとんでもない問題がある…
「え?マジで?僕が不器用なの知ってるよね?」
通知表で図工と美術が十段階の三だぞ!お情けの三だ!
小学校の通知表に《不思議な世界観》って書かれた黒歴史まであるんだぞ!
アンバーにはゾウとキリンが分からないと言うから描いて見せて『君には致命的な欠陥があるね』と言われた。
手作りの耳飾りを彼女に贈るとかマジでヤバイって!
ドン引き不可避だわ!
「大丈夫です!多分!」
「ベティだって《多分》って言ってるじゃんか!」
「イール様は装飾品を作るのがお得意です。
以前ブローチ頂戴したじゃないですか?あれもイール様が作ったものですよ!
多分ミツル様でも作れるのを見繕ってくださるはずです」
「僕の不器用を舐めないでよ!」
「どういう自信ですか?!
もっといい事で誇ってください!」
ベティに腕を引かれながらイールの部屋の前に連れていかれた。
ノックしたが応答がない、ドアに鍵もかかっている。
「留守かな?こんな時間にどこに行ったんだろう?」
「分かりません」とベティが首を傾げてる。
「良かったー…出直そう」とつい本音が漏れてベティに睨まれた。
「明日またイール様にちゃんとお話してくださいよ!」と釘を刺される。
「嫌な顔されるのがオチだよ」
「じゃあペトラ様はどうするんですか?」
「うーん…でももう夕食の時間だしさ、ペトラとご飯食べなきゃ」
泣いた後、部屋に戻って行ったからお腹空いたろうな…
またキスしたことを思い出して耳まで真っ赤になった。
耳飾り…考えておかないとな…
「もう!そんなこと言って逃げてもダメですよ!」
ベティに叱られながら来た道を戻る。
結局廊下を賑やかしただけで僕達は部屋に戻った。
✩.*˚
イールの親父さんには、出発前にイールの部屋に居たのを見られてる。
小言を言われても直ぐに逃げられるように、わざと汚れたままの服で行った。
なにか言いたそうな魔王様に、傭兵から奪った依頼書と身分証を渡すとイールを連れてさっさと退散した。
思った以上に魔力を消費してたから眠かったというのもある。
返り血を流して、着替えを済ませ、またイールの部屋に行った。
彼は少し迷ったが中に入れてくれた。
イールのベッドを借りて休んでいると、ノックの音で目が覚めた。
作業台に座ったイールは自分の口に人差し指を立てて「静かに」と合図した。
ドアには鍵がかけられていたから、「留守かな」という声の後に扉の前の気配が消える。
声からしてミツルっぽかった。
「…良いのか?」と訊ねると、イールは苦い顔で答える。
「こんなところ見せられない」
「別に最中じゃないだろ?」
「君の寝てる場所が問題なんだ」
イールはそう言って苦笑いすると、ベッドに来て腰を下ろした。
綺麗な顔で微笑む彼は「少し休めたか」と訊いた。
女みたいな綺麗な手があたしの頭を撫でる。
「どれくらい経った?」
「 部屋に来て一時間くらいだな…
私も少し進んだ」と手にした物を見せてくれた。
削り出した魔石が手のひらの中でキラキラ輝いている。
「君の髪と瞳の色だ」と言って黄色と緑のグラデーションの魔石を手のひらの上で転がした。
「何の魔法を刻むのさ?」
「何がいい?
