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魔王と勇者のPKO  作者: 猫絵師
フィーア王国交流編
43/58

毒蜘蛛

《毒蜘蛛》は依頼がなければ普通の人間と変わらない。


農夫をしてる者もいれば、医者のような仕事をしてる者もいる。


貴人に仕えている者もいる。


私がそうだ…


まだ夜が明けぬ中、私は上司と一緒に荷物を持って飛竜を引き出した。


「ライナー、フランツ、頼んだぞ」


「お任せを、大旦那様」


シュミット様が家宰様に応えた。


ヒルデガルト様の世話役であるライナー・シュミット様は《蜘蛛》では無い。


彼は昔からからヴェストファーレン家で働いていて、その働きを主から認められている。


彼の護衛を任された私は《蜘蛛》だが、ヴェストファーレンを脅かすほどの技量は持ち合わせていない。


それに、私が《(かしら)》から受けた依頼はこの男の暗殺ではなかった。


それは別の奴の仕事だ。


《黒い狐の友人》を探ることだ。


彼には何か特別な秘密の《お友達》が居るらしい。


私はヴェストファーレンではなくシュミット様に擦り寄った。


彼は人の良い男であり、ヴェストファーレンの娘の世話役だ。


案の定、彼は私を信用して、自身とお嬢様の警護を任せた。


しかし、お嬢様は思っていたようなもんじゃなかった。


《お転婆》や《じゃじゃ馬》という単語では現せない規格違いの《化け物》だった。


男を見下ろす高身長に、男のように短い金髪、鷹の目のような鋭い緑の瞳を持った大女。


強力な防御魔法の使い手で、自由に魔法で作った防殼を操る。


破城槌さえ彼女にとっては小枝のようなものだ。


誰が言い出したかは定かではないが、《歩く要塞》という表現には頷かざるを得ない。


はっきり言って護衛なんか必要なさそうだが、便宜上必要だから雇わざるを得ない。


なんと言っても彼女は一応お嬢様なのだから…


そのお嬢様は今、アーケイイック連邦王国にて療養中だ。


あの要塞女に怪我を負わせられる連中がいたらしい。


彼女も一応人間で間違いなかったようだ。


《黒い狐の友人》とはアーケイイックの《魔王》の事だった。


未知の国アーケイイックを先日初めて訪れた。


アーケイイックと言っても、フィーア側から入ってすぐの開けた平野に集められた。


何も無い平地で、南部侯一行は魔王の歓待を受けた。


アーケイイック王は魔王を名乗るにふさわしい出で立ちで、強力な軍隊、未知の魔法を我々に見せつけた。


魔王が用意した天空を泳ぐ巨大な飛竜船には、大量の武器と防具、魔石が積み込まれていた。


魔王は惜しげも無く、その船ごと侯爵に贈った。


想像以上に彼等は親密な仲らしい。


確かに、今までも一週間程ヴェストファーレンを見失うことはあったが、まさかアーケイイックに行っていたとは…


私が調査を始めたのは五年ほど前からになるが、アーケイイックとの友達付き合いは既に三十年近く経とうとしているらしい。


今までは、そこまで大きな取引をしてなかったから大っぴらになかっただけだ。


ヴェストファーレンは、もはやアーケイイックとの関係を隠す気が無いらしい。


それは両者の関係の良好さを示すものだ。


フィーアはオークランドと戦も控えているが、アーケイイックと同盟関係になれば非常に厄介なものとなる。


私もそろそろ潮時だろう。


あのお嬢様ともそろそろお別れしなくては…


「ライナー、ヒルダはあの性格だ…粗相が無いよう見張ってやってくれ」


