散髪
鏡の前で、髪の毛にハサミを入れた。
金色の髪が、あたしから切り離されて床に散らばった…
かなり思い切ってやったから、もう後には引けない。
ハサミを進め続ける。
やっぱり自分だとやりにくい…
『お嬢様』とドアから呼ぶ声がした。
誰も入ってこないように鍵を閉めてたから、不思議に思ったんだろう。
『入ってくんな、ライナー』と彼を拒絶した。
『鍵なんていつもかけてないでしょう?
何をなさっておいでですか?』
ノックと心配そうな声が廊下から響く。
騒ぎにしたくなかった。
『何も…』
『嘘おっしゃい!何か隠しておいでだ!』
ドアノブがガチャガチャとやかましく騒ぐ。
『やめろって!』
『何か思い詰めておいででしたよ!
何を考えているのか知りませんが、私の目は誤魔化せませんからね!』
『分かったよ!騒ぐなって!』
誰か来たらどうするんだ…
本当にドアを蹴破ってでも入ってきそうだったから、あたしが先に折れた。
ドアを開けたあたしを見てライナーが目を見張った。
『何です!その髪は!』
『自分で切った…あたしには必要ないだろ?』
『大旦那様が見たら…』とライナーが青い顔して言葉を失った。
また親父殿か…
『親父殿に必要なのは女じゃなくて戦える奴だ…
こんな長い髪は邪魔だ…』そう言って手に持ってた髪の束を捨てた。
『だからって…なんて事を…』
床にちらばった髪の毛を集めながら、彼は嘆いていた。
あたしの髪を整えるのも、この男の仕事だったから、思い入れがあったのかもしれない。
あたしだって辛くないわけじゃない…
辛いから髪を切ったのだ…
親父殿への未練と一緒に髪を捨てた…
そんな事、誰にも言えるわけが無い。
あたしの好きは、父親への好きではなく、男へのそれだった。
出会った時からずっと…
床にちらばった髪を丁寧に集めると、ライナーはため息を吐いて鏡台の椅子を引いた。
『…座ってください、私が整えますから』と彼は諦めたようにそう告げた。
どっちにしろ、もう半分以上切ってる。
誤魔化すのは不可能だった。
あたしは頷いて彼の前に座った。
『男みたいにして…』と注文をつけた。
『かしこまりました』
鏡越しに彼を見ると眉間に三本シワが出来ていた。
まあ、そういう顔になるよな…
再び髪にハサミが入る。
彼は器用な手つきであたしを男に近づけていく。
『慣れてるんだな』
『戦に出れば床屋には行けませんからね』と彼は答えた。
『同じ部隊にいた床屋の息子に習いました』
彼はそう言って後ろを整え終わると、左右のバランスを見ながらあたしの髪をさらに短くした。
『…無理して男にならなくても』と彼は言ったが、女を辞めるのと男になるのはセットだ。
『いいんだ、これで嫁に行かなくて済む』
『…そんなことのために?』
彼は切った髪を払う手を止め、鏡越しに私を見た。
シュルツという騎士の家から縁談があったと耳にした。
こんなじゃじゃ馬を欲しがる奴が居たらしい。
別にその男が嫌いとかそういうことじゃない。
親父殿への当てつけでも無い。
ただの意地と我儘だ…あとは少しの未練…
『親父殿には、死ぬまであたしの面倒見てもらう』
『はぁ…左様ですか…』
『あんたもだよ、ライナー』
『私もですか?』
『髪切ったろ?共犯だ』
『…なるほど、そう来ましたか…』
『ずっとあたしの髪を切らせてやるよ』
あたしの言葉に『嫌な仕事更新です』と彼はため息を吐いた。
『男になったんだ、煙草も覚えるさ』と笑うと彼は苦い顔をした。
『おやめなさい、いい事ありませんよ』
『お前だって煙草飲みだろ?』
『まあ、嗜みますが…』
『じゃあ問題ないだろ?』
『やれやれ…どうしようもないお嬢様だ…』
半ば諦めたようにライナーは嘆いた。
良いんだよ、ライナー…
あたしの幸せはあたしが決めるんだから…
お前は軽口叩きながら、あたしの後を付いてくれば良いんだよ。
✩.*˚
眩しいな…
そう思ってうっすらと目を開けた。
どうやらあたしはまだ死んでないらしい。
毒の摂取量が少なかったか、解毒が間に合ったのか?