《聴覚保護》でも《聞き耳》でも《集音》でも、はたまた全く関係ない《治癒》でもいい。
何でも君の欲しいものを刻むよ」
「あんたの声も刻める?」と訊ねるとイールは驚いた顔をした。
「可能だが…」
「じゃあ《愛してる》って刻んでくれよ。
あたしがフィーアに帰っても、あんたの声を聞けるように」
そんな柄にもない乙女みたいなことを口にした。
「後で『呪いみたいだ』って言わないか?」
「言わないよ。
いい思い出だけ持って帰るさ」と笑って見せた。
あたしの答えに、イールは「そうか」と言って寂しそうに微笑んだ。
あたしはラーチシュタットに帰らなきゃならない…
イールはあたしとは一緒に来れない…
未来は別の方向を向いている。
あんたに貧乏くじは引かせられないもんな…
「イール…耳飾りの意味は?」と問うた。
彼は迷わず《永遠の誓い》と応える。
顔が吸い寄せられて二人で唇を交換した。
今しか出来ないから、今のうちにあんたの唇を覚えておくよ。
あんたの顔も視線も声も吐息も、背丈も肩幅も、手のひらも指先も、全部全部心に刻むから…
あんたもあたしを忘れないでいてよ…
この先百年、二百年…
あんたはあたしの思い出を引きずって生きるんだ。
一瞬閃いて消える稲妻のように、あんたの脳裏にあたしを刻んでおいてくれ。
✩.*˚
夕焼けに照らされた部屋の机に頬杖をついて、手のひらに納まる大きさの依頼の巻物を睨めつけた。
その巻物は赤黒い血で汚れていたが、中の文字は滲んではいない。
血で張り付いた巻物を丁寧に開くと、中から不愉快な内容が浮かび上がった。
《アーケイイックの希少な動植物及び亜人種の蒐集》についての依頼だ。
対象にされているのは、私が途方もなく長い時間をかけて守った大切な命の数々だ。
先王・グランス様と私の大切な宝だ…
依頼書の左上には《23組》の番号が記されていた。
これが依頼のシリアルナンバーだとすれば、それだけの数の略奪者がアーケイイックに侵入することになる。
「…オークランドよ…貴様はどこまで堕ちるのか…」
腹の中でドス黒いモノが蠢く感覚を覚える。
朽ちてしまった腸が焦げるような、強い怒りが湧いた。
かつて愛した祖国はもはや面影すらない。
私が生きていた時代も、その片鱗は見え隠れしていたが、それでもまだ改めるものだと信じていた。
私がオークランドを富ませ、《勇者》を与え、強国へと押し上げた…
オークランドの為と信じてそうしたが、彼国はその恩恵を当たり前とし、貪欲に欲し、傲慢になってしまった。
『ごめんね、もうこれしかないの』
毎日聞いた母の言葉。
顔も姿も思い出せないが、毎日聞いた懺悔のような言葉は鮮明に私の中に残っている。
生まれた故郷の荒れた大地は、農作物を受け入れてはくれなかった。
痩せた土地から採れる僅かな食料も、税として徴収された。
汗を流して必死に働いても、手元に残ったのは乾燥した芋の欠片と、形の悪い僅かな豆、傷んだ小麦だけだった。
薄く白湯のようなスープには、豆と芋の欠片が浮いていた。
その少しの食料も、弟達に分けてやった。
先に生まれた分だけ自分は食べたからと、痩せた弟達に与えて心だけ満たされた。
頭を使って魚や鳥を捕まえることを覚えたが、それでも貧しさは変わらなかった。
根本的な問題が解決されなければ意味が無い。
安全な水源を確保して、土地を潤し、作物を作ること。
そして、豊かさを共有できる物流を水の流れのように行き巡らせること。
一部の豊かさや仮初の幸せではなく、喜び溢れる国を作ること。
明日食べるものがなく、飢えて死ぬ子供が居なくなること…
そんなことを願って、私はワイズマンとしてオークランドを愛し、持てる全てを捧げて奉仕したと言うのに…
オークランドは私を裏切った…
私の夢も希望も忠誠心さえも踏みにじり、こうして今も貪ろうと貪欲な手を伸ばし続ける。
それでも私はオークランドを滅ぼすことは出来ない…
悲しいかな、まだオークランドを家族のように愛している私がいる…
『アンバー、お前は優しいな』と私を撫でた大きな手のひらを覚えている。