「あの方はラーチシュタットの女王様です。


私如き非才の身ではお止めできません」


大旦那様の言葉で、思い出したようにシュミット様が含むように笑った。


「そんなふうに呼ばれてるのか?」


「兵士たちからは人気です」


「やれやれ、頭が痛くなる…」


「その割には大旦那様はヒルデガルト様とトリスタン様を甘やかしておいでです」


「扱いに困ってるだけだ…


あれにドレスを着せて座らせておくのは不可能だ」


「そんな他人と同じ様なつまらない枠に収まるような方ではありませんよ。


溌剌としていてお元気で、よろしいことではありませんか?」


「ものはいいようだな…」と大旦那様は苦笑いで応じた。


「特使の旗と王城への指針を預ける」


気を取り直して、大旦那様はヴェルフェル家の紋章の入った旗と、手のひらに収まる小さなコンパスを我々に預けた。


「このコンパスが王城を指している。


この通りに進めば最短距離で城に辿り着く。


アーケイイックの特使の旗は見えるように掲げろ。


これが無いと略奪者と間違われて襲われる可能性がある」


「御意」


「私の名代という大役だ、励め」


「ははっ!」


畏まって返答する我々に、大旦那様は満足されたようだ。


騎乗用の飛竜と、それに繋いだ運搬用の飛竜を連れてアーケイイックに向けて飛び立つ。


《頭》の喜ぶ情報を持ち帰れば報酬が貰える。


そうなればフィーアを引き払い、オークランドに移る予定だ。


次は何を装うか考えておかねばならない。


「フランツ、平気か?」


余所事を考えていた私にシュミット様が問いかけた。


「アーケイイックまでは遠い。


お互いに無理せずに目指そう」


人の良い彼は私を気遣って声をかけたのだろう。


彼は誰からも好かれるような、おおらかで優しい男だ。


「ありがとうございます」と答えてベルトに触れた。


ベルトに忍ばせた暗器には《毒蜘蛛》が使う毒が付いている。


使わないで済めば良いが、必要なら迷わずこの男にこれを使う。


魔王の王城を指し示すコンパスは、人間側からすれば喉から手が出るほど欲しい品だ。


あれを持って《頭》とところに戻れたら最高だ。


しかし、焦って事を荒立てるわけにはいかない。


私は隠れ潜む《蜘蛛》なのだから…


✩.*˚


「ライナー!早く着替えをくれ!」


お嬢様の第一声が「煙草」じゃなかったので、私は少し驚いた。


無事に辿り着いたアーケイイック城の一室に、フランツと一緒に通された。


荷物を運ぶのを手伝ってくれた獣人の兵士たちも、お嬢様を見てポカンとしている。


もう昼も過ぎたと言うのに、彼女はまだ寝巻きのような格好をしていた。


「如何なさいました、お嬢様?」


挨拶もそこそこに、お嬢様は兵士から荷物を奪って中身を確認する。


ご機嫌が悪いのか、眉間には皺が刻まれていた。


「どうもこうも…


世話係のエルフのお姐様方が、わざわざ自分達と同じような服を用意して着させようとするから困ってるんだ!


見ろ!そんな乙女みたいな服着れるか!」


そう言ってソファに撓垂(しなだ)れ掛かったドレスを指さした。


少し透け感のある淡い紅色の生地と白い光沢のある布を重ねたシンプルな作りのドレスだ。


わざわざ(こしら)えてくれたのだろう。


丈も問題なさそうだ。


「はぁ…よろしいではありませんか?」


「いいわけあるか!


あぁいうのは、華奢でお綺麗なエルフが着てるから良いんだ!