どちらにしても寝てる場合ではない。
身体を起こそうとしたが、自由が効かない。
痺れたような感覚がまだ残ってる。
「…ラィ、ナー…」
近くに居るだろ?呼んだら来いよ…
「ヒルダ?」マリーの声が聞こえた。
「目が覚めたの?今喋った?大丈夫?」
矢継ぎ早に質問する彼女はあたしの手を握った。
「私今どっちの手握ってるか分かる?」
「右だろ?痺れてるけど分かるよ…」
「じゃあこれは?指何本見える?」そう言って彼女は両手で指を立てた。
右二本と左一本指を立てて見せる。
「三本」
「良かった…」とマリーがその場に座り込んだ。
随分心配してくれたみたいだ…悪い事をした…
「…マリー、ヘイリーは無事か?」
「彼は無事よ。
シュミットが逃がしたそうよ」
「そうか…褒めてやらないとな…」
やっぱりあいつは頼りになる。
それに比べてあたしは油断しててこの体たらくだ。
それにしても、目を覚ましたら一番に飛んでくると思ったのに、彼の姿が見当たらない。
「マリー、ライナーはヘイリーと一緒か?」
「彼なら…貴方の隣のベッドに…」
視線をめぐらせると、視界を遮る衝立が隣にあった。
その向こうにもベッドがあるらしい。
「寝てるのか?」と尋ねるとマリーの仮面が泣き顔になった。
彼女は何も言わないが、彼女の感情を映す仮面を見て、最悪の事態を悟った…
「…やられたのか?」
マリーが黙って頷く。
それが全てだった…
それ以上でもそれ以下でもない。
衝立に向かって手を伸ばそうとしたが、虚しく空を掻いただけだった。
「マリー、これを退けてくれ」
動けない自分に代わって、小さい友人に目隠しを退けて貰えるように頼んだ。
彼女は躊躇って二の足を踏んだ。
「まだ綺麗にしてないから」と彼女は言ったが、そんなこと関係ない。
「良いんだ、見せてくれ」
マリーは「でも…」と嫌がった。
「いい、自分でする」
マリーがしてくれないなら自分でするしかない。
私が起き上がろうとするとマリーが悲鳴を上げた。
「止めてよ!無理しないで!」
「ならこれを退けろ!」
感情が爆発する。
マリー相手でも言葉が選べない…
「ライナーに会わせろ!
今すぐだ!あたしが会うって言ってるんだ!
そんなもの邪魔だ!退かせ!」
「そんなに興奮しないで!」
お互いに引かないから二人で言い合いになる。
ベッドを囲むカーテンの向こうで物音がした。
「マリー、何を騒いでいる!?」
聞こえてきたのはイール王子の声だった。
マリーが慌てて声のした方を向く。
カーテンをめくって彼が中に入ってきた。
「イールお兄様!ヒルダが…」
「気がついたのか?」
「ライナーに会わせろって…」
その言葉に彼も言葉を失った。
みんな知ってるんだ…知らなかったのはあたしだけ…
「お願いだ…」怒りの次に悲しみが溢れた。
「彼に会いたい…」
自分で身体を起こす事も、涙を拭うことも出来ない…
あたしは無力だ…
「…分かった」とイール殿下が静かに答えた。
マリーが兄に抗議したが、彼は「自分が責任を持つ」と言ってくれた。
あんなに邪魔だった衝立は、いとも容易く撤去された。
障害物がなくなり、隣にライナーの横たわるベッドが現れた。
「…ライナー」
「起き上がれるか?
マリー、椅子をくれ」
イール王子が身体を起こして肩を貸してくれた。
彼は、マリーの用意した椅子に私を座らせた。
目の前にはよく見知った顔がある…
もう彼は私を呼ばない…笑いかけることも無い…
青白い顔色は死人のそれだった…
私が彼の死を招いた。
「…よくやった、ライナー」
彼の欲しがるであろう言葉をかけた。
彼は立派に戦って死んだのだ…
守られていただけのあたしに、勝手に死んだと彼を責める権利は無い。
「お前の功を称える…
フィーアの南部に生を受けた男として誇れ」
「…良いのか?」とイール王子が問うた。
「貴殿らはそんなただの主従では無いだろう?