『ありがとう』と私を抱きしめた、あの痩せた腕を忘れられない。
オークランドの大地には今も彼らが眠っている。
私はまだ、あの軽薄な国に分かり合えることを望み、期待しているのだ…
だからこんなにも心が痛むのだ…
「失礼します、陛下」と部屋をノックする音とルイの声が聞こえた。
彼を部屋に招き入れると、その大きな手には連絡役の鳥を抱えていた。
「オリヴィエより《報せ》が届きました。
話せ」
ルイが鳥の胸の当たりを撫でると鳥は上手に鳴いた。
『国境の森にてオークランド人の小隊を発見、捉えました。
四個小隊、二十七名を捕虜にしております。
部下を各村に配しておりますが、今のところ大きな被害は出ておりません。
攫われた子供達は健康状態に問題なく無事です。
ご指示をお待ちしております』
「御苦労」とルイと囀り終わった鳥を労う。
子供達が無事で何よりだ。
それにしてもオークランドの挑発は見過ごせない。
今日はたまたま運良く助かっただけだ…
明日もあの広大な森を守りきれるとは思えない。
何処かで綻びが出来てしまう。
「返事はいかが致しましょうか?」
「…今、私の手元にある親衛隊は如何程か?」
ルイは「手勢は二百程です」と短く答えた。
「予備兵は?」
「八百程です、陛下」
「…少ないな…
アーケイイックの広大な森を守るには兵士が足らない」
分かっていたことだが、我々の手勢は少ない。
元々アーケイイックは多部族で構成される多民族国家だ。
故に人間のような国家や軍隊という考えが欠落している。
国や王という概念さえ理解できない部族も少なくない。
先王・グランス様のカリスマ性でやっと対人間の体制を作り、部族間の協力体制を整えた。
親衛隊という名目で、戦士を集めたが一国の軍隊には遠く及ばない。
頭の痛い問題だ…
「戦士の部族に呼び掛けることも可能ですが、準備に時間を要します。
招集致しましょうか?」
「それでは一時凌ぎにしかならん…
やはり国土に見合った軍隊の編成が必要だ」
「軍隊ですか…」
ルイも困ったように頭を搔いた。
何度となく編成を変えようと努力はしたが、ノウハウが無いので毎回頓挫しているのが現状だ。
「誰か適任の相談役が居ればいいのだが…
私も軍に関しては詳しくないのでな…」
「ヒルダは如何でしょう?」とルイが提案した。
「女性ではありますが、彼女もヴェストファーレンです。
幾らか心得はあるものと存じますが?」
「ふむ…」
確かに彼女はフィーア南部の要所で兵をまとめる指導的立場の人間だ。
「しかしなぁ…他国に自軍の内情を教えてくれるものだろうか?」
「そこは聞ける範囲でよろしいかと…
必要なら侯爵の許可を頂戴すれば問題ないでしょうし、参考程度に話してみては如何でしょう?
少なくとも私よりはお役に立てるでしょう」
そう言いながらルイは手にした鳥を撫でた。
鳥は目を閉じてクルルと低い声で懐っこく鳴いた。
「ところで、オリヴィエには何と返事致しましょうか?」
「ふぅむ…
とりあえず、増援として親衛隊から五十名と予備兵を二百名選んで送ってくれ。
被害のあった村には国庫から見舞いを出すと伝えよ。
そのための蓄えだ。
オリヴィエには引き続きアーシャらと国境の警備を続けさせよ」
「御意」
「軍の編成については、また後日時間をとって皆と相談しよう。
お前ばかり忙しくさせてすまんな」
「存分にお使い下さい。
私はそのためにいるのですから」と彼は頼もしく応えた。
私には、常に自分を殺して生きるこの不器用な男に兵達を預けるしかない。
彼ばかりに負担をかける気がして申し訳なかった。
「何が欲しいものはないか?」
埋め合わせのつもりで尋ねると、彼は酒を要求した。
「部下達を労うのに必要な分を」と言う。
「そんなもの幾らでも持っていくがいい。
それより、自分の褒美に何を望むんだ?」とさらに問うと彼は困ったように首を傾げた。
しばらく考え込んで、思いついたように顔を上げた。
「ベティに贈り物を」と言うので頭を抱える。
だから、お前の褒美だと言ってるだろう?