あたしが着たら笑いもんだろうが!」


随分ご立腹だ。


余程ドレスが着たくないと見える。


お嬢様の首元には、見覚えのない首飾りが光っていた。


華奢で繊細な作りの、それこそ女性のするような首飾りだ。


「首飾りはしてもドレスはダメなんですか?」と私が口にすると、彼女の荷物を漁る手が止まる。


首飾りを外そうと手を伸ばしたが、逡巡して彼女は手を持て余した。


「…あたしの勝手だろ」


「そうですね。


ところで大変申し上げにくいのですが、その荷物は侯爵様のお荷物ですよ」


「なっ!?」


私の言葉にお嬢様だけでなくフランツも声を上げて驚いた。


彼はヴェルフェル侯がここにいるのを知らされていない。


「シュミット様、侯爵様はアインホーン城では?」


「悪いがそれ以上知りたがらない方がいい。


私も多く知ってる訳では無いからね」


曖昧に言葉を濁したが、私も家宰様から必要最低限の話しか伺っていなかった。


あの方は実に用心深い。


《毒蜘蛛》に狙われている以上、情報をばらまく訳にはいかない。


人の口に戸は立てれないのだ。


私も最低限の情報だけで納得している。


「じゃあ、あたしの服はどこだよ?」


お嬢様は着替えを探してまた別の荷物に手をかけた。


中から出てきたのはまたハズレだ。


「まぁせっかくご用意頂いたんですから、一度くらい袖を通してみてはいかがですか?」


ドレスを両手で捧げるように差し出すと、お嬢様の凛々しい瞳に睨まれた。


「ライナー!お前バカか!


さっさとそんなの下げろ!


ドレスなんてあたしの視界に入れるな!」


やれやれ…やっぱりダメか…


髪を切った日から、随分気難しくなってしまわれた。


最後にドレスを着て、髪を結ったのはいつだっただろう?


死ぬ前にもう一度拝みたいものだが、なかなか難しそうだ。


私の思いなどつゆ知らず、お嬢様はお目当てのものを見つけたらしい。


喜んで着替えを引っ張り出した。


「あー、助かった…」と言いながらそのまま着替えようとする。


さすがに止めたが、お嬢様は全く気にしない。


「皆さん、一旦出ましょうか?」と兵士たちとフランツをドアの外に締め出す。


全く、少しは周りを気にして欲しい…


貴女は自分で思っている以上に美しい女性なんですよ…


ため息を吐いて肩を落とす私の背中に、お嬢様は意地悪く笑った。


「ドレスなんか勧めるから、仕返しさ」


少女のようにいたずらっぽい声で笑う彼女は、もうあらかた着替えを終えている。


「やっぱりこっちの方がしっくりするな」


そう言いながら男装を整えたお嬢様は、服の上から首元に触れた。


服の上から確認するように首飾りを撫でる姿に何か引っかかるような感情を抱いた。


まさかな…と、自分に都合の悪い考えを振り払って、お嬢様の脱ぎ捨てた寝巻きを拾った。


着替えを終えて満足したのか、お嬢様はやっといつもの調子で「煙草」と言って手を伸ばした。


✩.*˚


城の廊下をオリヴィエと歩いていると、ふっと風に乗って微かに嫌な匂いがした。


子供の頃の記憶が蘇る。


大人たちに教えられた、絶対避けなければならない匂いに似ていた。


「どうした?シャルル?」


匂いに気を取られてその場で棒立ちになった私にオリヴィエが問うた。


「…いえ…ちょっと匂いを拾っただけです」と言葉に濁した。


匂いはすぐに消えてしまったが、私は鼻の良さには自信があった。


城の一角にある兵士の詰所に戻って「何か変わったことは?」とヴォイテクに尋ねた。


「ヒルダ嬢の従者を名乗る者達が、彼女らの荷物を届けに来たそうだ。


荷物を運ぶのに兵士を三人ほど貸した」


マリー様から頂いた蜂蜜の飴を舐めながらヴォイテクが答えた。


先日の魔力消費が堪えたらしい。


彼の調子が戻るまでしばらくかかりそうだ。


「荷物に変わったことは?