もっと仲が良いように見えたが…」
「…そうだな…
なんでも話せる父親みたいな…そんな人だった」
親父殿に言えないようなことでも、彼とは共有できた。
彼の前では虚勢を張らずに我儘な娘でいられた…
「二人きりにして欲しい」とイール王子に頼むと彼はまた「分かった」とだけ答えた。
「マリー、お前もだ」
「でも…」
「馬鹿な真似はしないだろう?
彼に救われた命だ」
痛い事を言う…
あたしがマリーに頷いて見せると、彼女の仮面は泣き顔になった。
何でマリーが泣くんだよ…
何か思い出させてしまったのかな?
マリーが泣いてたら、あたしが泣きにくくなるだろうが…
カーテンの向こうでドアの閉まる音がした。
「ライナー…」意を決して彼の名を呼んだ。
「あんた、最後までとんでもない貧乏くじだよ」
「ありがとう」とか「ごめん」とかそんな言葉も出てこない。
「誰があたしの髪を切るんだよ…
親父殿が怖くて、あんた以外、誰もこんな仕事したがらないよ。
どうしてくれんのさ…」
眠るような横顔に恨み言を言ってやった。
あたしらはこういうお別れの方がお似合いだよな…
あんたは「また伸ばせばいいじゃないですか」って軽口を叩いて笑い飛ばすんだろうな。
頬に涙が伝う。
太腿の辺りに涙が落ちて染みを作った。
怒りと悲しみが、胸の辺りで虫のように蠢いている。
ムズムズと気持ち悪い…
「こんなに早く放り出しやがって…
もっと世話かけてやる予定だったのにさ。
あんたは身軽になっただろうが、あたしはまた一つ荷物が増えたよ」
《毒蜘蛛》は絶対に許さない…
見つけたら間違いなく殺す。
あたしの一生かけて潰してやる。
頭も足も残さず全ての《蜘蛛》殲滅する。
「あんたの為じゃないよ、あたしの為だ。
あんたの為にあたしの一生をくれてやる気は無いよ」
そんなの気持ち悪いだろ?
あたしはそんな殊勝な人間じゃない。
「あたしは《盾の乙女》だ。
手を出した相手が悪かったって、奴らに恐怖を植え付けて、後悔の中で殺してやる」
この屈辱は一生忘れない。
やられたままで、泣き寝入りするような女だと思うなよ!
✩.*˚
何でこうなった…
「カッパー!カッパー!
お前、アルフレートにもなれるのか?」
「真似する?」とカッパーは懐っこい様子でトリスタンに尋ねる。
カッパーに服を着せながら、ウィルがトリスタンを睨んだ。
最初この部屋に来た時に、蛇の姿をしたカッパーを見てしまったので、私は少し気分が悪い。
「トリスタン!カッパーを玩具にするな!
カッパー、君もあの男の言うことは聞かなくていい」
「トリスタン、助けてくれた」
「そうだぞカッパー!お前賢いな!
俺が居なかったらお前も親父殿も《蜘蛛》に良いように振り回されてたんだぜ」
確かに助けられた。
カッパーを襲おうとした《蜘蛛》も、私が追いかけてた《蜘蛛》もトリスタンが仕留めた。
信じ難いが、彼が言うには《蜘蛛》からは変な匂いがするそうだ。
私たちには全く分からない。
「で?何でお前は戻ってきたんだ?」
「…何となく?」と答えるトリスタンは自分でも分からないと言った感じだ。
動物か?
全く、トラブルを嗅ぎつける勘の良さだけは相変わらず獣並だ。
「フィッシャー、お前もだ。
何で連れて帰らなかった?」
「大旦那様、お言葉ですが、大旦那様が手を焼くのに私がお止めできると思いますか?
《狂女》に止められるか、トリスタン様に斬られるかの二択ですよ」
うむ、お前も可哀想だな…
「それより、せっかく俺が《蜘蛛》捕まえたり、忠告してやったのに、無視されるとさすがに傷つくぜ」とトリスタンは不満そうだ。
「確かに今回は役に立ったな…」と私が答えると、ウィルとフィッシャーも苦い顔で頷いた。
「癪ですが…」
「空振りだったら最悪でした…」
「お前ら酷くない?