それでもルイは嬉しそうな様子で狼の尾を振っていた。
「彼女の喜ぶ顔が一番の褒美です。
私には女性の望むものは分かりませんので…」
あぁ…そういう事か…
この男は本当に無欲だな…
「分かった。
じゃあ私が適当に見繕ってあげよう」
そう答えながら、私は彼とベティへの贈り物を決めていた。
後で要らないと言っても受け取らせるからな。
用事を済ませたルイを下がらせ、代わりにカストラを呼んだ。
「家を一軒用意してくれないか?」と彼に持ちかけると、彼は青い瞳を輝かせて「喜んで」と応えた。
「どんなものをお求めですか?」とカストラは早速家の条件を尋ねた。
彼はイールのように細かいものを作るより、建築物や船などを作るのが好きなのだ。
「ルイとベティの新居を用意してやろうと思ってな。
出仕に困らぬよう、城下の良いところに用意してやってくれ。
必要なものは私が全て用立てよう。
二人とも身長が随分違うが、困らないように作ってやってくれ」
「これは難しいですね」と彼は謎なぞを解く子供のように楽しげだ。
「サプライズだからルイにもベティにも内緒だ。
くれぐれも上手くやってくれよ」と注文をつける。
私のつけた注文を彼は快諾した。
「お任せ下さい。
皆に内緒で宮殿だって作ったんですから、家一軒くらい楽なもんです」と彼は笑った。
そのうちこの城の子供たちの部屋も寂しくなるかもしれない。
それでもまたこの城はペトラ達の子供達が賑やかにしてくれる事だろう。
恋人達の行く末を見守ることしか出来ないが、私は彼らの幸せを祈っている。
イールだってそのうち…
「…あ」思い出してつい声に出てしまう。
カストラが驚いた顔で「如何致しましたか?」と訊ねた。
「いや、何でもない…」
イールに小言を言うのを忘れていた…
まぁ、今日は疲れてるだろうし、明日にするか…
✩.*˚
今夜もエバーハルトやアルフレート達と酒場で騒いで、煙草を咥えながら家路についた。
「明日は?」と訊ねると、アルフレートは「今日と同じですよ」と答えた。
その返事にゲッソリする。
「練兵に付き合えとか俺暇なんだけど…」
俺は見てるだけだもんな…
ヒルダとの喧嘩が懐かしい。
俺の嫌そうな顔を見て、アルフレートもそれに習った。
眉間のシワがだんだんシュミットに似てきた。
「哨戒に出てもいいですが、トリスタン様が出たらオークランドが一個大隊を出してくるので騒ぎになりますよ。
下手したらそのまま開戦です」
「良いじゃねぇか、実践訓練ってことにしようや」
「本当にやめてくださいよ…
やっと使い物になってきた兵士を無駄に浪費しないで下さい。
大旦那様から減俸どころか更迭されますよ」
「どこに飛ばすんだよ」
「さあ?湾岸警備じゃないですか?」
「俺は船は合わないんだよ、直ぐに酔っちまった。
それにあいつら風呂入らねぇから汚ぇんだよ。
船のこもった匂いだって最悪だ!俺は船乗りなんてゴメンだね」
「野戦の時は塹壕や拠点作りでこっちも汗だく泥まみれでしょう?」
「違うね!
俺は湯を張った風呂と清潔なベッドのために仕方なく野戦でも我慢するんだ!
んで、最短で終わらせる!