赤に黒い縞模様の小さな蜘蛛は見てませんか?」


「さぁ?見てないが…


それが何か?」


「もし見つけても触るなと伝えて下さい。


そんなに素早くないし、余程のことがなければ攻撃してきませんが、瓶か何かに入れて捕まえて下さい。


熊も簡単に殺せる毒を持った蜘蛛です」


「物騒な生き物だな。


旦那、気を付けな」


「それが彼らの荷物の中にいるのか?」


「分かりませんが、匂いを拾ったので…」


たまたま踏んだとかそういう事なら良いのだが、もしあの蜘蛛が荷物に潜んでいたら危険だ。


「心配です、ヒルダ嬢にお伝えせねば…


もし蜘蛛がいたら一大事だ」


「振られたばかりなのに?」


オリヴィエが私を茶化した。


先日、陛下を通して正式にお断りの返事を頂いたばかりなのだ。


「リュヴァン族は一途なんですよ」と答えて私は詰所を後にした。


✩.*˚


「失礼致します。


ヒルダ嬢は?」


ライナーが開けたドアからヌゥっと入ってきたのは狼男のシャルルだった。


デカすぎて屈みながらドアを潜る。


その姿にライナーも圧倒されたのか数歩下がった。


あたしの姿を見つけたシャルルは「やぁ、愛しい人(シェリー)」とキザに言って尾を振った。


「とても凛々しいお姿ですが、普段からその姿なのですか?」


あたしの男装を指しているのだろう。


「あたしは女の格好はしない。


それよりあんたには、親父殿から嫁に行くのを断ったはずだ。


よく顔を出せたな」


「陛下からお返事は伺いました。


しかし、リュヴァン族は一途なんですよ。


悪い言い方をすれば諦めが悪いんです」


「恋するのはあんたの勝手だが、それをあたしに求めるのは押し付けがましいってもんだ。


分かったら回れ右してドアから出てってくれ」


「これは手厳しい…」


狼男はふふっと笑った。


あたしとシャルルの間に割り込むようにライナーが入り込んだ。


「ご用向きなら私が代わりに伺います」とライナーがシャルルに伝えた。


彼は穏やかだが南部の男らしく肝が座ってる。


ヴェストファーレンに長く仕える忠臣だ。


彼は頼りになる。


「貴殿がフィーアから荷物を届けに来てくださったお使者ですか?」


「ヴェストファーレン家より参りました、ライナー・シュミットと申します」とライナーが答えるとシャルルも彼に名乗った。


「アーケイイック王親衛隊副隊長シャルル・リュヴァンと申します。


隊長であるルイ・リュヴァン王子は只今不在ですので、代理を務めさせて頂いております。


ところで、単刀直入にお伺い致しますが、《蜘蛛》を見ませんでしたか?」


「《蜘蛛》?」


冷静な彼が少し動揺したのを見て「おや?」と思ったが、あたしが何か言う前にシャルルが言葉を続けた。


「この部屋の近くまで匂いを感じていたのですが、煙草の匂いで見失いました。


私の故郷では最も危険な毒を持った《毒蜘蛛》です。


荷物に紛れていたりしませんでしたか?」


シャルルは冗談を言っているようには見えなかった。


「それは…隠語ですか?」


「いいえ?かなり小さい、虫の蜘蛛です。


赤い体に黒の横縞の模様で、足の先が黄色です」


「お話は分かりました。


私共で荷物を確認致します。


フランツ、気をつけながら確認してくれ」


少し離れたところに立つフランツに指示を出して、ライナーはシャルルに向き直った。


「ご親切に教えてくださってありがとうございます。


おかげで命拾い致しました」


「私が見た方が確実です。


図々しいお願いですが、荷物を改めさせては頂けないでしょうか?」