俺の味方はカッパーだけかよ?」
トリスタンが拗ねながらカッパーの頭を撫でた。
その手で私に触れるなよ…
トリスタンはカッパーを気に入ったようだが、私は屋敷で蛇を飼うのは絶対に許さないからな…
「それはお前の普段の行いの結果だ」と伝える。
彼の信用は悪い方のベクトルを向いている。
問題を嗅ぎつける能力と同じくらい、問題を起こすからだ。
「自業自得だ」とウィルが呟く。
「自由すぎるんですよね…」とフィッシャーも彼に賛同した。
「それより大旦那様、この城の《蜘蛛》はさっきの二人だけですか?」
「分からん、まだ居るかもしれん。
カッパーの護衛だけは何とかしなくては…」
ウィル一人では心許ないな。
カッパーが殺されるのも困るが、それ以上に侯爵の不在がバレるのがまずい…
アーケイイックに残してきたヘイリーとヒルダも心配だ。
ライナーは無事アーケイイックに着いて、預けた手紙を渡せただろうか?
彼が居るなら幾分安心要素が増える。
「ところで、本物のヘイリーは何処なんだ?」とトリスタンが尋ねた。
今回は役に立ったし、少しくらい教えてやるか…
「アーケイイックだ。
ヒルダと一緒だから安心しろ」
「…はぁ?なんでまたそんな事になってんだよ?」
「侯爵も療養だ」
「ふーん…最初っから教えてくれりゃいいのに、俺だけ除け者にして意地悪くね?
親父殿も案外ガキみたいなことするんだな」
トリスタンに言われるとイラッとするな…
お前がもっとしっかりしてたらとっくに相談してる。
「俺、アーケイイック行ってこよっかな?」等と言い出したトリスタンは全く反省していない。
「お前はアーケイイック出禁だ。
ルイ王子にちょっかい出したのを忘れたのか?」
「あー、あいつらまだ怒ってんの?
あいつら冗談通じないのな」
「冗談では済まないことをしたんだ!
絶対勝手なことするなよ!
今度はヒルダが仲裁しても私が許さないからな!」
「おー!怖ぇーな!また串刺しか?勘弁してくれ」
相変わらずふざけた奴だ。
何で数ある弟子の中でこれを息子に選んだのか、未だに後悔する。
「とりあえず、トリスタン。
城にまだ《蜘蛛》が残ってないか確認して来い」
私の指示を聞いて、トリスタンの左右異なる瞳に狩猟犬のような光が宿る。
全く、この獣め…
「アルフレート、行くぞ」と颯爽と出ていこうとする彼をフィッシャーが呼び止める。
「大丈夫、大丈夫」とヘラヘラ笑ってるトリスタンは誰がどう見ても大丈夫じゃない。
「大旦那様!よろしいんですか?
お屋敷でも被害を出したんですよ!」
「私は確認して来いと言ったんだ。
騒ぎは起こすなよ」
「向こうが暴れなかったらなー」と笑うトリスタンは信用ならないが、今の所結果を出してるのは彼だけだ。
フィッシャーが止めてくれれば良いが…
無理だろうな…
トリスタンはカッパーに「またな」と挨拶して部屋を後にした。
「また、って」とカッパーがヘイリーの顔で笑う。
彼もトリスタンを気に入ったようだ。
「…もう来なくていいです…」と疲れた顔のウィルがボヤいた。
私も同じ思いだ…
城の修繕が必要なのは目に見えてる。
さっさとラーチシュタットに帰ってくれ…
✩.*˚
廊下にマリーと並んで立って、薬草の鉢植えを眺めていた。
朝露を含んだ緑の葉に朝日が宿る。
昨晩は寝れなかったから余計に眩しく感じる。
よく生き延びたと思う。
全身の筋肉を弛緩させる猛毒…
生物毒には基本解毒薬は無い。
一部の魚や昆虫に似た毒を持つものが居るが、対処法は、呼吸が安定するまで人工的に酸素を与え、心臓が止まらないように見張ってるしかない。
下手に手を出せば逆効果だ。
毒を吸う希少な魔石も、彼女の防殻に妨害されて使えなかった。
「父上の本に助けられた…」
《シークの薬見本》に蜘蛛の毒の対処法が記載されてた。
陛下の変な発明にも救われた。
水中で呼吸するための口に含む変な道具。
一応使う場所があったんだな…