あいつらは平素からあの生活なんだ!希望がねぇんだよ!」
「言いたいことは分かりますが…」とエバーハルトも困り顔だ。
あんな生活してたら病気になっちまう。
戦って及ばず死を迎えるなら仕方ないが、病魔に侵されて惨めに死ぬのだけはゴメンだ。
「嫌ならしばらく大人しくしててくださいよ。
どうせ嫌でも数ヵ月後には暴れることになるんですから…」
「へいへい、分かりましたよ」
優秀な小言役に不承不承で返事をして新しい煙草を取り出す。
「《リヒト》」小さな炎を掌に宿して煙草に火を灯した。
「相変わらず器用ですな」とエバーハルトが笑った。
「俺は天才だからな」と嘯いてみせる。
親父殿が問題児の俺を手放さないのは、俺が天才だからだ。
剣も魔法も知力も応用力も、俺は完璧にこなして見せた。
そうじゃなければヴェストファーレンの名前を与えようとは思わなかったに違いない。
息子に向けるような愛着なんかじゃない。
使える駒として手元に置いてるだけだ。
見慣れた道を進むと、俺の家の近くに商売女が立っていた。
目深にフードを被っていたから顔は分からなかったが、ここらで見ない女だ。
そういう気分じゃないから無視して通り過ぎた俺を女が呼び止めた。
「今日は声をかけてくれないんだ」
その声に覚えがあって足を止めた。
「トリスタン様?」
足を止めた俺にアルフレートが怪訝そうに振り向いた。
まさかそんな訳ないよな…
「今夜はあたしの名前を訊いてくれる?」
そう言って女はフードをとった。
覗いた顔はもう見るはずのない顔だった。
長かった黒髪は短く切られていたが間違いない。
親父殿に引き渡した《蜘蛛》だ…
「お前…親父殿に殺されなかったのか?」
彼女が俺に答える前に、得物を構えた二人が俺の前に立ち塞がった。
「トリスタン様をまた狙いに来たか?」
アルフレートが彼女を睨めつけながら剣を構え、エバーハルトも槍の穂先を女に向けた。
こんな可愛い女相手に余裕のない奴らだな…
彼女は「違うよ」と答えて驚くような言葉を口にした。
「もう《蜘蛛》は辞めた、今は《燕》だ」
「は?」
「ヴェストファーレンの大旦那に雇われた。
あんたが悪さしないように見張れって、そう言われて送り出された。
あんたがあたしを身受けてくれるんだろ?」
当たり前のようにそう言って、彼女は手紙を差し出した。
アルフレートが女の手から乱暴に手紙を取り上げた。
黒い封筒を一通り確認してから俺に差し出す。
「大旦那様からトリスタン様宛てです」
「何かね?また小言か?」
気が進まない手紙を受け取った。
黒いのは俺宛だ。
燕の封蝋を砕いて中身を確認した。
「大旦那様は何と?」
「…なんでもねえよ」
手紙には、何とは無かったが、《褒美にくれてやる》とあった。
二人の前に進み出て彼女の前に立った。
短くされた髪は勿体なかったが、女らしい小柄で華奢な体型で、出るところはちゃんと出てる。
親父殿も粋なことをする。
「お前の名前は?」と訊ねると彼女は俺を真っ直ぐに見上げて答えた。
「《ミア》って名前を貰った。
《蜜蜂》はもうヴェストファーレンに殺されたから…」
「もう《蜘蛛》の匂いしないな」
「全部取り上げたのはあんたじゃないか?
もう毒も武器も何も持ってないよ」
「確認するか?」と笑うと《ミア》は「いいよ」と答えた。
「でも家に入れてよ、こんなところじゃまずいだろ?」
「だな」と応えて鍵を出すと、その手をアルフレートに乱暴に掴まれた。
「トリスタン様!あなたいい加減に…」
「何だよ?文句あんのか?」
「《蜘蛛》ですよ!
こんな信用ならない女を家に上げる気ですか?!
明日冷たくなってても知りませんよ!
エバーハルト!その女をラーチシュタットからつまみ出せ!」
「トリスタン様、俺も同意見ですよ。
おふざけにしてはタチの悪い冗談だ」
普段は俺と冗談ばかり言っているエバーハルトも、この時ばかりは真面目な顔で俺に迫った。
それでも、二人には悪いが俺はミアを渡す気は無い。
「止めろよ、親父殿からのご褒美だ。
有難く頂いて何が悪い?」
「悪さしないよ。あたしだって命が惜しいしさ」
そう言ってミアは左胸を見せた。
白い胸に刺青のように魔法陣が刻まれている。
奴隷に刻まれる魔法陣だ。
そこまでするか?
「《ヴェストファーレンを害したら心臓を潰す》呪いを貰ったから、あたしは何されても手出し出来ないんだ」
そう言ったミアに、アルフレートは相変わらず殺意のこもった視線で睨めつけていた。
いつもならため息を吐いて譲るアルフレートだが、珍しく一歩も譲らない。
「だからなんだ?