シャルルはそう言ってライナーに交渉したが、彼はシャルルの申し出をやんわりと断った。


「それには及びません。


我々のならともかく、お嬢様のお荷物や侯爵様のお荷物もございます。


ご容赦くださいませ」


「本当に危険な蜘蛛なんですよ」と食い下がるシャルルも必死だ。


それでもライナーは頑として彼の申し出を断った。


「シャルル殿のお気遣いとご忠告感謝致します。


しかし、私もヴェルフェル侯爵様と家宰様にお仕えする身です。


お二人の為にも引き下がる訳には参りません。


この場はどうかお引き取り下さい」


ライナーは一歩も引かずシャルルの申し出を断った。


あたしは別にどうでも良いんだけどな…


取り付く島もないライナーに諦めたのか、シャルルは小さな瓶を置いて帰って行った。


「見つけたら触らずに捕まえて欲しいそうだ」と言ってフランツに瓶を預ける。


「荷物くらい彼に確認させても問題ないだろ?」


「高貴な身分の方のお荷物を改めさせるなど無礼極まりない申し出です。


しかも、未婚のご婦人の荷物ともなれば尚更です」


ライナーは珍しく不快感を漂わせていた。


それに対してフランツは黙々と荷物の中を取り出しては確認を続けている。


「《蜘蛛》、《毒蜘蛛》と聞いてヒヤリとしました…」


「…そういえば、また湧いてきてもおかしくないな」


《蜘蛛》という隠語は暗殺者に使われる物騒な単語だ。


それで『隠語ですか』などと言ったのか…


戦争を控えているし、奴らが暗躍していてもおかしくない。


ライナーがため息を吐いた。


「先日トリスタン様が襲われました」


「はあ?!あいつ大丈夫なのか?」


「ご無事です。


その後も《燕亭》のミセス(フラウ)・レギーナが嗅ぎ回ってる男がいると知らせてきました。


《燕》達に他の《蜘蛛》を探させていますが、なかなか見つけるのが難しいのが現状です」


親父殿の子飼いの諜報部隊の《燕》まで駆り出させてるのか…


「ライナー、親父殿はなんて?」


「大旦那様は、アーケイイックはフィーアより安全だろうと仰っていました。


それでも侯爵様から目を離すなと…


今はどちらに?」


「マリー王女の所だ。


あたしが着替えを嫌がったから置いていかれた…


勇者が一緒だから多分大丈夫だと…」


あたしの返答にライナーが手のひらで目元を覆った。


言いたいことは分かるが、あたしにだって言い分はある…


「あんなドレスじゃなくてちゃんと男の服を持ってきたら良かったんだ!


ヘイリーはヘイリーで、着たきりの服では同行を許可しないって言うし!


あれは嫌がらせだ!」


「…褒められたことではありませんね…


着替えくらい何ですか…そんな理由で侯のお傍を離れるとは…


不用心が過ぎますよ」


「わ、分かったよ!


マリーのところに迎えに行くからそんな顔するなよ!」


「心構えが足りませんな」


「やめろよ、お前の講義は長くなる」


跳ね上がるようにソファを立つと、ライナーも席を立った。


どうやら付いてくるつもりらしい…


「荷物片付けてろよ」と同行を拒否すると、彼はこれみよがしに首を横に振ってため息を吐いて見せた。


「ここはフランツ一人で事足ります。


私が必要なのはお嬢様の方ですね」


「しばらくあんたのお小言から解放されて伸び伸びしてたってのに…」


「それは寂しかったでしょうね?」とライナーは笑っていた。


娘がいるからという理由で、女の子の育てかたが分からないという親父殿にあたしの世話を任されたライナー…


確実に貧乏くじを引かされているのに、何でそんなに楽しそうなのかね?