「本当に彼女は強運ね…
あとものすごく丈夫…」
「確かに…」
毒自体も少量だったのだろう。
二時間もすれば呼吸が戻った。
それは毒が体内で分解された事を示している。
普通の人間より丈夫という《祝福》の効果もあるのだろう。
でも、命が助かったことが彼女の救いとは思えない。
私が過去に味わった絶望を、今彼女は味わっている。
ステファノの遺体を見た時の絶望を、私は今も鮮明に覚えてる。
普通の死に方じゃなかった。
あんな死に方をするような奴じゃなかった…
「…イールお兄様?」
「…何でもない…ステファノを…少しだけ思い出しただけだ…」
「何でもなくないじゃない…」
そう言ってマリーは部屋の方を見た。
「ヒルダ…大丈夫かしら?」と心配を口にした。
蘇生ができるのは生きられる人間だけだ。
シュミットはその枠から外れていた。
全身に毒が廻り、首の傷も致命傷ではないが重傷だった。
血も多く失っていた。
彼の剣は、死闘を示すように歪んでいた。
それでいて、死に顔が穏やかだったのは、安心して死ねたからだろう。
彼は我々がヒルダを助けると信じていたのだろう…
結果的に彼の信じた通り、ヒルダは生き延びた。
「そんなとこで何してんのさ?」と声がしてミツルが現れた。
ミツルも昨夜の話を聞いたのだろう。
お節介を焼きに来たようだ。
「ヒルダが、二人だけにしてくれと言ったから、ここで待ってる」と答えた。
「それって大丈夫なの?」とミツルは訊いてきたが、その答えは私も持ち合わせていない。
ただ、彼女のささやかな願いを叶えてやりたかった。
私にできることなんてその程度だ…
「お前はお節介すぎるんだ、別れくらい二人きりにしてやれ。
陛下は、彼の遺体を早めにフィーアに送り返す意向だ。
あと一時しか一緒に居られないし、彼女は彼の葬儀にも出れない…
今は邪魔してやるな」
「…分かった…それならヘイリーの所に行ってくる」
「彼女が無事だと伝えてくれ」
「分かった。
また後で連れてくるよ」
そう言って彼は素直に帰って行った。
あいつはバカだが良い奴だ。
ステファノが人間に殺されたと知って、私は怒りの矛先を、彼と、彼の世話をしてたベティに向けた。
ルイと陛下が止めてくれなければ、二人の命を奪っていた。
何も考えられないくらい、深く傷ついていた。
それでもミツルは私を許した。
私は本気で彼を殺す気だったのに、彼は懐っこく、私が閉じ込められた塔に上り、扉越しに『友達になろう』と言った。
あいつは本当にバカなんだ…
放っておけないくらいバカだ…
でもそのバカに救われた…
お前なら彼女を救えるのか?
その役目は私では無理なのか?
どうしようもない思いがぐるぐると巡った。
「…イールお兄様、ヒルダが呼んでるわ」
マリーに袖を引っ張られてやっと気づいた。
ヒルダのよく通る声が聞こえた。
「来てくれ」と聞こえた。
「何だ?」と部屋に入ってベットの間仕切りのカーテンを開けた。
「煙草はあるか?」と彼女は言った。
「ダメよ、今は…」とマリーが止めると、ヒルダは、「あたしが吸うんじゃないよ」と少し笑った。
「ライナーに吸わせるんだ。
戦場で、死んだ兵を簡易的に葬る時にする、儀式みたいなものだ」
「どうしたらいい?」
私はポケットから、彼女から預かってた煙草入れを取り出した。
煙草は、最後の一本になっていた。
「火を点けて、彼に咥えさせてやってくれ」とヒルダが言った。
「分かった…」と彼女に応えて、煙草に火を灯した。
バニラの香りを含んだ煙が立ち上る。
硬直したシュミットの口を少しこじ開けて、煙草を咥えさせた。
ヒルダに視線を向けて、これでいいかと視線で問うた。
彼女は満足そうに微笑んで、小さく頷いた。
「…ありがとう、イール殿下…」
彼女の白い頬にまた一筋涙が伝って、いつの間にか差し込んだ陽の光を含んでそのまま落ちた。
そんな彼女の姿を、美しいと見とれた自分を強く恥じた…