大旦那様がどういうつもりで送ったのかは知らないが、私はお前をトリスタン様に近づける訳にはいかない。
出て行かないならここで始末する」
「アルフレート、お前いい加減に…」
さすがの俺も辟易する。
融通の利かない奴だ…
エバーハルトも難しい顔で俺を睨んでいた。
いつもなら俺を甘やかすが、今回ばかりは話が違うらしい。
「どうしても渡さないんで?」
「やだね、俺が貰ったんだからもう俺のもんだ。
とやかく言われる筋合いはねぇよ」
俺が要求を突っぱねると、エバーハルトは困ったように苦笑いして顎髭を触った。
「トリスタン様、俺はあんたの我儘に振り回されるのは嫌いじゃないんですよ。
でも今回ばかりは別だ。
あんたが望めば似たような娘は幾らでも呼び寄せられるでしょう?
何もその娘に固執することないじゃあないですか?」
「彼の言う通りです!
すぐに代わりを用意しますから、その女をこちらに渡してください!」
アルフレートがそう言って、渡せ、と言わんばかりに手を伸ばした。
お前にミアを渡したら、お前はミアを始末するんだろう?
「ミア」
名前を呼んだが、彼女は黙って俯いていた。
腕を掴んでも抵抗もしない。
ただ少しだけ震えていた。
掴んだ俺だけに分かるくらい微かに…
小さくて軽い体を引き寄せた。
「悪いな、帰ってくれ」
その言葉にミアは顔を上げて俺を見上げた。
信じられないとでも言いたげな目は丸く見開かれていて、瞬きも忘れているようだった。
アルフレート達も信じられないといった顔で俺を見ている。
俺の気持ちはもう決まっている…
「聞こえなかったのか?
お前達二人に帰れって言ったんだ」
彼女を腕に抱いて二人にそう告げた。
ミアの小さい体は腕の中にすっぽりと納まった。
野良猫でも拾った気分だ。
「もうこいつは俺のもんだ。
お前達には悪いが、譲る気はない」
「…正気で?」と問うアルフレートに、「俺はマジだぜ」と笑ってみせる。
「あなたがなんと言おうと、私は…」
引き下がろうとしないアルフレートだったが、彼が言い終わる前にエバーハルトが動いた。
「アルフレート、終いだ、帰るぞ」そう言って踵を返し、太い腕をアルフレートの首を引っ掛けて引き摺るように連れ去った。
「冗談じゃない!」とアルフレートも抵抗するが、エバーハルトの太い腕は容赦なく彼の首を締め上げた。
「俺だって嫌々なんだ。
でもトリスタン様と大旦那様に言われたら嫌とは言えんよ。
まあ、明日生きてたらまた酒でも奢ってくださいよ」
「悪いな、エバーハルト」
「今日は俺が貧乏くじだ」と彼は苦笑いした。
厳つい腕の中で、首を絞められてぐったりしてるアルフレートを肩に担ぐと、彼は「明日朝一番に伺います」と言って帰って行った。
暗い路地に小さくなる巨躯を見送ってミアが口を開いた。
「…良いのかい?」
「何が?」
「あいつら、あんたのために言ってくれてたのにさ」
「何だよ?俺よりあいつらの方が良いのか?」
「そうじゃないけど…」と、ミアは困った顔でそう言って、俺の腕の中で「あんたイカれてる」と呟いた。
その言葉が言い得て妙で、俺を的確に捉えていた。
「そうだよ、俺はイカれてんだ。
でもお前も十分イカれてるじゃねえか」
そう笑い飛ばして彼女を家に上げた。
「ほらよ」と銀貨を出して彼女に握らせる。
ミアは不思議そうな顔で俺を見上げたので、意地悪く笑って見せた。
「この間の続きをしようじゃねえか?
随分間が空いちまったが良いだろ、ミア?」
「…あんたやっぱりイカれてる」
彼女は少しだけ笑って、甘えるように首に腕を絡めてきた。
俺が腰を折って、彼女が背伸びする。
求めるように舌を絡めて、少し長めの接吻を交わした。