✩.*˚


部屋を任されて出ていく二人を見送った。


嫌な汗をかいている。


お嬢様が煙草を吸ってなければ…


シュミット様が主人の名誉を守ろうとしなければ…


私が《蜘蛛》であることが露見していただろう。


結果的に運良く見逃されただけだ…


ここに長く留まれば確実に私の正体が露見する。


私の仕事は情報を持ち帰ることだ…


侯爵がアーケイイックに滞在してるのを知っているのは恐らく《蜘蛛》では私だけだろう。


アーケイイックに放逐されたとしても、時間さえあれば逃げ切って《頭》の所に戻ることは可能だ。


一般人に混ざって生きていたが、最低限の生きるための心得はある。


西か北に逃げれれば落ち延びられるはずだ…


私は荷物の中に潜めていた毒を手にした。


狼男が言っていたのは恐らくこれのことだ…


使用する時は僅かにナッツのような匂いがするが、よく密閉された瓶を嗅ぎ分けたものだ。


恐ろしい嗅覚だ。


熊も殺す小さな蜘蛛から採れる毒は、素早く対象者の筋肉を弛緩させることで体の自由を奪う。


入手と扱いが難しいが、気付かれないくらい極微量でも十分な効き目があるのがこの毒の利点だ。


使用すれば心臓も肺もその機能を十数秒で停止させる。


いくら防殼魔法に優れていても、これだけは防げまい。


シュミット様も侯爵様も、刃を通さないあのお嬢様に比べれば簡単に始末出来る。


問題はお嬢様に致死量の毒を摂取させる方法だ。


食べ物や飲み物では毒味役の自分が先に死ぬし、運良く口に運んでも同時に食べなければ意味が無い。


一人でも気づいて騒げば無駄になる。


とにかく口に入れるもので、匂いに勘づかれずに、自分から体内に招きこんで貰えるものが一番いい…


「…煙草か」


吸口に細工をしておけば、吸う時に経口摂取することになる。


十本入の煙草の箱をひとつ抜き取って細工を開始した。


どれを吸っても毒が滲むようにした。


あとはお嬢様に頼まれた時にシガーケースに移すだけだ。


問題は致死傷に至らなかった時だが、それでも体の自由を奪うくらいの効果はある。


あとは期を待つだけだ…


✩.*˚


「…あぁ、もうこんな時間か」


時計を確認するともう夕方に差し掛かる時間だった。


古い絵本を閉じてカッパーに視線を向けた。


「また後で読んでやる。


餌を用意してくるから、部屋から勝手に出るんじゃないぞ」


「うん」ヘイリーの顔をしたカッパーが子供のように頷く。


たかが蛇だと思っていたら子供くらいの知能はあるらしい。


本に興味を持つとは驚きだ。


公用語のパテル語が少し読めるらしく、フィーアで使用されるライン語も教えてみたら少し理解した。


暇つぶし程度にはなる。


古い絵本を引っ張り出してくると喜んでいた。


手を使い慣れていないのでページを捲ってやると絵と文字を眺めて目で追ってるようだった。


面白い生き物だ…


餌を用意するための水とすり鉢を持って帰ってくると、カッパーだけのはずの部屋の中から誰かの声がした。


「おいおい、ヘイリー?


どうしたんだよ?頭でもぶつけたのか?」


この声…


「トリスタン!勝手に入るなと師匠(せんせい)から言われてるはずだろう!」


「お前も不用心じゃないか?


それより、なんでこいつ俺の事分からねぇんだ?」


「それは…」返答に窮する。


トリスタンにはカッパーの事は知らされてない。


こいつに言うと面倒なことになりそうで嫌だ…


「顔色も調子も良さそうじゃねぇかよ?


なんでこんな部屋に閉じ込めてるんだ?


親父殿には護衛を増やすように言ったはずなのに誰も居やしねえ。


何か悪巧みか?」


「お前に関係ない」


トリスタンは「ふーん」と勘ぐるような視線を向けてきたが「ま、いいや」と言ってカッパーに向き直った。


「俺、明日ラーチシュタットに帰るわ…


それ言いに来ただけ」


「そんなの言うために来たのか?」


「もう此処には戻らないかもしれないしな…


ヘイリーの顔も見納めかもな…」


珍しくトリスタンが寂しげだった。


「死にに行くみたいだ」


「ははっ!そんなんじゃねえや!」


トリスタンは私に笑い飛ばしたが、彼の狂気がなりを潜めていることには気付いていた。


カッパーに笑いかけて、トリスタンはもう一つの言いたかったことを口にした。


「ヘイリー、ヒルダが戻ったらラーチに戻すなよ。


あいつに人殺しは向かねぇよ」


「…ヒルダ?」


「何故だ?彼女は十分戦える」


ラーチシュタットを任されているのは伊達ではない。


先日だってアーケイイックで大立ち回りを見せたばかりだ。


彼女がラーチシュタットから離れれば兵士の士気も下がるはずだ。


「あいつは俺とはまた別の欠陥品だ。


倒れた敵にトドメは刺さねえよ。


自分が頑丈だからって奢りじゃねえのは知ってんだ…


俺の汚れ仕事が増える、面倒だ」


「何で?」とカッパーに訊かれて彼は「分かるだろ?」と笑った。


「親父殿には言うなよ」と口止めして彼はカッパーの肩を軽く叩くと彼から離れた。


言いたいことを言ったので帰るのだろう。


「トリスタン」とカッパーが彼の背中に声をかけると彼の足が止まった。


「また来る?」と尋ねられた彼がどんな顔をしたのかは影になって分からなかった。


「悪いな、もう来ない」と答えてまたふらっと猫のように歩き出す。


「ウィル、《蜘蛛》に出し抜かれたくなかったら護衛を増やせ。


大切な侯爵様がやられちまっても知らねえぞ」


すれ違いざまにそう言って、トリスタンは振り向きもせずにふらっとドアから出て行った。


「あの人…悲しいの?」


ドアを見つめながらカッパーが私に尋ねた。


「…彼はいつもあんな感じだ」


勝手気ままに自由に振る舞う男だ。


いきなり喧嘩を吹っかけたかと思うと、ヘラヘラ笑いながら友達みたいに振舞ったり、おどけて見せたりする。


トリスタンの猫のような気まぐれに振り回されるのには慣れている。


「カッパー、餌の用意をするから少し待ってくれ」


そう言って私は彼の食事の用意を始めた。


✩.*˚


今日も侯爵用の料理は、配膳されたそのままの姿で捨てられた。


城に戻ってから一度も料理を口にしていない。


豪華な配膳は神に捧げられたかのように、そのままの形で厨房に戻される。


「侯爵閣下は食欲がない。


食事はもっと少なくていいし、粥のような軽いものにしてくれ」


ヴェストファーレン様の命令で食材が変更される。


毒を盛る隙がない…


城には既に数人の《蜘蛛》が出入りしているが、まだ誰も動いていない。


皆様子を伺っているのだろう。


帰城した際に顔は確認してる。


厨房を預かるベッカー様は、慣れた様子で献立を変えた。


侯爵の体調に振り回されるのは珍しいことではないらしい。


身体が弱いという噂は本当だったらしい…


全く、やりにくい相手だ。


確実に手が下せる状況でなければ実行には移せない。


残飯を食べた野良猫や使用人が死んだら毒が使えなくなる。


直接手を下すのは他の《蜘蛛》の仕事だ。


「おい、見習い」


「はい、何でしょうか?」


古参の調理師に呼びつけられて用事を言いつけられる。


「喜べ、樽いっぱいのじゃがいもの皮むきがあるぞ。


これやったら残った皮を豚小屋に置いてこい」


「かしこまりました」


厨房の隅でじゃがいの皮剥きをしながら周りを盗み見る。


ここで私は、田舎から出てきた、大人しい厨房見習だ。


隙を見て毒を盛るのに成功したら逃げるし、他の《蜘蛛》に先を越されたらまだこの城に居座り続ける。


《土蜘蛛》とはそういうものだ…


樽の中に芽の生えたジャガイモを見つけた。


緑がかった皮で、芽なんか出てたら使えない。


生ゴミに捨てた。


「…お前下手だな…もっと上手に溶け込めよ」


そう言って少しだけ笑った…


俺ならもうちょっと上手く溶け込めるけどな…

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